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不倫の季節

作者:きた いちろう
この物語の軸となるエピソードのシステムセールスを行う夫婦の成り行きは、フィクションですが、友人から、実際にあったことではないか、このような夫婦の相談の離婚相談を受けたことがある、といわれたものです。同時に、なにやら芸能人の不倫騒動が話題になり、タイミングのよい題材と思い応募。もうひとつ、文学フリマ出店常連「文芸同志会」のモットー、「素人の領域から玄人の領域へ入ろう」というテーマに準じた作品をーーと、あえて世俗的商業的な娯楽小説を選びました。ほんとうは、作者の北一郎は詩人だと思っています。
 家の前にきた時、前庭の門扉を開きながら、家の台所や居間に灯りの気配がなく真っ暗なのを見た。
〈裕子のやつ、まだ、帰っていないのだな〉
 影山良次はドアの鍵を差しいれながら、胸のなかで思わずボヤいた。金曜日、夜の十時を五分過ぎている。
 妻の裕子が家で待っていなくても、以前のような失望感や、不機嫌な気分になる度合いが弱まってきていた。
 それどころか、こんなに夜更かしばかりして、美容にわるくないのだろうか。へんな心配すら、頭をよぎってしまうようになった。
結婚すれば、お互いの愛情が同じ状態で変わらずに続くものだと漠然と思いこんでいた。それをあらためて迂闊だったと、おもい返すこのごろであった。
 もっとも結婚してまもなく、新妻の裕子をエステに通わせ、女らしさに磨きをかけるように命じたのは良次であった。その効果はてきめんで、彼女はみるみる洗練されていった。
 そこまではよかったのである。ところが、そこで知り合った女友達がいた。その女に裕子を妙な方向に導かれてしまったのが見込みちがいであった。
 良次は二十八歳、裕子は二十二歳。結婚して三年になる。ふたりは職場結婚である。とはいっても、裕子がOLだったのは、たったの半年であった。勤めてすぐ、良次と結婚したからである。
 裕子は茨城の高校を卒業すると、西日暮里の叔母の家に下宿し、良次の勤める原田商事に入社してきた。会社は、社員二十五名ほどの電子部品の商社で、神田佐久間町にオフィスがあった。
 裕子は、色白で眼がぱっちりとしているが、頬に赤みがあり、ニキビらしきものもあった。髪は短く首筋のすぐ下でカットしていた。古手の女子社員からは、まるで、おかっぱ頭だわ、と陰口を言われるほどだった。
 女性にしては長身のほうで、事務服の胸はさほど目立たない。腰はやや横に張っているが、ゆるめのスカート幅に隠されているものの、骨っぽさを感じさせる体型だ。そこにホルモンバランスのとれていない高校生のような未熟な可愛さがあった。
 仕事ぶりは、おっとりとしたもので、事務所の電話が鳴っても、目先の作業に気をとられて気がまわらない。
 周囲から「電話が入ったら、なにを置いても受話器を取るのよ。前にも言ったでしょう」と叱られる。「はい、このつぎから、そうします」先輩にいわれるまま、しばらくは従うのである。それでも、また同じことで小言を受けていた。
 新入社員の、仕事の社会的な意味が明確につかめていない期間によくみられる現象であった。仕事ぶりに熱がない。仕草がつまらそうにしているように見えて、周囲の批判を浴びやすいのである。
 良次は、注文を受けた品物の在庫の有無を、客先の会社から問い合わせたことがある。裕子が応対したが、もたもたしてすぐ返事がかえってこない。パソコンの在庫台帳の開き方を教える。品名の番号を教え、そこに「数字がなんて書いてあるのかな…。いや、それは、入庫数だな。じゃなくて、その右端の残数を読みあげて見てよ」と、いらいらすることがあった。このままでは、社風になじめず三カ月ぐらいで、退社してしまうタイプにおもえた。
 それでも良次は、彼女が茨城県の鉾田市の農家の出身とわかって、その雰囲気に何となく懐かしさや親しみを感じていた。

 良次はつくば市の豪農の旧家の家系で育った。家は先祖の山林と農地を減らしながらも、子孫はかなりの資産を引きついできた。父親は地域の都市開発にあわせ、建設資材の事業をはじめた。広い農地の多くを事業用に転用して、成功していた。
 母親の兄は、鉾田市で果樹園を経営していた。そこで、小学生のころから夏になると、伯父の家に半月以上ひとりで遊びに行っていたことがあったのだ。
 中堅の同僚なかまは、裕子のことを「いやに日向くさい新人が入ったな」と評した。
「やっこさん、仕事はだめだ。夜のお供にするにしても、小便くさくて、色ごとを覚えさせるには、ちょっと手間だな。誰かに仕込まれて、熟れるまで待つかな」と別の男が言った。
 そんな陰口を耳にして、良次は裕子が気の毒になった。育った町の、のんびりした風土を知っているので、それも仕方がないことと思えたのだった。
 良次は、高校を卒業したばかりの女子新入社員を、一部の男子社員が巧みに誘惑する手立てを多く見てきた。その結果、社会経験として、遊びを覚えたことを喜ぶ女もいれば、男狂いになったと噂さされる女、あるいは、異性不信になって体調を崩す女子社員など、さまざまである。また、それが恋愛沙汰となり、結婚にこぎつける運の良い女性もいる。肉体が恋を発見するということもあるのだ。
 かれはどちらかというと、そういう種類の遊びには消極的であった。大学生の時に、ちょっとした交際をした女学生の中に、なかなか別れようとしない種類の女がいたのだ。対応の面倒くささに彼は手を焼いた。
 若い女たちには、多かれ少なかれ結婚願望があって、その標的になりやすい年代にいる自分を良次は意識させられた。
 そこで、男の欲望がたまると、もっぱら風俗街に通っていた。若さがもたらす欲望は、いつでもその場限りで収まるものだ。それが、いっときの性的欲望に振り回されずに、面倒なトラブルをさける、合理的なものであると割り切っていた。
 そんな良次であるが、まだたどたどしい仕事ぶりで、あまり集中心を発揮できないでいる裕子を気にかけていた。同僚のうわさ話で、裕子に関することがでる。それを耳にした良次が「彼女はいまどき珍しく、世間ずれがしていないだけだろう。田舎育ちなんだよ。そんなことで、けちをつけられたら、可哀そうな気がするよ」といったことがあった。
 すると、ひとりが「なるほどねえ、さすがは風俗の通人だね。世間ずれした女を相手にしている前らしい発想だ。ところで、可哀そうってことは、惚れたということ、というのを知っているか。商売女ばかり相手にして、お前は恋をしたことあるか。ないだろう。案外、それは恋心かもしれないぞ」と冗談まじりにいった。
「えっ、そうなのか。可哀想って思うのは、恋ってものなのか」
 良次にしてみれば、それは新しい発見であった。あいかわらず、風俗に通っているものの、感じの良い女やなんとなく情念の湧く相手に出会っても、それはそれだけのこと。一時的な情愛で、気分よく欲望が満たされる相手でしかない。たしかに、お好みな相手に出会っても、可哀想という思いをもったことはない。最近は、風俗通いにマンネリ感がある。飽きがきたのか、男の欲望も勢いをなくしてきているように思う。

 それから良次は、強引ともいえる押しの強さで、裕子に近づいた。まず、仕事が終ってから、隅田川の夜の遊覧バスに誘った。裕子は、二つ返事で承諾した。
「わあ、それ乗ってみたいと前から思っていたの。それから私ね、本格的に仕事に取り組みたいの。よかったら、会社に気に入られるようなやり方を教えて」というのだった。
「ぼくはねえ、君の雰囲気が気になっていてね、同郷のよしみということなのかどうか、馴れない仕事をする君を可哀想に思っていたら、それが恋だというものだと、あるひとから教えられたのさ。どう、付き合ってみないか」。
 すると、裕子は「まあ、私そんなこといわれたことないわ。高校時代の同級生に、好きだともいわれないで、むりやりセックスをさせられた経験しかないもの」と、率直にいうのであった。そして、その秋の九月には、会社の同僚たちと、パーティ様式の質素な結婚式をあげたのである。お互いに親戚関係には、結婚したことを知らせないでいた。新婚旅行も質素で、一週間かけて沖縄の島々を楽しんだだけだった。
 ふたりとも無駄な贅沢はしない生活ぶりが、身についていて、生活経済面でも意見が異なることはなかった。
            ☆
 良次が独身のころは川崎・鷺沼のアパートに住んでいた。それで、同じ鷺沼のこじんまりした一戸建て平屋を見つけて借りて住んでいる。
 その自宅にいま帰ったところなのである。
 この住まいは借家で築三十五年。斡旋してくれた不動産会社の話では、元事業経営者の夫婦の自宅だったという。老夫婦が相次いで病死したあと、三人の娘たちが遺産相続をした。固定資産税の支払いのほか三姉妹のお小遣いになるのではと、不動産会社に賃貸管理を任せたものだった。
