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僕にできること  作者: 冬夜
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僕にできること1

第一章 悩み


「ねえ、明日の予定ってどうなっていたっけ?」

六畳ほどの個室の中に鏡が並び、その前にチェアが3つ並んでいる。その一つに腰掛けてくつろいでいた青年が背後にいる青年に聞いた。青年は畳の敷かれた座敷の上がりに腰掛けて手帳を見ていた。

「明日は朝から入ってますよ。七時に迎えに行きますので、その時間には出られるようにしておいてください。それから、ドラマのロケに向かって、十五時には夕日テレビで番組の収録があります。その後、十九時には青山スタジオで歌番組のリハ及び収録があります。二十二時からはラジオの収録が入ってますので、1日いっぱいですね」

チェアに座っている青年は須佐野建すさのたけるといい、三十歳半ばほどの端正な顔つきで、特に目を引くというほどの顔つきではなかったが、誰からも好かれる人懐っこい表情と目には力強さを感じた。カジュアルな服装とやや短めの髪型から清潔感が現れていて、話し方も軽やかである。座敷の上がりに座っている青年は矢田剣やたつるぎといい、首から身分証のようなものを下げ、チェアに座っていた青年よりは、いくらか身だしなみを整えている様子で、動作にもきびきびしたものがある。須佐野よりは歳は若く見え、二十歳半ばほどのように感じられる。

須佐野は矢田の言葉を聞き、そのあまりの忙しさからかチェアの上でぐったりと崩れた。

「須佐野さん、ここしばらくずっと忙しいですけど、大丈夫ですか?家でしっかりと寝られてますか?」

須佐野の様子を見て、矢田が心配そうな声で言った。

須佐野は若いときから芸能界のアイドルグループの一員として活躍してきた。今ではアイドルとしての活動はグループとして出演するバラエティ番組や、歌手活動だけで、単独の仕事が多くを占めバラエティ番組や俳優活動が主になっていた。

矢田はそのマネージャーとして、ここ三年間は須佐野について仕事をしているが、須佐野が気に入ってくれているらしく休日も一緒に出掛けるなど、付き合いはそれ以上のように感じている。また、矢田のほうも須佐野の子供のような行動やしぐさなどに親しみを感じ、困ることもあったが須佐野と仕事をさせてもらっていることをうれしく感じていた。

「あー、今日ぐらい、パーと飲みに行きたいなー」

須佐野はまだチェアにぐったりとしたまま仰向けになって言った。矢田はその須佐野の言葉に答えることなく疲れている様子を見て微笑んでいた。

時間はもう二十二時になろうとしていた。今日の朝からの仕事も終わり、帰る前に楽屋で休んでいる時だった。しばらくして二人は楽屋を後にして矢田の運転する車で出た。須佐野は車に入るなり疲れた様子でどっさりと腰を下ろし、それを見て矢田は無理に話しかけずに運転をしていた。車中では、FMラジオのニュースが流れていた。

ラジオではその日に起こった事件や日本の経済状態の変化、各国の様子などが流れた。二人は聞いているのかいないのか、矢田は須佐野が寝ているのであればラジオを切ろうかなとも考えていたが、寝ている様子でもなく、黙って外の景色を見ていた。須佐野はラジオを聞き流しながら外の景色を見ていたが、その時、北朝鮮が核実験の準備をしているという報道が流れた。

-今夜、北朝鮮の朝鮮中央通信は3回目となる地下核実験を成功裡に実施したと発表し、今回の核実験は核兵器の小型化と爆発力の強化を行ったと述べた。

中国の地震ネットワークセンターとアメリカ地質調査所は、核実験の影響と考えられる振動を当初はマグニチュード四.九と発表し後に五.一と訂正した。このため日本政府はアメリカ合衆国との緊急会議を招集し、韓国は軍の警戒レベルを上げた。この爆発が核兵器によるものか核爆発を偽装した爆発かは不明としているが、核実験を偽装した証拠は特に見つかっていません-

運転を続ける矢田には須佐野が「んー」と体を伸ばしながら出した意味のない声でこのニュースに疑問を感じている様子だけが伝わってきた。そして、その日は矢田が須佐野を家に送るまで、須佐野から発せられた言葉はなかった。

「じゃ、また明日七時に迎えに来ます。三十分前に携帯へ連絡しますので、お願いします」

車を止めた矢田が言うと、須佐野はドアを開けて疲れた様子で車外へ出ると軽く手を振ってドアを閉めた。

中目黒のマンションに着くと、須佐野は考え事をしながらオートロックを開け中へと入った。エレベーターを待ち、部屋へと向かう間もずっとさっきのニュースのことが頭に引っかかっていた。