 居間兼応接室が八畳ほど。その奥にキッチンと浴室が隣合わせにある古めかしい家であった。六畳の寝室と別に四畳半と六畳があり、若い夫婦には十分すぎるスペースである。「オーナーさんは月十一万円でいいそうですよ。それに私のほうで月一万円の管理料でどうです」と顎が細く、眉毛の薄い不動産屋の主人がいう。
「一軒屋でそれなら安いかな」
「まあ、主婦の三姉妹ですから、それぞれ月三万円程度のお小遣になればいいようなものなのでしょうな」と、訳知り顔で不動産屋がいった。
 良次は、裕子と結婚準備をしている時に、すでにここを借りることに決めていた。前庭があって、板塀が隣家との境界となり、裏にも小さなスペースがあった。
 遮音の悪い安い賃貸マンションより、新婚生活のプライバシーが確保されると踏んだのだ。その判断は悪くなかった。それなりの美味な果実のような蜜月を過ごすことができていた。いまでも、当時を思い起こすだけで、満ちたりた気分がよみがえる。
 高校を卒業して間もない裕子は、家事全般が苦手だった。良次は神奈川県のK大学に入学と同時に、下宿生活をしてきているので、料理、洗濯、掃除はお手のものだった。それこそ、手とり足とり、家事のやり方を良次が教えた。新婚生活だから、それがまた楽しかった。
 台所に立つ裕子に料理を教えながら、彼女の首筋や耳たぶを刺激し、次第に身体の深部に接触していくのが楽しみだった。
 食事をすませベッドに入ると、裕子は熱く燃え上がるようになった。彼女の意識しないところに潜んでいる動物的な欲望を呼び起こすことの作業に耽溺した。
 ある時、いつもと変わらず、子猫をじゃらすような長い前戯の末、彼女との交わりをした。すると、彼女はこれまでになく鼻息を荒らげて、身もだえしはじめた。やがて、良次に強くしがみつくと自分から、腰と下腹を前後に激しく動かした。そして、喉の奥から抑えたうめき声をもらした。その興奮ぶりに良次は巻き込まれ、二人で果てた。その直後、裕子は熱烈なキスを、祐次の顔や胸に浴びせると、そのまま眠りに落ちた。
 その翌日、裕子は不審そうに言ったのだ。「へんね。今日はどういうわけか、腰が痛いわ」
 あれほど激しく腰を前後させることは、普段の生活にはない。彼女は忘我のなかで、それを無意識に行っており、記憶にないのだ。そのことは良次に、彼女の体と心、そのすべてを所有したという歓びと幸福感をもたらした。
 彼女は、専業主婦としては未熟であったが、日々熟れてゆく肉体を堪能する良次には、不満はなかった。妻の体内に開発されずにいる欲望を、鉱山の金脈を掘り起こすように、段階を経ながら見つけ出すことの歓びはなにものにも代えがたかった。
 しかし今、その情感はいま、まるで夢でも見ていたのかと思うほど、どこかに消えてしまっている。
            ☆
 良次は、次男ではあったが、長女の姉と二十歳以上離れていた。長男の兄とは十七歳違い。次女の姉とは十五歳の年の差があった。
 その経緯は、良く判らないが、両親にとっても姉や兄たちにとっても、良次は思わざる新家族であったようだ。そのため、姉兄たちと遊んでもらうことがなかった。
 もともと、彼は中学生時代から、突然に怒り感情が爆発させる性癖があった。学校のいじめに会った時、しばらくおとなしく我慢をしていたが、ある時、急に怒りを爆発させた。そのグループの幾人かを片っぱしから殴って歩き、学校の補導をうけた。
 そのどさくさに、いじめグループのひとりが「お前は愛人の子だろう。ちがう母親からの貰いっ子なんだ。親戚はみんなそれを隠しているんだぞ」と告げ口してきた。
 彼は、薄々その話はきっと本当なのであろうと、推測できたが、家族や親せきに問いただすことをしなかった。これまでに、自分が影山一族の変わり種であるらしい、とおもわせる空気を周囲から感じとっていたからだ。
 今夜の良次は、昼間に会社を休んで、つくば市で「山三建材」という建設資材の商社を手広く経営する父親の家に行ってきた。そこで開かれた家族会議に参加してきた。家族兄弟のなかでは、どことなく自分の存在がしっくりこないものになっているのは、以前と変わっていない。
この日午後、実家のリビングルームには、弁護士が同席して、親族が集まった。母親の桜子と、父親と母親、それに兄弟姉妹の五人である。
議題は、一年後に父親が「山三建材」の代表権のない会長になり、長男の誠一が社長に就任すること。その事業承継の事情を親族に納得してもらうためのものであった。
 これは、二年前に七十歳になっていた父親が脳梗塞で倒れたからである。半年ばかり入院をした。その間に事業の指揮は専務である兄の誠一がとっていた。父親は足が不自由になっていた。それでも、その後、リハビリで再起し、車いすで社長業に戻った。
専務の誠一はたしかに長男であるが、長女の姉の朋子がいる。その下に二人の妹がいる。良次は景山家の次男であるが、いちばんの末っ子である。そのために、幼いうちから存在感が薄く味噌っかす扱いであった。
 一番上の姉がしっかり者で、夫を父親の会社に勤めさせた。そのことで、姉は弟の誠一専務に、影響力を強めていた。姉は、二人の妹の亭主も「山三建材」や子会社「山三電材」に勤めさせた。それで一族の女系が結束を強めていた。昔から継承してきた財力を活用した父親が事業を成功させていたので、その資産との絆を強くしておく狙いがあるのだろう。
 良次には、私立大学を出ても、影山一族の企業の社員にする話は出なかった。良次にとって父親は、なんとなく偉いう尊敬感はあったが、あまり親しめる存在ではなかった。仕事一筋で家庭への関心は薄いのだった。とくに末っ子の良次に対しては、成長過程にあまり関心を持ってもらえなかった。
 それでも、母親の意向で、就職先を東京の取引関係のある精密電気材料の商社に決めた。そこで、良次は東京に住み、独立して生活。会社の後輩である裕子と結婚しても、事後報告で、済ましていた。母親は、お祝金として三百万円を振り込んでくれた。その前の彼の学生時代の仕送り、月十万円を卒業後も振り込まれ続けていた。通帳が別なので、裕子はそのお金の存在を知らないでいる。
 呼びつけられた家族会議で、久しぶりに会う父親は、車椅子で眼をつむっていることが多かった。顔色が悪く、薬物かなにかの副作用だろうか、肌が牡蠣殻のように荒れていた。
 会議の進行は脇に席をとった弁護士が行った。
 弁護士が熱心に話しかけるのは、兄や姉たちであって、良次のことは眼中にないようであった。良次は、自分が家族仲間として、ある種の距離をもった存在であることに慣れていた。
 父親が事業を長男の誠一に譲るという継承者の権限移譲がスム―スに運ぶためには、株式の過半数を社長となる誠一が持たなければならない。そのためには、現在の段階から、父親と子供たちの株式を毎年少しずつ、長男に譲渡しておく必要がある、というものだった。そして、ほかの子供たちにも少しずつ贈与されるが、その株の売却について、誠一だけに売ることができるという制限つきのものでないと、スムーズな経営者交代にならない、という説明であった。
 良次は、その話を聞いて少なからず驚かされた。
「そう言われても、僕は、僕は父の会社の株などもっていませんよ」。
 すると、母親が口を開いた。「それが、都合があって、お前の名義の株式をわたしが預かっているのよ」
「そんな話は知らないですね」。それはどういう意味なのかな」
 そこで、実印を母親が持っていて、良次の判らないところで、彼の名義の資産管理が行われていることを知ったのだ。
 毎月、良次の口座に振り込まれる金も、こうした会社の運営上の資産の分散の一端であるらしい。そうわかると、たしかに銀行口座を良次が作ったものではない。母親がつくって良次に渡したものだ。
 一番上の姉が言った。
「あんたは、お金に関してはお母さんにまかしておけばいいのよ。今日はね、親族の自筆署名が必要なので集まったの。弁護士さんの話では、最終的にみんなに相当の資産が分配されるということだわ」
 そうでしょ、と念を押すように、同席した中年の弁護士の方を見つめた。彼は、それに大きく頷いてみせた。
 良次は、よくわからぬまま、いわれたとおりに、三、四枚の書類にサインをした。
 父親は、車椅子で、ほとんど目を閉じていた。時折、目覚めると弁護士に「どこまで進んだ?」と聞いた。
 「鉄鋼部門の分社化の方は、済みました。もう少しです」と弁護士。
 「山三建材」という会社の扱い商品や事業を部門ごとに分社化し、それらの統合会社にする。それによって、父親が亡くなった場合の相続税の負担軽減になるらしかった。節税のため、家族のメンバーに、良次が組み入れられているのがわかった。
 会議が終わり、弁護士が引きあげ、父親は、母親が連れ添って病院にもどった。ただ、その前に、珍しく父親が顔を上げ、良次の名を呼んだ。