須佐野には、北朝鮮というよりも朝鮮への強い想いがあった。二十代の頃、番組の企画からのスタートではあったが、ハングル語を勉強する機会があり、今では日常の会話をハングル語で行うことができる。ハングル語を学習する企画の中では、何度も韓国に行く機会があり、また韓国の人達と接する機会があった。その時にも嫌な想いなどほとんどしたことがなく、特に韓国の人達に対する想いというものは、日本の人達への想いと変わりはなかった。その韓国の人達が、同じ言葉を話す北朝鮮という国といつまでも敵対視を続け、警戒し合っているということが不思議でならなかった。

九階でエレベーターを降りると部屋の前へと行き、鍵を開け中へと入った。バッグを置いて着ている服を脱ぎ身軽になった勢いで、そのままシャワーを浴びた。シャワーから出ると、ソファーへと座りテレビをつけてゆったりする。

都内のマンションではあったが、一人暮らしのためそれほどの広さはなく、白を基調とした壁紙で部屋は統一され、ものは収納家具などにきれいに収まっていた。余分に散らかっているものはなく、きれいに片付けられていた。リビングの広さが十二畳程で、そこにカウンター越しにキッチンがあった。リビングの他にもう一部屋あったが、そこは物置として利用し、ベッドもリビングの端に配置されていた。

須佐野はソファーでゆったりしてテレビをつけてはいたが、テレビの内容は全く入ってこなかった。今日の朝からの仕事に疲れを感じ、やっと帰ってこられた安心感でボーとしていた。途中のどが渇き、冷蔵庫へと行って水分を摂ったが、すぐにソファーへと戻った。一、二時間程そのまま時々チェンネルを変えながらソファーでのんびりと過ごし、眠くなってきたところでベッドへと移った。



「須佐野、最近また忙しそうだな」

歌番組のリハーサルが終わり、楽屋の畳の上で寝転がっている須佐野に宮津が声をかけた。心配してというよりは、話しのきっかけのようだった。

「うーん、ここ数日はいつもより忙しいかな。朝から晩までが続いているからね。でも、慎一ほどではないよ」

宮津はグループの中では体は大きく、がっしりとした体格をしていた。宮津慎一は、須佐野と同じアイドルグループの最年少でもあった。以前は須佐野のことを年上のお兄さんのように感じていたこともあったが、今では、良き友達のような関係である。

「俺ほどって、たけるほど仕事してないって。今日も仕事は昼からだったしさ」

「えー、そうなの。今日は昼までゆっくりできたんだー。いいなー」

本当にうらやましそうに、親しみを込めて須佐野は言った。

「いいじゃん。暇なのよりずっといいよ!」

須佐野を励ますように、宮津は言った。その後すぐにスタイリストに呼ばれて宮津はその場を離れた。

須佐野たちのグループは、リーダーの綾部則斗と同じ年の亀岡大樹と東山幸太、そして一つ下の宮津慎一の5人グループで活動している。グループ名は『STAY』といい、世間で知らない人はいないほど名は売れている。

『STAY』の所属はアイドルグループをたくさんもつ芸能事務所としても有名で、その事務所の力も大きい。『STAY』はその事務所を代表するグループでもあった。

今、須佐野建のいる楽屋には、出番を待つグループ全員がいた。当初はアイドルグループとして活動していたが、それぞれが俳優としてドラマや映画に出演するなどしていた。また、バラエティ番組にもグループとして出ることもあるが、個別で番組をもっているものもいた。かなり忙しいグループといってもよかった。

リーダーの綾部則斗は番組のMCをこなすなど、多彩の才能を持っていた。明るく、人なつっこい性格で誰からも好かれていたが、時折見せる自分勝手さに嫌われることもあった。

「なんだ、建、今日は疲れているんか?それなら、出番まで少しあるから休んでおけよ。ちょっと前に起こしてやるからさ」

疲れている様子を見せていた建に向かって声を掛けてくれたのは亀岡だった。亀岡はこのグループを有名にした一番の立役者だった。若い時からその顔立ちで女の子からの人気を集め、音楽活動では歌に、ダンスに、そして演奏にとアイドルの枠を越えた大活躍だった。ドラマでも、高視聴率を出し。時代を代表する作品の主演をつとめたこともあった。そんな亀岡だったが、一つも自慢することもなく、どれだけ売れても変わらない様子がまた好感を持たれた。

「ありがと。そうさせてもらおうかな。とりあえずここ数日を頑張って乗り切らなきゃね」

須佐野はそう言うと椅子から立ち上がった。

「そうだね。ちょっとでも休んだ方がいいよね。俺も少し横になろうかな」

須佐野が立ち上がったところで、一つ離れた椅子に座っていた東山が須佐野に声を掛けた。

東山はこのグループでは天然キャラとして、またその容姿や振る舞いに女性ファンがたくさんいた。不思議な雰囲気を持ち、でも誰にでも優しく、それが画面からも伝わるのだろう、誰からも愛される存在だった。