「お前、東京の生活はどうなんだ。楽しくやっているのか」と聞いた。
「ええ、順調です。会社の仕事も、うまくいってます」と、かれは車椅子に手をかけて言った。普段は遠い存在であった父親が、彼のことを気にかけてくれていると思って、うれしかった。
「そうか、それはいい。若いうちに東京で仕事をするのは、いい経験だ。将来は事業家になることを考えておくのだな。」といって、また目を閉じた。「はい」と答えて、良次はこの日はこのことだけで、ここに来たかいがあった、と思った。
 弁護士が良次に告げたことによると、事業承継後、良次名義の株式は母親が預かること。株式の現金化には、社長となった兄にのみ譲渡ができるというものだった。株価は譲渡のための経理決算で資産確定が済まないと決まらないという。
 母親が彼に言った。
「どうしても、お金が必要だったら、株式を担保に私が貸しますからね。その時は言ってくるのよ」
 その後、影山家の子供たちだけで、高級レストランで食事をした。そこでの会食で、父親が末期のがんに侵されていて、余命いくばくもないことを知らされた。脳の神経にも及んでいて、目覚めている時間は少なく、不規則に眠っていたり、目覚めたりするらしい。しかし、不思議なことに、目覚めているときの脳の活動は、健全で明快、しっかりしたものなのだという。
 今回の事業承継と相続に関する手続きを弁護士に依頼したのも、死期を悟った父親が決めたことであった。そう知らされてみれば、会議の場で、父親は会社の承継者に決めている長男の専務とは会話が少なく、弁護士とのコミュニケーションの会話がほとんどであったことが思い起こされた。
 良次は、父親の経営者として孤独な決断の姿を見たような気がして、ある畏敬の念が湧くのを覚えた。父親にそのような感情を抱くのは生まれてはじめてだった。
          ☆
 暗い家の中。七月下旬の閉めきった部屋は、昼の熱気をため込んで、むっとして息づまる。
「まったく、なんて暑さだ」
 良次は苛立ちながら、部屋の明かりをつけ、エアコンのスイッチを入れる。
 浴室でシャワーを浴びた。汗を流して身体はさっばりした。下着姿になり、ウイスキーの水割りをつくると、居間のソファで少し口をつけた。
 グラスの氷の澄んだ音を楽しみながら、今日の出来事の意味を反芻した。会議で、父親が亡きあとは、自分名義の株式が現金に換えられる権利があることがわかった。兄や姉の話しあいをきいていると、それぞれが四、五億円のレベルの額である。一番、存在感を持たれない自分でも、どうやら、億単位の資産になるらしかった。今さらながら、自分が資産持ちなのに驚いたものの、実感が薄かった。
 良次は、こうした資産のことを、裕子に教えるべきかどうか考えた。彼女が働きだした理由は、夫への関心を失ったわけでなく、結婚によって、自分で稼いで自由に使えるお金がなくなった。自由にできるお金が欲しいためであろう、と推測をしている。それは良次にも理解できる。問題は、そうなると、彼がいくら金を稼いで彼女に与えても、彼女を支配できるとは限らない。
 彼女の気持ちが自分から離れるのを恐れて、今まで裕子のわがままな行いに譲歩してきたつもりだ。しかし、それにも限度がある。
 この半月あまりというもの、夫婦の関係がなかった。良次にしてみれば、それは、単に男の欲望の問題だけではなかった。もし、そういうのであれば、風俗街に通えば刹那的な快楽は得られる。
 かれの求めているのは、愛情を確かめ合うための行為である。それがない。夫婦の意思疎通に何かのずれが生じている。
 その一番の原因となるのが、彼女がハッピーライフ会社の販売員になったからだ、と彼はおもう。
 ハッピーライフというのは、洗剤や化粧品、浄水器など家庭用品の外資系輸入販売会社である。
 販売員は主婦たちを相手に、友達など、見込み客の家で台所パーティを開き、家庭用品や健康食品を売りつけるのである。見込み客の時間にあわせたセールスが必要なのだ
 それで、帰りが遅くなったりする。そんな夜に肌の触れ合い求めると、疲れているとか、生理が早まった、とか理由をつける。それは嘘ではないであろう。
 たまたま間が悪いことが重なったのだろう、と思わないでもない。
 とはいっても夫婦の営みを避けられて気分が良いはずがない。以前はもっと、夫に従順であった。彼女の魅力のひとつに、良次の男としての支配欲を満たす雰囲気を備えていたことがある。
 それが、近頃はどこかで性格が変わって、楚々とした可愛さのある裕子でなくなっている。むやみに時間を気にするようになり、立ち居振る舞いに、メリハリが出てきている。
 壁の時計を見た。十時三十分だった。それにしても妻の帰りが遅すぎるのではないか。良次はエアコンで涼しくなった寝室のダブルベッドにトランクスだけの姿で仰向けに寝転がった。TVにスイッチ入れて、夜の経済ニュースを見る。しかし、身が入らない。
 考えはひとりでに、裕子の生活態度にどう対応するかに及んでしまう。彼にしてみれば、新婚当時の、濃い肌の触れ合いのできる妻であってほしい。しかし、裕子は結婚生活に単調さと退屈を感じていたところがあったらしい。そこでセールスの仕事の面白さに目覚めたようだ。
 良次はまた時計を見た。十一時になる。〈それにしても、遅いな〉不審に思いながら、裕子の帰りを待っていた。その時、家の固定電話が鳴った。飛び起きるようにして、良次は受話器をとった。
「もしもし」という女の声で、相手はてっきり裕子だと思いこんだ。「今、なん時だと思っているんだ」といきなり怒鳴った。
「すみません。こんな時間に電話して……」
 その声は、聞き覚えがあったが、裕子ではない。
「あれっ? どなた?」
「裕子さんのご主人ですね。正美です。唐沢の妻の……」
「ああ、唐沢さんの奥さんですか。どうしたんです? こんな時間に……」
「いまあなたの奥さんは、どこにいらっしゃるかご存じ?」
 変に張りつめた、いらだった言い方だった。
「いや、まだ帰ってこないもので、わからないですね」
「わたしは知っているんです。いま、裕子さんはわたしの家に、主人とふたりきりで、いるんです
「えっ。それじゃ、裕子はそっちで、まだ仕事の打合せをしているんですか。困ったやつだ」
「そうじゃないわ。お堅くてお人よしの人だわね。あのふたりが何を打合せるっていうの? 不倫しているのに決まっているじゃないの。そうでなければこんな電話などしませんよ」じれったそうな口調だ。
「そんな……。変なことをいわないでくださいよ。だいいち、あなたは以前にも訳のわからない電話をよこしているじゃないですか」
 良次は反撥した。
――それというのも彼女は十日ほど前に、夫の健吾の所在がつかめないが、家に裕子はいるのか? と、問い合わせをしてきているのだ。その時も裕子がまだ帰っていなくて、やはり良次が電話を受けているのである。
 居ないと答えると、正美は「やっばり、そうですか。きっと二人は一緒なのよ」と独り合点して、電話を切っている。裕子が帰ったとき、そのことを話した。
「いやね、健吾さんとは、週一回の打合せ以外はいつも別行動よ。そんなこと、あるわけないじゃない。しようがないわね。正美さんたら最近、嫉妬深くなって仕事仲間の女性メンバーとの間を疑って、健吾さんを困らせているんですって……。彼女、健吾さんの設定した営業目標が達成出来ないで、ノイローゼ気味なんですって。彼、こぼしていたわ」
 裕子は問題にするのもばかばかしそうに言ったものだ。良次は妻の言葉を信じているのである。――
 だが、今夜の正美はひるまない。
「ええ、そうですよ。だからわたしはあれからも、裕子さんと主人の行動に注意を払っていたんです。わたしの勘は正しかったのよ。そうでなければ、こんな電話などしませんわ。……もっとも、裕子さんの不倫があなたも認めてのことなら、わたしにも考えがあります。裁判にかけて、あなたがた夫婦に損害賠償をしてもらいますから」声をふるわしている。
「ちょっと、待ちなさいよ。ぼくが家内の不倫を認めるわけがないでしょう。裁判だなんて……おかしなことをいわないでください。ところで、奥さんはいま、どこから電話をしているんです」
「わたしの家の外よ。庭に居るんです」
「えっ、なんで庭なんですか? 家の中じゃなくて……」不思議におもって、訊きかえした。
 電話の音質がよくないのは、携帯電話のためらしい。そのうちに応答しなくなって、通話が切れた。しばらく送受話機を耳にあてていたが、良次は電話を切った。
「なんだ? ちぇっ、変なことばかり言ってくる女だな……。まえに会った時は、そんな感じはなかったのにな」
 良次は唐沢正美のやや頬骨の高い、切れ長の眼をした顔と、小柄でむっちりとした躯つきを思い浮かべた。
 この唐沢正美という女は、良次と同い年の二十八歳で、裕子をハッピーライフの販売員に勧誘した張本人なのだ。彼女は三つ年上の夫、健吾の仕事をサポートし、主に販売員の増員を受け持っていた。