須佐野は東山に笑みで応え、後ろの座敷に上がり寝ころんだ。



「じゃあ、お疲れ様でした。建さん、ここ数日は忙しかったですが、明日は午後からの収録ですので、今日はゆっくり休んで下さい」

いつものように建のマンションの前に着くと、矢田が車を降りようとする建に声を掛けた。

「ありがと。ほんとは一緒に飲みにでも出たいところだけど、今日のところは家で軽く飲んで寝るよ。明日でもどう?考えといて」

「自分はいつでも大丈夫ですよ。建さんの都合でいいです。今日はお疲れ様でした」

しばらく忙しい日が続いていただけに、明日ゆっくりできるという余裕からか、須佐野は笑顔を矢田に向けて、手を振り別れた。

矢田が乗る車を見送って、須佐野はマンションに入りいつものように、さっさと服を脱ぎ、シャワーを浴びた。

須佐野は部屋着に着替えると、今日に買ってきていたものをテーブルに広げ、買いだめしてある冷蔵庫のビールを取り出して缶のまま蓋を開けた。そのまま一口飲みながらソファーへとゆっくり腰を下ろした。

ここ数日の忙しさの中から、その忙しさのせいもあるのかもしれなかったが、いろいろと考え込んでしまうことが多かった。今迄アイドルとして過ごしてきた日々と、これからのことを思った。

このまま芸能界で、過ごしていくのでいいのだろうか。アイドルという立場はこの年になってくると、微妙に感じているのは仕方ないとしても、芸能界という世界はとても自分に合ったやりがいのある仕事だと思っている。また、浮き沈みの激しい世界で、それなりに出番があり、忙しくできるだけでも、とても幸せであることも分かっていた。今の立場に感謝し、そして自分にできることを精一杯頑張らなければならないことも分かっていた。

建はソファーでのんびりしながら考え事をしていた。特に見ている訳ではないテレビの音源が流れ、思考が止まった状態で買ってきたつまみを口にし、ビールを注ぎ込んだ。

ここ数日ずっと忙しかったので、家でのんびりとできているのが久し振りだった。頭に浮かぶことは、楽しいことばかりではなかったが、まずは明日ゆっくりと寝ていられることがうれしかった。二時間程テレビを見ながら軽く飲んでベッドへ移った。


「矢田君、今日飲みに行こうか?」

番組の収録が終了し楽屋で着替えている時だった。時間は夕方だったが、この後の仕事の予定はなく明日の仕事も早くはなかった。この前は、しばらく休みが取れていなく疲れがあったので出掛ける気分には慣れなかった。今日に疲れがない訳ではなかったが、たまには外で飲みたい気分でもあった。

「いいですね。自分も最近飲みに出ていなかったんですよ」

矢田の応えに建は満足した様子を見せる。

「そうだなー。じゃあ、どこに行こっか?」

答えを求めるでもなく矢田に聞こえるように、うれしそうにゆったりしながら建が言った。建がうれしそうに考えている様子を見て、なんだか矢田もうれしくなった。

「じゃあ、出る準備しましょうか?片付け始めますね」

慌てるでもなく、ただきびきびと矢田は鏡の前や、机の上などに出ている荷物を片付け始めた。

少しして建が着替え終わるのを待って、二人はテレビ局の楽屋を出た。一旦車で出て、建のマンションに車を止めた。部屋には寄らずに出た。中目黒でも良かったが、あまり近いのも出掛けた感がなくなってしまうので、少し離れた恵比寿までタクシーで向かった。駅の近くでタクシーを降り、そこから以前に行ったことのある個室がある日本料理屋に入った。

入口は高そうな雰囲気もなく、どこにでもある居酒屋の様だった。ただ、中に入ると薄暗い造りの、それぞれの部屋が見えないように何部屋もの個室が並んでいる。その一部屋に建と矢田は通された。

おしぼりとお通しを持ってきた時に一杯目のビールを頼んだ。飲み物がくるまでの間、二人はメニューを見ていたが、建物の造りとは別でどれも値段は一般的だった。和食中心のメニューだったが、たくさんの品物が書かれていた。店員さんがビールを持ってきた時につまみを何品か頼み、店員が出て行ったところで乾杯した。

二人は揃って多めの一口を流し込んだ。

「いやー、建さん、やっぱりたまにはいいですね」

「そうだな。こうやって外でのんびりと飲めるといいなー」

二人は言いながら、また二口目へとグラスを手に取る。頼んだ料理が来る前に二人のグラスが空き、テーブルに設置されている呼び出しボタンを押し2杯目を頼む。

それからは仕事の話や、一緒になった出演者やアイドルの話などで二人は盛り上がる。建の好みや、矢田の好きな芸能人の話などをする。そこら辺でもできないし、一人でもできない会話を楽しむ。料理はお手頃価格ながら、美味しく二人を満足させた。

「なあ、矢田ちゃん、近いうちにどこかで三日ぐらい休みが取れそうな日ってないかな?できれば五日くらいがいいんだけど」

酔いが進み、食事も落ち着いてきた頃、突然建が矢田に聞いた。矢田は酔っていることもあり、またあまりにも突然の話で建がふざけているのかと思い黙って見返した。

「やっぱり突然だと厳しいかなー。別に来週、再来週の話をしているんではなくて、二ヶ月後とか、三ヶ月後とかでもいいんだけどね。ねー、矢田ちゃん、無理かなー」

酔った勢いに任せて、少し甘えるように建は矢田に言った。

「えっ、建さん。急にどうしたんですか?」

酔ってはいたが意識はしっかりしていて、矢田は建の言葉に驚いて聞き返した。建はビールジョッキを口に運ぶところだった。建からその続きの言葉は出てこなかった。

矢田は建の言葉に不安を感じながら、バッグを手元に引き寄せると中から手帳を取りだした。手帳のページをめくりながら、ふと建を見ると気のない風を装いながら、矢田の様子をうかがっているのが分かった。矢田は手帳をチェックしていき、日程の確認をしていく。確認をしていきながら、気にしているであろう建のために分かる範囲で伝えることにした。

「そうですねー。一日の休みは時々はあるんですけど。まとまった休みとなると・・・、今月はどうにも無理ですね。でも、いったい急にどうしたんですか?」

予定表を見ていきながら、矢田は聞くと建は困った様子を見せた。

「うーん、ちょっとやりたいことがあるというか、気になることがあってさ」

「えっ、何ですか?・・・隠しごとしないでくださいよ。心配になってしまいますよ」

手帳から顔を上げ、矢田は建に迫ったが、建ははぐらかそうとつまみを口にして再びジョッキを手に取った。

「で、どうなの?あるの?できそうなの?」

ジョッキを置きながら、先ほどの矢田の質問をはぐらかすように、陽気な調子で聞いてきた。再び矢田は目を手帳に落とした。建の本気の調子に、矢田も本気になって考え始めた。

「そうですね。二ヶ月、三ヶ月先になると今のところはっきりしない部分の方が大きいですね。定期的に入っている仕事はだいたい予想はつくのですが、歌番組や特番などがいつ入ってくるかが予想つかないですね。ただ、その先になるとドラマの撮影が入ってくるかもしれませんので、より厳しくなることは明らかですね」

矢田は一度話を区切って建を見た。建は覚悟を決めて、身を乗り出し、うれしそうにして矢田の報告を聞いていた。

「まだ、事務所から連絡を受けていないものがあるかもしれませんが、ドラマの撮影が始まる前だったら、日程調整すればどうにかなるかもしれませんね。ただ::、そうなると自分だけの判断ではどうにもなりませんので建さんから社長にでも話してもらわなければならないかもしれませんが。そうすれば、休みの日を決めてもらってそこに仕事が入らないように調整してもらえればいい訳ですから」

そこまで矢田が説明をすると、建はうれしそうな、覚悟を決めたようなはっきりをした表情で矢田を見た。

「矢田ちゃん、ありがとー」

建は言いながら、握手を求めてきた。

「いや、調整できるかもしれませんよと言っただけですので、もちろん協力しますけど。まだ、できるか分かりませんよ」

建の喜びように矢田は遠慮しながら応えた。建は再び落ち着いて飲み始めた。

「でも、建さん。休みを取って何をするつもりなんですか?」

休みが取れそうなことで安心したのか、のんびりと飲み始めた建を見て矢田が言った。矢田の言葉に建は頬づえをついて笑みを浮かべた。酔ってきているのか、顔色は少し赤くなってきていて視線も焦点が合っていないかのようだった。矢田はやや緊張して建の言葉を待ったが、建は微笑んで黙ったままだった。