 ハッピーライフの商法は、その会社でしか扱っていない独自の商品が定価の七割で仕入れられるのである。それを誰かに売れば、三割をコミッションで得られる。たとえば化粧品とか洗剤を、五千円分でも知人に売れば千五百円が入るのだ。
 販売員になるとセールスリーダーの傘下でグループに入るが、活動は個々にする。さらにこの商怯の一番の魅カは、自分のグループから優秀な販売員が出ると、別グループにし、その新しいグループの売上げの三パーセント分が元のグループにロイヤリティとして支払われることだった。自分のグループから幾組もの優秀な新グループを出せば、それだけで自然に収入が増えていくのである。
 正美が増員に力をいれるのも、そんな事情があるのだ。
 裕子とはエステサロンで知り合っている。正美にすれば、美容だけでなく、そこで人々との出会いの機会をひろげていたようだ。そこで、自分がつかっている美容液の評判を話したりして、裕子と親しくなった。そこで、自分のしている仕事の仲間にならないか、と誘ったのだ。
 それだけでなく、良次にも仕事の合間でいいから一緒にやらないかと、夜、夫の唐沢健吾を連れてきた。歩いてもこられるところに住んでいるのに、わざわざBMWを乗りつけ、近くの駐車場に停めてである。
 とりあえず良次は、裕子につきあって、健吾の説明をきいた。
 健吾は小肥りである。髪の毛が少なく額が広い。背が低く、顔が大きいので頭でっかちにみえる。高級なスーツを着てはいるが、そのわりにあまり見栄えがしない。
彼は早速、いくつかの商品見本をならべ、パソコンのタブレットをつかってハッピーライフ社の優秀さや、販売方法の合理的なことを強調する。
 健吾はこの商法に専念していた。会社の本部からハイグレード・ディストリビューターという資格を与えられ、年収が一千万を超えているという。
 物腰のやわらかい、妙に明るい話し方をする男だった。話をすすめるにつれ、精彩と説得力がでてきて、一緒にやらないと成功のチャンスを逃すような気にさせるところがある。
 それでも、良次は断った。自分も営業マンなので、良いことづくめの話の裏になにがあるか、だいたいの見当がつく。たとえフリータイムであろうとアルバイトをする気などはない。
 だが、ビジネス経験のない妻の裕子は、すっかり唐津夫妻の話に魅入られてしまったようだ。
 しばらくして、正美からまた電話が入った。「すみません。ちょっと、居場所を変えたので、電話が切れて……」
「なにか、あったんですか?」
「いえ、いいんです。それで、さっきの続きですけれど……。実はですね、こういうことなんです……」
 正美の話によると、きのう健吾が急に正美に出張を命じた。用件は名古屋の新グループの支援である。一泊二日のスケジュールだった。それが、あまりにも強圧的で強引だったので疑いをもったらしい。
「わたくし、ピンときましたわよ。これは、わたしを遠ざけるためだって。それで今夜、名古屋には泊まらずトンボ返りし、さっき家にもどってきたの。玄関前にくると案の定、家の中にほかの女の気配がするじゃないの。だから家に入るのをやめて、庭先から見張っているのです」
「その女が、裕子だっていうのは、たしかなんでしょうね?」
「応接間にいるのを見たわよ。間違いないわ。とにかく、すぐ来てほしいの。奥さんと夫の不倫の証拠をお見せできますわ。まえに奥さんと家にいらしたことがあるので、場所はご存じでしょう」
「ええ、知っています。とにかく、そこまで言うのなら、行ってみますよ。待っていてくださいよ」
 唐沢の家は、ここから鷺沼の駅と線路を挟んで反対側の住宅街にある。庭つきの瀟洒な一戸建てである。歩いても十五分ほどの距離だ。
 良次はポロシャツにジーンズをはき、サンダルをつっかけた。玄関前の庭に出ると、夜のこもった熱気がむっと彼をつつんだ。
 唐沢の家は、門扉から玄関まで五メートルほどあり、酒落たデザインの玄関ドアが、門灯に照らされ、艶光りしていた。
 扉は鉄製の格子型で、胸までの高さしかない。狭い庭と家の周囲がすぐ見渡せる。右側の駐車スペースには、BMWが置いてあった。右隣りの家とは低いコンクリートブロックで仕切ってある。
 しかし、あたりはしんと静まりかえり、正美の姿はない。
門扉を押してみたが、かんぬき型の鍵がかかっている。正美の話は嘘だったらしい。扉を乗り越えて侵入し、家のなかの様子を確かめたい気がしたが、夜中にそんなことをして、誰かに見咎められたら騒ぎになる。良次は思いとどまった。
「ちぇっ。あの女にいっぱい喰わされたか。人騒がせな電話をしやがって……。やっぱり、裕子のいうノイローゼ気味だというのは本当らしいな」
 良次は、いまきた道を引き返した。
        ☆
 裕子と結婚した当初から、子どもができたら、マンションを買うと良次は約束していた。ところが、裕子は二年経っても子どもが出来ない。良次は、会社では大企業や中堅企業の製造装置の部品の営業をしている。携帯電話の向けの需要が増えた時は。製造過程のコストダウンのための設備の改造対応部品の仕事が忙しくなってきていた。以前のように、早く帰宅することが出来なくなった。
 ちょうどその頃、裕子はさっき電話をしてきた唐沢正美と知りあったのである。それが面倒ごとを引き起こすもとになっている。
 唐沢正美という女は、健康そうな肌艶をし、短めではあるが、ゆったりと腰まわりを包むスカートが似合っていた。成熟した色香を漂わせ、品位のある風情をもっていた。ただ、時折かかってくる彼女への携帯電話の応対などは、「あのねえ、聞いて、聞いて…。これはディッシュ・クリーンといって手荒れのしない、すごくいい洗剤なのよ。どう、使って見ない?」といった調子で、よく言えば気安いが、ちょっと品性がない。かなり庶民的である。かと思うと、製品の具体的な取り扱い説明になると、メーカーの広報ウーマンのような、「ございます」口調にも変わるのである。
 知りあうきっかけは正美だったが、裕子の方は、彼女の夫でセールスに手腕をみせる唐沢健吾を尊敬し、彼の指導に従っているように見えた。
 良次は、そうした裕子の環境変化に気付かなかった。彼女の身体に角ばったところがなくなり、女らしく性的な艶やかさ持ち始めたことに満足していた。もっと洗練された美しさを与えたいと、ビューティサロンにいくことを勧めた。
 それ以来、彼女は目に見えて変わった。服装が派手になり、肩の露出するブラウスにショートスカートで外出する。化粧も厚くなった。「ちょっと、派手すぎないかな」と良次は違和感を口にしたが、裕子は、唐沢夫妻の健吾のアドバイスで、色気を強調するのが良いと教わったと言い張り、耳を貸さない。夫婦の間に、すこしずつ何かが変わってきていた。
 このごろの裕子は毎日、知り合いや、昔の友達をたずねて出かけてゆく。家に帰るのは夜の九時、十時になるのも珍しくない。それに、家にいるときも、誰かに電話している。普通の夫婦の会話の生まれる余地がない。裕子が働くときに、強く反対しなかったのを後悔したが、こうなるともう遅かった。だが、唐沢健吾と裕子との関係は、あくまで仕事上のものだけと信じていたのである。
        ☆
 家に戻った時は、午前零時近くになっていた。
 裕子はまだ帰っていない。良次はさすがに疲れて、冷蔵庫にあったビールを一缶飲みほし、そのままベッドに倒れ込み眠ってしまった。
 翌日、午前六時半頃。良次は蒸し暑さで目覚めた。エアコンがタイマー設定で一度停止するようになっていたのだ。
 気がつくと、いつの間に帰ったのか、隣に裕子が寝ていた。
 良次は、エアコンを弱めの設定にしなおした。そして、良次に背を向け、丸くなって寝ている裕子の肩を揺さぶった。
「おい、きのうの夜は何していたんだ。いくらなんでも度が過ぎるぞ」
「仕事に決まっているでしょ。もう、ちょっと。眠いから、そんな話あとにしてよ」
 彼女は彼の方に向こうともしない。肩をふって眠ろうとする。
「いや、だめだ。きのう、おまえが居ないときに唐沢の奥さんから電話があってな。唐沢とおまえが怪しいって言ってきたんだ。お前たちはどうなっているんだ」
 すると裕子が、ガバッと半身を起こして、振り向いた。
「正美さんが、またなの? それで、なにがどう怪しいって言うのよ」
 良次は、昨夜の出来事を教えた。裕子の眠そうだった眼がはっきりしてきたのが良次には判った。
「そんなの嘘に決まっているわ。正美さんは、きっと名古屋から電話をして、健吾さんが、真面目に家に帰っているかどうかを調べさせたのでしょう。あなたはだまされているのよ」
「それじゃ、おまえは何処で何をしていたんだ」
「茨城の実家よ。母や、こんど社会人になった弟に鍋セットをすすめに行ったの。帰りにまた、昔の同級生とも話し込んで、遅くなったのよ」
 裕子の言葉によどみはなかった。