「矢田ちゃん、みんなには言わないって約束できる?」

酔った調子で、ややうれしそうに建は言った。

「言わないって約束したいところですけど::。何か、嫌なことにはならないですよね?スキャンダルとかは困りますよ」

建よりはまだ飲みを抑えていた矢田は冷静になって建に聞いた。矢田の言葉でも、建は微笑んで聞いていた。

「建さん。でも言って下さいよ。自分が知っていないと困りますし。ただ、事務所に聞かれた時はどうしたらいいんですか?で、いったい何をするつもりなんですか?」

矢田は目の前のグラスや皿をどけて聞く姿勢をつくった。その矢田の覚悟を感じたのか建もゆっくりと話し始めた。

「別に悪いことをしようとか、隠れて何かしようとか思っている訳ではないんだけど。ただ、事務所に正直に言う訳にはいかないかな。矢田ちゃんは、これから俺が言うことは内緒にしておいてもらって、事務所になんて言うかは俺が後で考えておくよ。地元に戻らなければならないとか、そんな感じでさ」

建の言葉に矢田は少し困った表情をした。矢田はここで拒否したら建が話してくれなくなってしまうと思い何も言わなかった。

「ずっと考えていたんだけど。今のままでいいのかなって。自分みたいな奴だけど、何かもっと世の中のためになることができないかなと思っていたんだ。

それで、何ができるのかは分からないけど、北朝鮮に行きたいと思っているんだ。たまたま僕はハングル語ができるだろ。・・自分の思いを、伝えなければならない思いを伝えに行きたいと思っているんだ」

ここまで話すと、なんだか建は胸のつかえが取れたようにすっきりとした顔をしていた。建はビールを一口飲んだ。

「どれだけの効果があるのかわからないし、結果的には何も変わらないかもしれない。もしかしたら捕まって帰って来られないかもしれないけど」

建がここまで言うと、矢田はびっくりした表情を見せる。それを見た建は矢田の表情は予期していたものであったようで、安心させるように微笑みを浮かべ、再び話し始めた。

「もしかしたら、本当に捕まってしまうこともあるかもしれない。でも、だからこそのアイドルだろ。アイドルである立場を利用すると言ったら聞こえは良くないかもしれないけど。アイドルだからこそできることなのかもしれない。だからこそやらなければならないと思うんだ。

アイドルではなくっても、命をかけてもやるべき事かもしれないし、自身の命の保証がされているからといってやるというのもおかしい話かもしれない。死ぬことはないだろうからやるっていうのはずるいかもしれない。でも、ただの人が行ったところで、何の影響も与えることができないかもしれない。だから、アイドルである僕が思いを伝えるべきだと思うんだ」

建はここまでゆっくりと、矢田を心配掛けないように落ち着いて話した。

「でも、建さん、北朝鮮に行って本当に無事に帰ってこられるんですか?」

建の話しを聞いた矢田は心配そうに言った。

「まあ、そう思うよね。・・・ちょっと考えたんだけど。もし可能だったら、テレビ局同伴でちょっとした慰問のような形で入国する方法も良さそうだなとも思っているんだ」

建は少し困ったような表情を浮かべて言った。自身の活動や損得とは関係ないところで動こうと悩んでいる建を見て矢田は微笑ましく思えた。ただ、建との関係としては、建が働けなくなることは矢田自身も困ることであり、心境は複雑だった。それでも矢田としては建のやりたいことをやりたいように応援したかった。

「そうですよね。テレビと一緒だったら、より安全な感じがしますね。・・・今度、ハングル語を覚えるきっかけになったプロデューサーに連絡を取ってみましょうか?そのプロデューサーに北朝鮮へ、建さんが行ってみたいと言っていた、なんて言えばのってくるかもしれませんね」

矢田は少しテンションをあげて建に話した。建は矢田の話しを聞いて、困った表情が薄らいだように見える。

「矢田君、ちょっとその方向で頼んでみてもらってもいい?そうすれば、特に休みをとる必要もなくなるかもしれないね」

建はあまり表情を変えずに言い、でもその表情からは矢田への懇願がつかみ取れた。そして、その日はもうこの話しが出ることはなかった。それには、建の重い雰囲気にしたくないという思いがあったのかもしれなかったが、もう少し飲むと陽気な調子で次の店へ向かった。


窓の外の景色はビルの町並みで、通りを歩く人が景色と一体となって流れていく。天気は薄曇りで、外を眺める眩しさもない。建の見える景色は車の動きに合わせて変わるだけだった。仕事の忙しさもあったが、眠らないまでもゆっくりと休みたいと思い、黙ったままじっと外を見ていた。

今迄の人生は自身の力の及ばないところで進んできてしまった気がしていた。芸能界へ入ってからは、ダンスや歌の練習など必死で頑張ってきた。ただ、この世界では頑張るのは当たり前だった。いくら頑張ったところで報われるか報われないかは、努力とは関係ないところで力がはたらいているようだった。実際芸能活動を始めた時は、自身が現在のような立場になるとは思っても見なかった。今は忙しさに追われ、自分を見つめる機を失っているが、改めて自身の今迄を振り返る必要性を感じていた。

「建さん、良かったですね」

黙って外を見ている建に向かって、運転している矢田が言った。車内は矢田と建の二人で、建の所有する国産のRV車の後部座席に建は座っていた。自身で運転することはあったが、矢田がいる時はほとんど矢田に任せていた。

「北朝鮮へ行くことに、興味を示してくれているようで。番組としてどうなるかは分からないみたいですが、カメラスタッフの同行を望んでいましたね。経費の面でも、こっちの希望から始まったことなので出演料とまではいかないようですが、番組としてできあがった時に再検討してくれるみたいですし」

「うん、矢田ちゃん、ありがとう」

建はうれしいのかは分からないような、低い声でゆっくりとお礼を言った。矢田はその建の反応を不思議に感じた。矢田としては、もっとうれしそうな反応をすると思っていた。

先ほどのテレビ局での収録後、相談していたプロデューサーが来てその事を伝えてくれた。その後の車内でのことだったから、建はもっと喜ぶと思っていた。

「矢田ちゃんに話して良かったよ。最近ずっと気になっていたことだったから。・・・まだ、行った先でどうなるとか、いろいろ問題が生じる可能性とかも考えると不安な面もいっぱいあるけど。でも、極力テレビ局には迷惑を掛けないようにしたいなぁ」

建は、また感情を出さずにゆっくりと言った。

「自分は何にもしてないですよ。プロデューサーに連絡を取ってみただけですから」

矢田は建の感謝の言葉に謙遜するようにして答えた。そして、建の言葉から素直に喜ぶことのできない、覚悟の大きさのようなものを感じ、先ほどの建の反応に納得した。

矢田はあまり話したがっている様子ではない建をそっとしておくことにして、次の現場まで黙って車を走らせた。


「建君、今度北朝鮮に行くんだって?それもなかば非公式で」

テレビ番組の収録を控え、楽屋で待機している時にリハーサルから戻ってきた宮津が言った。宮津は相変わらず元気で、年下である気軽さからか、建のことを心配してよりも、興味があって話しているようだった。

「うん、そうなんだ。前から行きたいって思っていたんだけどさ」

椅子に座りながらのけぞるようにして宮津を見て建は言った。

「でも、大丈夫なの?全く安全とは言えないんじゃない?・・まあ、戦争しているところに行くのと比べれば安全なんだろうけど」

建に声を掛けた宮津は、話をしながら建を通り過ぎて椅子に座った。

「へー、北朝鮮に行くの?いつ?」

建の近くに座っていた綾部が話しを聞いていて建に言う。

「三週間後かな。一応仕事としていくんだけど、今迄の予定が入っていたから、空いているのがその辺しかなくて」

建は綾部に言った。

「ふーん、建はなにしに行くの?」

綾部は建の言葉に、すぐに返してきた。

「・・・うーん、今回の目的としては、いろいろなものを見てきたいなというのもあるんだ。ただ、俺ハングル語しゃべれるだろ。今このご時世だし、何ができるか分からないけど北朝鮮に行って何かを感じられればいいし、できることが分かればいいなとも思っているんだ」

建はなんだかすっきりした様子で、綾部に話した。

「ふーん、建はなんだかいい感じだな。やりたいことがあるっていいし。それでもし、人助けでもできればいいよな」

建の言葉に感心するように綾部が言った。建も綾部の言葉で、なんだか安心したような、うれしい気がしていた。

「うーん、どうなるか分からないけどね」

建は、自分の気持ちは隠したまま、綾部に言った。

「そしたら、建、北朝鮮に行く前に一度飲みに行こうよ。夜だけなら空いている日があるだろ?」

「うん、いいね。じゃ、また時間調整しよう」

綾部の誘いに、建もうれしかったようで返事にもそれが表れていた。

そして、建たちはそのまま楽屋で落ち着いた後、収録を終え皆と別れた。


須佐野建は駅の改札口を出て、壁際に寄りかかりながら本を読んでいた。薄手の帽子をかぶりサングラスをしていた。やや下を向いた体勢で本を読んでいたので、道行く人は誰も建のことを気に留めなかった。建としても街中に紛れ込むのは苦手でもなかったし、気付かれない自身をおもしろがっていた。

建は大井町駅の改札を出たところにいた。中央改札口ではなく、飲み屋街が近い東急線側の改札口を指定してきたのは綾部だった。二人でのんびりと飲むのだったらと、綾部の思い入れのあるこの場所に来た。建は少し早く着いて、読書をしながら綾部が来るのを待っていた。

綾部は予定していた時間には来なかったが、建は気にせずに読書を続けていた。読書に没頭していると、建は肩をトントンとたたかれて、本を閉じてからたたいた人を見た。そこには、建と同じように帽子をかぶりサングラスをした綾部がいた。