「それにしても、おまえは身内にまで、商売しているのか。田舎住まいで、十万円以上する文化鍋が必要なわけがないだろう。そんなことばかりしていると、しまいには友達や身内から見放されるぞ」
「なんで? わたしは、絶対いいと信じてすすめているのよ。だいいち、良ちゃん。あなた、それでも営業マンのはしくれなの。そんな、わたしのやる気を殺ぐような、後ろ向きの発言をするなんて……。それにくらべ健吾さんなんか、わたしのことを前向きで根性があるって、いつも褒めてくれるわ。人を動かすのには、けなすよりも褒めることなのよ。さすがに健吾さんはリーダーシップがあるわ。あなたもすこしは見習ったらどう?」
 これには良次も腹を立てた。もう少しで、妻に手を挙げるところだった。なんとか、怒りをこらえ、できるだけ冷静に言った。
「おまえにそこまで言われたくないよ。もう、この話はよそう」
 とりあえずのところ、今は裕子の躯を抱き、お互いの欲望をかきたて、それを満たすことで、意思の疎通にしたかったのだ。良次は彼女のパジャマに手をかけ、抱き寄せようとした。
 すると裕子は、「やめて、眠いわ。わたし疲れてるの。また別のときにしましょう。お願い、眠らして……」と横向きになり、枕をしっかり胸に抱え躯を堅くした。
「それでも、おれ達は夫婦かよ」
 自分に向けられた裕子の丸い尻を、腹立ちまぎれに蹴飛ばした。
 裕子は、じっと躯を堅くしたまま、それに耐え、応じようとはしない。
 これまでに見せたことのない裕子のしたたかな態度だ。良次は、眠りをむさぼる彼女の脇で、なすすべもなくも身体を寄せていた。
 正直なところ良次も昨日の会議の疲れは残っている。かつての新婚時代ならば、多少の疲れなどときにせずに、裕子を抱いて悦楽と陶酔の世界にひたっていたであろう。
 その時、裕子が横向きから寝返りをうって仰向けになった。熟睡しきっているのだ。水色の薄手のネグリジェから、彼女の体型が浮き出ている。良次が選んだ好みのいくつかの種類のものを、まだ使っている。
 祐次は、あらためて彼女の体型が洗練されて、美しく整っているのに気がついた。かれは妻の胸元のホックをはずして、前をすべて露出してみた。裕子は、みじろぎしたが、目を覚ます気配はなかった。
 乳房はやや大きめになり、外に向いている。骨ばっていた腰はくびれて、しかも尻には丸みが増していた。腿は肉づきがよく、しかもふくらはぎが引き締まって細かった。
 彼は、欲望をそそられたように感じた。彼女のうなじに唇をつけ、パンティに手をかけた。すると、裕子がかすかにうめくと、良次が何をしようとしているのか気づいたようであった。眼を閉じたまま、仕方なさそうに「早くすませましょうね」といって、良次の下腹に手をさしのべてきた。それが、ねぼけたような仕草であった。
 そのことが良次に、妻が自分に無関心な見知らぬ女のように感じさせた。
「ちゃんと、目を覚ませよ。夫婦の話をしながらしようぜ」と、良次はいった。
「それ、どういう意味。まだ私は眠りたいわ」
「どういう意味って、そんなのに理屈があるかよ」
 良次は言葉に詰まった。そこには、彼の愛情を求めていない他人のような女がいるだけのように思えた。そして、そのことで、彼の欲情は萎えていった。
 手探りで、裕子はそのことを察知した。
「ほらね。あなたも疲れているのよ。元気が出てないじゃない。もうひと眠りしましょう」
 裕子は再び彼に背を向けてしまった。
 これはどういうことだろう。変な話だが、こんな場合、風俗の女だったら、相手の萎えた気持ちを引き立たせようと、もっと努力するであろう。良次は、裕子から身体を離して。天井を見つめていた。
 裕子は確実に以前の彼女ではなくなっている。まえのような従順さがない。それどころか、営業の仕方について、自分を批判するではないか。もう、自分に対する尊敬心をもっていないのだ。
 深い考えもなく、エステサロンなどに通わせた。その結果、以前の裕子ではなくなったのだ。それなのに、裕子の全てを所有していたつもりでいた。自分の求める夫婦の会話は、裕子が自分の持ち物と同じであるという思い込みを通すために必要だったのだ。
 裕子からすれば、世間知らずで、良次にいわれるままの生活をするしかなかった立場から、自分らしい生き方をし始めただけに過ぎない。困っているのは自分だけで、裕子が自己主張するのは、自然な時の流れなのか。…困ったことになった。でも、困っているのは、自分だけなんだ…。そのうちに、かれは朦朧として眠りに入って行った。
 目覚めると、断片的な夢の記憶が残っていた。ひとつは、風俗店の女になった裕子が「時間が来たわよ」というシーン。もう一つは、机に向かった裕子が、パソコンを操作していた。「仕入れの支出でしょ。売り上げとの差が販売収益でしょ。それに経費を支出にして、総計を出すの。どう、ぴったり合ったわ。お金の経理ってすごいわ。必ず合うのよ。世の中に、こんなに物事がすっきり割り切れるものって、ほかにあると思う」と経理上の貸借対照表をつくり喜んでいるのだった。
「変な夢だな」と呟いて、時計を見ると、十一時を過ぎている。隣に裕子はいなかった。すでに外出したらしい。セールスをしているから、義理の付き合いも多いようだ。 
 空腹を感じた彼は、身なりを軽くととのえると、駅前のレストランで食をとろうと、外に出た。夏の陽ざしを照りかえす道を歩きながら、良次はまた同じことで、考えをめぐらしていた。結婚したばかりの頃の裕子ではなくなっている。
 それも、虚実をないまぜにした情報を発信し、顧客を獲得しようとするセールスの世界を経験したとなれば、再びもとの彼女に戻ることは、期待しても無理かも知れない。
 本来は、専業主婦で家庭に入って、子供を産んでくれれば、自分の両親も孫の顔を見て、影の薄い自分の存在を見直してくれるにちがいないのだ。だが、こうした良次の腹づもりは、完全に壊されていく。従順だった妻が、夫の営業について、お説教めいた言葉を吐くなんて、夫に対する尊敬心をまるで失っている。それが彼の心を冷やした。それが、男の欲望まで萎えさせたのだ。情けない。
「裕子の奴、ぼくを無視して、どこまで勝手をする気なんだ……。しまいには、離婚をするまでになるぞ」
 いままで胸の奥に湧きあがってくるたびに、ひたすら抑えていた気持ちが、急に言葉になってでた。しかし、現実にそれを決行する意志は、まだかたまってはいなかった。
        ☆
 良次が足を運んだレストランは、駅前の短い商店街のはずれにあった。店の横に四台ほどの駐車スペースをもっている。その駐車場に、昨夜唐沢の家で見たのと同じ色のBMWが駐車しているのを目にとめた。
〈もしや、唐沢の車なのでは?〉
 彼はドアを押し、注意深く店のなかを見まわした。すると店の奥に、小肥りで額の広い唐沢健吾がいるではないか。若い女とテーブルに向かいあっている。女の口ングへアーに茶系のメッシュをしたスタイルが、裕子と似ているので、良次は一瞬とまどった。
 女は二十三、四歳だろうか、化粧が濃く服装がひどく派手だ。ラメ入りのスリップワンピース、ヒールの高いサンダルにペデキュア。ラブリングとラブブレスで身を飾っている。
 良次はふたりの近くへ寄った。観葉植物で彼らの視野から死角になるテーブルに席を取った。ウエイターにハンバーグ定食を注文する。ここだと女が唐沢に話している内容が、良く聞こえた。
「浄水器は二十台を売り切るのは、ちょっと自信がないわ。売った分の集金がまだ出来ていないのに、仕入れの請求だけは来るでしょう。追い立てられているんです。すこし仕入れを抑えようかと……」
「それはダメだと前にも言ってあるじゃないか。注文をもらってから仕入れようとなんて思っていたら、切実性がないから、売る努力をしなくなるのさ」
「でも、それがなかなか厳しくて……」
「桃子ちゃん。頑張ってハワイに行こうよ。やれば出来るって。この間のアフターミーテイングでも、ふたりだけで誓ったじゃないか」
「そうなんだけれど、わたしにはまだ力不足できついのよ。……でも、がんばるしかないわね。それじゃまたアフターミーテイングしましょうよ。こんどは何時にする?」
 桃子という女の声が低くなり、甘えるような語尾になった。
「来月にしようじゃないか。仕入れたものを売り切ってから……」
「また、話はそれね……、だから、やってみるって。ところで、影山裕子さんがこのところ、ハイペースで点数をあげてリーダーにも首ったけなんですってね」
「ふん。さすがに耳が早いな。でも、彼女には夫がいるからね。それも非協カ的で全力投球させないんだ。イマイチさ。きみがひと頑張りすれば、彼女なんかすぐ乗り越えられるよ。ぼくはエメラルドのように輝くきみを応援するよ」
「それ、ほんとね。信じていいのね。わたし今から湘南から鎌倉にドライブしたい。連れていって欲しいわ。お願い……」