「ごめん、建。ちょっと遅れちゃった」

綾部は建が見ると笑みを浮かべて言った。綾部則斗の言葉には、不思議な力があった。建としても、待たせた綾部を怒るつもりでいた訳ではなかったが、綾部の顔を見ると責める気は全く起きなかった。

建が本をしまっているのを待って、綾部を先頭に歩き出した。大井町駅の北口から東の飲み屋街に入った。綾部は目的としているところがあるらしいが、少し二人でぶらぶらと幾本もの通りを歩いた。

「ここでいいか?」

綾部が言ったのは、JR線の線路からそれほど離れてはいない、居酒屋と言うよりは食堂のようなところだった。建は黙って頷くと、綾部は扉を開け中に入り階段を上がっていった。中はまさに食堂そのもので、居酒屋のメニューもあったが、定食などもおいているようだった。上の階にいた店員に綾部は二人であることを伝えると、窓際の席に座った。

背もたれのないパイプ椅子しかなく、テーブルもそれにセットとして付いてきたような、いつの時代のものかも分からないようなものだった。少し驚いた様子で付いてきた建は綾部を見るが、綾部は笑って建に座るように勧めると帽子とサングラスをとった。建も、綾部に促されて苦笑を浮かべて椅子に座った。椅子に座るとキィと床を鳴らし、なんだかその響きが懐かしかった。建も座ると帽子をはずした。

店の中は、一階と二階ではそれぞれの店員が配置されているようで、二階の厨房のようなところから年配の女の店員が出て来た。店員が箸と取り皿を持ってくると綾部がビール瓶を注文した。その間も建は不思議そうに店内を見渡した。中は広く、四人掛けのテーブルがいくつも並んでいて、奥には狭いながらも座敷があった。個室のようなところもあるように見えた。その中にまだ時間が早かったからか、綾部と建の二人だけだった。建と綾部はそれぞれの帽子とサングラスなどの荷物を隣の椅子に置き、携帯電話だけをテーブルの上に置いていた。

店員がビールとグラスを持ってくると、綾部は「おばちゃん」と声を掛けながら、いくつかのものを注文していった。そして、そのおばちゃんも綾部や建を見て、普通の客と接するようにしていた。ただ、綾部に対しては客と言うよりは、知り合いに対しての様に接していた。他にも店員がいたが、誰も二人を特別扱いする様子もなかった。

綾部と建は、近況のことを話していた。最近の仕事の話は二人一緒にすることがない分いろいろなことが聞けていい。そうこうしているうちにテーブルの上は料理でいっぱいになったが、豚の生姜焼きやオムレツ、山かけや漬け物など、建からするとなんだか懐かしいものでいっぱいになっていた。

「綾部くんは、最近歌やダンスの練習はできてる?」

建はビールを綾部のコップに注ぎながら聞いた。

「うーん、あんまりできてないな。この前の歌番組も、仕上がりまでギリギリだったよ。五人の絡みなんかが出てくると、ここ最近のみんなの忙しさからしたら、ちょっと合わせるのが難しいだろうな」

「そうだよね。なかなか五人揃ってダンスを揃えるのってできてないよね。また、できるようになるといいけどね」

綾部は自分達のことなのに、期待を込めて言う建に親しみを感じて聞いていた。

「建もずっと忙しくやってるな。それなのに、自分で仕事を増やすように北朝鮮行きを決めたりしてさ。まあ、自分のやりたいことなんだろうから仕方ないだろうけどさ。でも、よくそれ以上忙しくしようとするよ」

綾部は褒めているか、馬鹿にしているか分からないような調子で建に言った。

「うん、そうだよね。俺のせいでみんなの調整が合わなくなっているのかもしれないよね。全員が合えば練習する時間なども取れるだろうしね。誰かが忙しければ、全員の時間の調整自体無理だもんなぁ」

建は本当に悩んでいるかのように言い、テーブルのつまみを取り皿に取った。そして、また自分に言い聞かせるように続けた。

「でも、今までずっと考えていたんだよね。・・・ハングル語が話せるようになったのは、自分の意志というよりも番組の流れだけれど。日本でアイドルとして少しは顔が知られ、そしてハングル語を話すことができる。そんな俺に何かできることはないかと考えていたんだ。・・・というより、アイドルになりたいと思った時から、アイドルとして何ができるだろうという思いがずっとあった。

それで、今回の北朝鮮行きで果たすことが出来るかといったら、何ができるのか分からないけど」

建は言いながら、コップに入ったビールを口に運んだ。綾部も聞きながら、取り皿に取ったつまみをつついている。

「建はさあ、行ってどうしようと思っている訳?」

つまみをつつきながら、顔を上げずに綾部が言った。

「もちろん、どうなるかは分からないし、行ってみないとどうにできるかは分からないけど。できるだけ多くに人に、今の現状を良くするような呼び掛けができないかなと思っているんだ」