「うーん。それじゃ藤沢のそばに見込み客がいるんで、そっちの用事をするか。そのついでということならいいよ」
 ふたりが店を出て、BMWに乗り込むのを良次は黙って見送った。
〈唐沢の奴、女心の競り合いを利用して、成績を維持しているのか。裕子のもその手に乗せられているのだ〉まさかと思う気持ちが揺らいでくる。ハンバーグの味わいが消えていた。
 良次は、唐沢健吾のハッピイウエイへの誘いには応じなかったものの、健吾の人柄に悪い印象は抱かなかったのである。それどころか、営業マンとして熱心で、誠意のあるところ見せるのが巧みだと感心さえしていた。だからこそ業績を上げているのだろうと思っていた。
 裕子がハッピイウエイで仕事をするのを、黙認したのも、唐沢の人柄には疑いをもたなかったからだった。もともと唐沢はスタイルや容姿が格別良いわけではない。良次に男としての安心感をもたせていた。しかし、健吾は、それを相手の警戒心をときほぐす武器にできるのだ。
 良次は食事を済ませたが、さっき見聞きした事柄を裕子にどう話したら良いのか、わからない。頭を冷しにパチンコ店に入り、空いていた台に座った。迷いごとや悩みがつのったとき、彼はパチンコ台を流れ落ちる玉を眺めながら、思案をする癖があるのだった。
 そんな時にかぎって妙に大当たりをするものだ。ドル箱を四つほど重ねたが、気分は沈んでいた。裕子に、お前は騙されているとか、利用されているとか言ったくらいでは、とても今の仕事をやめる程度の入れ込みようではない。なんやかやと理屈をいわれて反撃されそうだ。思案に暮れて結論の出せぬまま家に戻ったときは、夕方で五時半を過ぎていた。
 ドアに鍵がかかっており、部屋に裕子の姿はなかった。部屋の掃除もした気配がない。朝は気付かなかったが、テーブルの上に、横浜の友人のところを訪ねるので、帰りが遅くなるというメモがあった。良次は舌打ちをして、メモを破り捨てた。
 エアコンのスイッチを入れ、シャワーを浴びると、ベッドに横になった。ひと休みのつもりだったが、疲れが溜っていたのか、そのまま深い眠りに落ちた。
 しつこく鳴らされるドアチャイムの音に、やっと気づいて目が覚めた。時計をみると夜の八時を過ぎている。
 裕子が帰って来たのなら、そんなことをするはずがない。
「誰だ?」
 ドアを開けると、正美がクリーム色のスリップワンピース姿で、大きめのバッグをもって立っていた。
「なんだ、あんたか。昨日の夜中の電話は何なんだ? 呼び出されたから、家に行ったけれど、あんたは居ないし、どういうつもりだ。デタラメを言って」
「それじゃ、あの時、家の前まではいらしたのね。実はそのころ、裕子さんとうちの主人が情事のまっ最中だったわ。わたしは最初、あなたに現場を押さえさせて、裕子さんを懲らしめてもらおうと、電話をしたの」
「えっ。それなら、どうして外で待っていなかったのだ?」
「待っている間に気が変わったのよ。うちの主人との離婚訴訟のために、不倫の現場を記録しておくことを思いついたの。家に入り、持っていたスマホで、情事の一部始終を録画していたわ。それから、渋谷のカプセルホテルで寝て、けさ家に戻ったのよ。これまでずっと、名古屋にいたふりをしてね。夫はまた留守だわ。今日はどこで、どの女を相手にしているのやら……。そのうちに、ギャフンといわせてやるの」
「そういえば昼に、レストランで若い女と、同席していたな」
「それが裕子さんでないなら、井崎桃子ってひとでしょう。あなたにも判ったでしょ。いつだって仕事のうちあわせが口実。ばかのひとつ覚えだわ」
「だけど、裕子はちがうだろう。昨夜は、茨城の実家に行ったと言ってるぞ」
「だからといって、うちの主人との関係がないとは言えないじゃないの。きっと、昼に向こうで用を済まし、その帰りに、夫に会っているのよ。とにかく、このスマートホンの動画みてよ。あなたに見せようと、持ってきたわ」
 正美はバッグの中から、スマホを出して良次に差し出した。
「ほんとうに現場を記録したのか? よし、それじゃ今すぐ確かめようじゃないか」
 良次は顎をしゃくって、正美に部屋に上がるようにうながした。
 応接椅子に座った。外を歩いてきたせいで、彼女の全身から汗が噴き出ていた。良次は、エアコンを強冷にした。つづき部屋のドアを開け冷気が流れるようにしたが、すぐには涼しくならない。
 正美の額から流れる汗はなかなか止まらない。しきりにハンカチで拭う。うすい生地のワンピースが汗で濡れ、ブラジャーだけでなく、時々は、尻のパンティのラインが滲み出ているのがわかった。体型が浮きでると、やや太めの躯を無理して下着で締めつけているのがわかる。
「よし、本当に裕子が浮気をしているのが、ここに映っているんだな」
「論より証拠だわ。辛かったけれど、そのほとんどを記録したつもりよ」
 正美が、唇をかんで領いた。
 スマホ録画を再生すると、しばらく画面がノイズで揺れた。やがてやや暗い画像に男女の姿が映し出された。
 鮮明さはないが、それが唐沢健吾と裕子であるらしい。
 ふたりが居るのは、唐沢の家の応接室である。その部屋には見覚えがある。ハッピイウエイの販売員に勧誘された時、この応接室に通されたのである。隣はダイニングキッチンで、カーテンで仕切られていた。正美はそのカーテンの後ろから、椅子でも使って撮影したらしく、やや高い角度からの映像であった。
 テーブルの上には、契約書や顧客名簿らしき書類が乱雑に積まれている。
「いま、裕子は絶好調だな。このペースでいけば、今年は年収一千万円を超すね」ネクタイをはずし、ワイシャツ姿の唐沢が言った。
 良次は唐沢が裕子の名を、呼び捨てにしているので驚いた。しかも、裕子はそれを当然のごとくに受けとめている。
「みんな、唐沢さんの指導のおかげよ。品物を売るな、夢を売れって言ってらしたじゃない。こんどの見込み客はね、市役所の職員。その人、朝から晩まで決まりきった仕事に、気持ちを打ち込めないでいるの。目が死んでるのよ。わたし、はっきり言ってやった。今のあなたは生ける屍だわ。でも、ハッピイウエイの仲間に入れば、わたしのように夢と希望にあふれた生き方ができるのよ、って……」
「そうしたら、どうだった?」
「すごく感激してた。目からウロコが落ちたみたいだって」
 彼女は得意げに、セールスの成果を語る。良次はこれほど熱っぽさをもって話をする裕子を見たことがなかった。
「そうだろうな。すごいじゃないか。生ける屍とは、強烈なことを言うね。でも、それは本当だよ。ハッピイウエイの仕事を理解できない奴なんか、アホだ。人生がわかっていないのさ。ぼくはこうして、どんどん成長していく裕子を見るのがうれしいよ」
 健吾が立上って、裕子の隣にぴったり寄り添った。
「残念なのは、裕子の旦那だよ。こんなに進歩している君のことを理解しようとしないのだから」
 そう言いながら、裕子の肩に手を置いた。裕子は身じろぎしたが、腕を振り払うことはしない。
「そうなの……。良ちゃんは、ベッドのなかではギンギンなんだけれど、生活に張りがないというか、輝くものがないのよ。セックスだけの夫婦関係じゃ、つまらないわ。ついつい良ちゃんとのセックスに気が乗らないで、敬遠しちゃうの。だって、セールスに成功したときの、感激のほうがずっと刺激的なんだもの」と裕子。
「このところもずっと仕事に打ち込んで、早く家に帰っていないものな。だいたいハッピイウエイの仕事を覚えたら、平凡なサラリーマンなんかに愛想が尽きるのが普通さ。……どうだ図星だろう」
 健吾はまた、さらに彼女ににじりよった。
「やっぱり、そうだろうな。こんなに素敵な裕子を理解しようとしない良次さんは、不幸だよ。きみは今、ダイヤモンドのように輝いている。心も躯も燃えているのに……。ぼくはそんな君を食べてしまいたいほど可愛いくて仕方がない。わかるよね」
健吾は、いきなり裕子の顎をおさえ唇を吸おうとした。
「待ってよ。こんなところで……」
「きみだって、本当はこうなるのを、期特していたんだろう。いままで、思わせぶりなことばかりやっていてさ」
「でも、……」
 裕子は、上半身をのけぞらせ後にさがった。とたん、ソファから向う側の床の上に落ちた。すかさず健吾が彼女に襲いかかった。

 ここで、隣の正美がぴったり躯を寄せ、いきなり良次の脇腹をつついた。
「あんた、見たでしょ。うちの人もよく言うわよ。なにさ、ダイヤモンドだなんて。わたしには、真珠の輝きだって口説いたのよ」
 香水と汗のまじった匂いと、柔らかい肌の感触に、良次は思わず正美を見た。嫉妬心からか、正美の眼は猫のそれのように異様に輝いていた。
「わかったよ。悪いけれど、しばらく黙っていてくれ」
 良次は動画にまた見入った。
「そうね。これからが見ものだわ。じっくり見たらいいわ」
 正美が皮肉をこめて言った。