「ふーん、::どんな呼び掛け?」

「それはもちろん今頭の中にはあるけど、今の北朝鮮の現状とこれからどうならなければならないかとか。韓国と北朝鮮の関係もあるし。もちろん、日本人として日本と朝鮮半島のこともふまえて話したいと思っているけど」

建は考えながら話すと、綾部は顔を上げて建を見た。そして、綾部は少し真剣な顔をして話し始めた。

「建がやりたいと思ってやることはいいことだと思うよ。その目的もいいんじゃないかな。::でも、それがもしできたとしても、無事に戻って来られると思ってるの?失敗に終わったり、できなかったら、なんて事ないんだろうけどさ。もしそれが、政府関係者のような人達に見つかったら、帰ってこられないかもしれないだろ?」

綾部の真剣な声で建も気付き、建も綾部を見た。そして、ゆっくりと笑みを浮かべて言った。

「もちろん、アイドルだから無事に帰ってこられると思って、軽い気持ちで行こうしているんじゃないよ。もしかしたら、もう戻ってくることはできないかもしれない。そう思っている。だから、綾部くんも今日に誘ってくれたんだろ?俺たちSTAYのメンバーにも、そうなったら大変な迷惑を掛けてしまうことになるだろうなということも分かっている。STAYの存在自体が危ぶまれるかもしれない。また、STAYとしての活動がなくなってしまうかもしれない。::それでも、俺のわがままを許して欲しい」

ここまで言うと、建は言葉に詰まった。ただ、綾部からの言葉も出てこなかった。建はグラスを両手で持って、再び話し始めた。

「正直何もできないで帰ってくるかもしれない。また、アイドルであることで、無事に帰ってくることができるかもしれない。

ただ、俺だってどうにかしたいという思いはある。それを今できる機会があるのだからやらない訳にも行かないだろう。

帰って来たくない訳でもない。みんなに迷惑を掛けてしまうし」

綾部は話している建を見ていたが、話が止まると手を口にやって考えていたが、少しの間を置いて話し始めた。

「俺たちSTAYのことはどうでもいいよ。もう長いつきあいなんだし、俺も今迄みんなにいろいろ迷惑を掛けたし、他のメンバーも似たり寄ったりだよ。

最終的には、建の好きなようにすればいいし、俺たちはどうなったって、STAYのメンバーであることに変わりはないんだから。

::だから、気にしないでやってこいよ。俺は応援するからさ。とりあえず、無事に帰って来いよ。::もし捕まったりしたって、俺たちやファンの力で帰って来られるように頑張るからさ」

建は綾部にそう言われると、何も言葉が出なくなってしまった。綾部も話した後は笑っていた。

その後もう一軒綾部について飲み屋に行った。大井町の駅前にあるビルの1階にあるスナックだった。スナックといっても、年配の男のマスターに、その日はいなかったが、時々若い女性が手伝いをすることがあるとのことだった。客がいればカラオケをすることもあるのだろうけど、薄暗い店内で静かな落ち着いたところだった。

「綾部くんもいろんな店を知ってるね?」

綾部とマスターが挨拶を交わしている様子を見て建が言った。

「綾部さんがメンバーを連れてくるって珍しいね。でも、綾部さんと須佐野さんの組み合わせも珍しく感じるな」

綾部のボトルと氷と水のセットを建たちの座るテーブルに持ってきたマスターが二人に声を掛けた。

「今日はどうしたの?」

マスターがカウンターに戻る前に綾部に聞いたが、綾部は「うん、ちょっとね」とはぐらかしながら答えると、マスターはいつものことのようにカウンターの中に戻った。

その店ではもう、建の北朝鮮については話題に上がらなかった。綾部のこの店での想い出などをマスターから聞いたりして、楽しい気分で建は飲むことができた。

どれくらいその店にいたのかは分からなかったが、懐かしいSTAYのデビューしたての頃の歌を歌ったりした。そのうちに、もう電車のある時間ではないことは分かった。かなり酔った状態で二人はその店を出た。

最後にタクシーに乗り込む時に、建は綾部に一言言うことができた。

「今日は誘ってくれてありがとう。綾部君にいろいろ話すことが出来て良かったよ。メンバーみんなが応援してくれるかは分からないけど、綾部君が応援してくれるなら大丈夫かな。

安心して行くことができるよ。ありがとう」

そう言ってタクシーに乗り込む建を見送る綾部の表情は、どこか悲しげで、無理に笑顔を見せているのが感じられた。


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