 画像はしばらく揉み合う姿をうつしながら、大きくブレていた。正美も隠し撮りしながら、心穏やかではなかったのだろう。ふたりの激しい息づかいのなかで、裕子はもはや抵抗する気を失ったらしく、長い髪のなかに顔をうずめていた。
「よし、よし、いいね」
 健吾がズボンを脱ぎ捨て、裕子の下着をはぎとった。カメラは、裕子の裸の下半身に健吾が密着していくのを、後ろから映していた。魔法でもかけられたように健吾の背中に裕子の脚が絡む。息を弾ませる裕子。良次には、裕子がすっかり欲望をかき立てられているのがよみとれた。
 ここで、正美の腕が疲れたのか、カメラは急に床をうつし、画面が壁をなめた。
 それからまた、カメラは全裸で重なりあうふたりをとらえた。健吾が背後から彼女を抱え、しきりに前後運動をしている。裕子の振り乱した髪が、大きく左右にゆれ、あられもない声をあげた。良次は妻のこんな動物的な声音を耳にしたのは、はじめてだった。すると健吾が呻き声をあげ、床にのびた彼女の上に、重なりおちた。
 小さな映像ではあるが、女の白い肌、大きく張った乳房、くびれた腰が録画で刺激的にとらえられていた。
 良次は充血した眼を見開きうめいた。こうして見ると、かつての楚々としたところあった裕子の姿態が、脂の乗りきった熟女のものに変わって見えるのも不思議ではない。
「くそっ、裕子のやつ。ひとをコケにしやがって。商売とセックスを混同しやがって。ばかなやつだ」
 良次はスマホの録画から目を離した。嫉妬心というより、軽蔑的な世界に身を投じた裕子に怒りを感じた。これ以上、見る必要はなかった。同時に、淫猥な感情が入り混じった奇妙な興奮にかきたてられていた。
        ☆
「恥知らずもいいところだ。しかし、あんたもよくもここまで、盗み撮りをしたな。気が知れないよ」
 良次が正美に言った。
「完壁な証拠材料にするためよ。これで裁判所に離婚を申し立てて、慰謝料をもらうの。あの家を買うまでに、わたしが夫にどれだけ協力してきたか──。うちの亭主からは二千万円。あなたの奥さんからは一千万円。いいえ、そんなのじゃ、気が済まないわ。財産を根こそぎ分どってやるつもりよ」
 正美の眼は嫉妬とうらみに燃えている。紅潮した顔から、一度引いた汗が、またふき出ていた。
「裕子は被害者だろう。きみの夫が誘惑したんじゃないか。こんなものを他人に見せられてたまるか。恥だ」
「なんて、お人好しなの、あんな淫らな奥さんの肩をもつなんて。どこが被害者よ。最後は自分から大股びらきしてるじゃないの。この録画を見れば誰でもそう思うわよ。だいたいあなたが、あの女を満足させられないから、こんなことになるのよ。あなた、それを人に知られるのが、怖いんでしょう」
 良次は、痛いところを突かれて逆上した。
「なにっ。言ってくれるじゃないか。こんなものは捨ててしまえ」
 良次はスマホを部屋の隅にある屑かごに投げ入れた。
「どうして、そんなことするのよ。それ、わたしのよ」
 正美が屑かごに飛びつき、スマホを拾った。良次は、彼女の襟をつかんで、それをまた奪った。すると、正美は彼の腕に噛みついた。
「痛っ。こいつ、離せ」
 正美の髪をつかんで引き離そうとする。だが、彼女は恐ろしい力で噛みついたままだ。歯が皮膚に食い込み、肉を噛みきりかねない勢いだ。良次は拳で彼女の腹部を、したたかに殴りつけた。「ぐえっ」と喉を鳴らして正美の歯が、腕から離れた。呼吸がつまったらしく、腹をおさえて、畳に片手をつきあえいだ。
 正美の歯の離し際に、肉をえぐられたらしく、良次の腕から血がしたたり落ちた。正美の唇も血で染まっている。
「こいつ、やったな」
 良次は怒りにまかせ、正美の正面から襟をつかみなおすと、床に押しつけ、さらに振り回した。正美が反撃する力を失っているのにも気がつかない。
 彼女を振り回しているうちに、ワンピースのボタンが飛び、胸がはだけた。勢いでブラジャーのホックがはずれ、正美の乳房があらわになる。ワンピースの裾が上にまくれあがった。白い下着が汗で濡れており、股間の黒い繁みの部分が透き通って見えた。
 それが、それまで下半身にくすぶっていた良次の欲望を呼び起こしていた。裕子の裏切りに、とまどいながらも、それとは別に、正美の黒い繁みの猥褻感に、失われた欲望が回復するのを発見していた。なぜかはわからないが、その力強い動物的な欲情に従うこと。そのことが今の自分を満足させるに違いないと感じていた。
 良次は、正美を畳に抑えつけ襲いかかった。
「なに? ちょっと、待ってよ……」
 正美が抵抗する気配を見せたが、良次の勢いに負け、力が入らない。彼はかまわず彼女の血に濡れた唇を舌で舐めあげた。血の匂いと舌のうごめく感触に、正美が身ぶるいするのがわかった。拒まねばいけない、だが何故か拒めない。正美の躊躇する気配が良次に伝わってくる。彼女の首に腕をまわし、身動きができないように抑える。
 良次は彼女を抱え上げ、隣の寝室のべッドに運んだ。正美は両膝を曲げ良治を蹴ろうとするが、弱々しい抗いだった。彼が彼女に侵入したとき、正美が耐えかねたように呻いた。密着した肉体が呼応しあい、ふたりはひとつの生き物のように痙攣した。
        ☆
 悦楽の嵐が去っても、ふたりは躯を重ねあったままだった。
 正美は、急に顔を横にそむけ、笑いだした。
「あなたったら、よくよく飢えてたのね。でも、こんな風に良かったのは、はじめてだわ」
 正美の機嫌が良いので、良次は安堵した。
「このことは、なかったことにしておかないと、まずいよな」
「そうね。夫の健吾に知られたら、慰謝料の満額は取りそこなうかもね」
 けだるげで、あっさりした言い方だった。官能的によほど満ち足りたのか、それまでの憎悪にみちた、偏執的な口調が影をひそめている。
 このとき良次は、ほんとうのところで、正美は性的な欲求不満があって、これまでの極端な行動にはしっているのではないかと思った。
「避妊をしなかったけど、大丈夫か?」
 良次はふと気がついていった。
「えっ、そうだったわね。でも、いいわよ、仕方ないじゃない。じつは、健吾はね、無精子症なの。子どもの時にオタフク風邪にやられたんですって。だから、避妊する必要がなかったのよ」
「へえ……。じつはおれの方は、裕子に妊娠して欲しいのだがね。けれど、出来ないんだ……。あんたは子どもが欲しいのか?」
「あたりまえよ。健吾はわたしに自分が無精子症なのをかくしてたのよ。あの人の母親から聞き出して知ったんですもの」
 それから正美は、堰を切ったように話し出した。
 彼女は、夫の健吾の指示でハッピイウエイの仕事をしているが、今はこの仕事が好きではないという。健吾がまだ大手スーパーに勤めていた時に結婚した正美は、子供のいないかわりに、ハッピイウエイの仕事が夫婦の絆になればと期待したので。はじめたのだった。最初の頃は、やってよかったと思った。
 夜、食事のあと額をつきあわせて、お互いの知り合いをリストアップする。この人には洗剤を、この人には浄水器も売れそう、あの人は販売員になれるだろう。計画ができると、セールスにゆく。うまくいけば成功の理由を分析し、ダメでも頑張ろうと励ましあう。夫婦の会話が活発になった。
「でもね。そりゃ、最初は簡単に売れたけど、毎月それ以上の売上げをするとなると、大変よ。だんだん、追いつめられたような気分になってくるの。本部からは、もっとレべルの高い段階に登らなきゃいkないなんて尻をたたかれるし……」
 そのうちに健吾が女性販売員の幾人かと、肉体関係を持つようになった。
「最初は、販売員をなんとかおだてて、その気にさせて売らせるつもりだったんでしょうけれど……。あなたは能力ある。魅力的だ。素晴らしい人だとか誉めて……。それって効果があって、成績を上げてくるから、ついには愛しているってことになってしまうのね」
 良次は、正美が夫の健吾と連れだって、ハッピイウエイに勧誘をしにやってきた時のことを思い出した。熱をいれて説明する健吾を如才なく補助していた正美だが、ときどき褪めた眼で、よそ見していたものだった。
「それじゃ、あの頃はもう、あんた方夫婦はうまくいっていなかったんだな」
「そう、裕子さんがわたしの勧誘した最後の販売員だわ。……わたしは、夫にこの仕事をやめると言っていたんですもの。そうしたら、健吾は怒ってすごいの。根性がくさっているとか、ブタだとかののしられて……」
 正美はそこまで話すと眼に涙をためはじめた。その時の屈辱感がよみがえってきたのだろう。「こんど、こんなことを言われたら、殺してやろうと思ったくらいよ」
 そう言ったときは、すっかり涙声になっていた。
 「そんなに思いつめてたのか」
 良次は相変わらず情緒不安定な正美に興ざめしないでもなかったが、それでも慰めに肩を軽くたたいてやった。良次も妻の不倫現場のビデオを見せられて、ショックを受け気持ちが動揺していたからだ。彼女を慰めているうちに、自分も気分が和らいでいくのを感じていた。
 ひとしきりして時間を見ると、九時半を過ぎていた。正美が帰るまえにシャワーを浴びさせて欲しいと言った。良次は洋服ダンスに、裕子の真新しい下着がストックしてあるのを教えた。そこから新しいバスタオルを出してやった。
 正美がシャワーをすましたあと、良次も浴室に行って汗を流した。
 寝室へ戻ると、彼女はまだベッドに居た。着替えもせず、裸にバスタオルを巻いたままで、腹這いの姿勢で眠っていた。手にヘアブラシをもっている。髪を梳いている途中、一休みのつもりで横になり、寝入ってしまったらしい。
 起こすのをためらって、良次は口を半開きにしている正美の寝姿をしばらくながめていた。ついさっき彼女で味わった悦楽が、よみがえってきた。巻いてあるタオルの裾をそっとまくる。やや肉のついた腹部、その下の濃い繁みが、奥の性器の部分を隠していた。奇妙なことに、その繁みに隠された部分が、かれの欲望をかきたてた。久しく感じていなかった、生々しい情慾だった。これが、自分の追存在性を回復させてくれている。気分が高まった。
 〈もう一度、抱いてから帰そう〉彼はタオルをはぎ取りながら、彼女を仰向けにした。
すると、正美が眼をさました。黙って彼の首に腕をまわし、彼を迎え入れた。
 その時、家の玄関ドアのノブが、かすかな金属音を発し、ドアが開いた。
 裕子である。玄関に脱いであった女の靴と、奥の部屋からもれる激しい息づかい──。異様な気配に、彼女はすぐ寝室のドアを開けたのである。ベッドの上で、全裸のふたりが絡み合い、正美が悦楽の声をあげているところだった。
「まあ。これって、どういうこと? えっ、何よ、あなた……。正美さん? あなた達……。よくもこんなことを……、信じられないわ。もう、ひとを莫迦にして……」
 裕子はショックに息をのみ、ヒステリックに叫んだ。
        ☆
 良治のいるオフィスに、スタイルのよい見栄えのする若い女が、つかつかとやって来た。目的をもった無駄のない歩きで、優雅にヒップを左右に揺らす。まわりでは、短期間とはいえ、それがかつてこの会社に席を置いていたあの田舎っぽい新米社員の裕子だとは誰も気づかなかった。
 その日、良次は会社で昼の休憩もとらずに、営業計画の検討をしていた。年が明けて一週間、年始まわりが一段落した時だった。
 裕子が目の前に立ったとき、彼は眼を見張り、呆然とした。シンプルな仕立てのグレーのスーツに胸の豊かさを引き立てる白い絹のブラウス。清純さの残る肢体をキャリアウーマンらしいスタイルに決め込んでいたからである。
「お前……。裕子じゃないか」
「困ったひとね。いつまで、呼び捨てにするのよ。サンぐらいつけてよ」
 裕子は持っていた小型のアタッシュケースに似た鞄を、床に下ろして言った。
「ああ、いや悪かった。なんだか高給取りになったようだな。見違えたよ」良次は特性らしい洒落た飾りのついた鞄に視線をやった。「でも、おれは、きみの客にはなれないぞ……」
 裕子は高級な化粧品を使っているらしい、つややかな頬をゆるめ、意味ありげに額いた。
「外へ出て、食事かお茶は、どうかしら?」
「いいよ」
 良次はすぐ席をはなれ、彼女と連れ立って表通りにでた。会社のビルの駐車場の脇を通りすぎるとき、停めてあったメタルグレーのべンツを指さし「これ、わたしが乗ってきた車よ。ローンで買ったんだけど」と言って、良次を驚かせた。
 良次は去年の秋、裕子と離婚しているのである。彼はJR鶴見駅の近くに、マンションを買い、正美と一緒に住むようになった。正美が良次の子を妊娠したからだった。当然、正美は健吾と離婚している。
 それ以前の裕子との話し合いの段階で、彼女は良次に五百万円の慰謝料を請求してきた。彼は、裕子がさきに唐津健吾と犯した不倫関係が原因の離婚であるからと、それを拒否したのだった。
 当初、裕子は唐沢健吾との不倫関係を、強く否定していたのである。そこで良次は正美の記録した映像を彼女に見せた。
「これは……?」
 裕子は絶句して、首をかしげ、そのまま黙りこんだ。しばらくして「正美さん、やるじゃない……」と呟いた。そして、「それじゃ、いいわよ。慰謝料なしで別れましょう。わたしは自立する準備のため、いま泥仕合をしている余裕はないんですもの」
 ただし、不倫の証拠ビデオは裕子が持つという条件をつけた。良次は、名誉を護るため当然と考えて、お互いに協議離婚に同意したのだった。
「ところで、さっき自立した、っていってたな? 唐沢君と生活と仕事を一緒にやっているのじゃないのか」良次は意外な気がして、裕子に訊いたものだ。
「とんでもない。あんなレベルの低いセールスマンと同列にして欲しくないわ。見ててごらんなさい。ハッピイウエイなんか、もう卒業よ。わたしはもっと高級なビジネス・スウーマンになってみせるわ。事業家になるのよ」
 決然として彼女は言ったものだった。そこに良次と結婚したての頃の、世間知らずだった彼女の面影はなかった。
 裕子はその後、実際にハッピイウエイをやめた。彼女は赤坂にマンションを借りて住み、宝飾品販売のセールスをはじめているという。
 ふたりは神田駅近くのレストランに入った。良次は裕子が様変わりした姿で、突然現われたのには面食らったが、すでに彼女が彼の会社、原田商事の社長の自宅に幾度も通っていると聞かされて、さらに驚いた。社長夫人やその娘に宝石類を売り込み成功しているのだった。
「今日は、社長にあいさつをしてきたわよ。内緒のはなしとことわって、わたしが良次さんと結婚したことのある元社員で、いまは独身でいると教えたら、驚いていたわ。その後すかさず、もし、夜が寂しければ、その方の相談に乗るよ、ですって。……男の考えることは、みんな同じよ」
 裕子はバッグから外国たばこを取り出すと、口にくわえた。
「おい、タバコを吸うようになったのか?」
「もう、おいは、ないでしょう。ポーズなのよ、ふかすだけ……。それでね、いい話をおしえてあげる。あなた、この四月に課長になれるわよ。社長からそれとなく聞き出しちやった」
「えっ、本当か?」
 良次は、日頃から上司の評価に自信があり、予感していたことだが、そうはっきり聞くとうれしかった。
「それで、どう。これを機会に、新しい奥さんの正美さんにダイヤモンドを買ってあげなさいよ。五百万円で良い品質のものがあるのよ」
「なんだ。売りつけようってのかい。冗談じゃない、どうしておれが五百万円ものダイヤを……。マンションを買ったばかりなんだぜ。高いものを爆買いするどこかの国のお客と、一緒にされても困るんだ」
「あなた、だれと話しているつもりなのよ。あなたは、親からお金をたくさんもらっているじゃないの。わかっているのよ」
 たしかにその話は、裕子が結婚生活で、暗黙のうちに感づいているものであった。
「それにしたって、五百万円なんて、付き合える範囲の金額かな」
「付き合いだなんて、考え違いしないで……。これは、あなたの当然の義務よ」
 裕子はここが肝心とばかり、背筋をのばし、ぴしりと言った。
「義務? なんでだ…」
 良次は怪訝な表情になった。
「それじゃ、言わせてもらいますけれど、去年の夏、あなたがわたしに見せた不倫現場の記録画像ね。あれインチキだったの。あれは、正美さんの細工した偽の映像だったのよ。わたしに不当な罪を着せたんですもの、今となっては、その責任とってそのくらいは、負担すべきよ」
「えっ、やはりあの録画は偽ものだったというのか。どういうことだ? あの時、きみは事実を認めただろうが……」
「あら、やはりって、そのこと、感づいていたの。あれを認めたのはね、あの場でいくら揉めても、わたしには得がなかったからだわ。わたしは唐沢健吾とは、ぜったいに肉体関係はなかったわ」
「それにしても、あの録画には、きみと唐沢が映っていたぞ。君が信じられなくなるほど、変わって見えてたようだったがね」
 良次は、反発した。
「よく思いだしてごらんなさい。あの録画で、実際にわたしの顔が映っているのは、わたしが唐沢に言い寄られて、ソファから床に落ちるまでだったのよ」
「だから、どうだっていうんだ?」
「にぶい人ね。それから後の映像は、同じ場所で、唐沢が別な女と関係している映像だわ……」
 裕子の言い分は、あの日に唐沢と打合せをし、成り行きで彼に迫られ、身体をかわしそこねて、ソファから落ちたというのだ。それからは映像にはないが、彼女は欲望にとりつかれた唐沢をなだめ、もう今の仕事から手をひくと脅したりして、彼を振り切った。それから、唐沢の家を出て、夕方の六時過ぎに茨城の実家に向かったのが事実だというのだ。
「わたしは唐沢の心証をよくして接近し、彼の有力得意先を奪うつもりだったから、夫のある者の態度としては、威張れたものではなかったけど……」
 裕子はいま頃になって、当時のたくらみを白状した。
「すると、そのあとの肉体関係の場面は、何だ……?」録画の、もっとも猥褻な部分を思い返しながら、良次は聞いた。
 裕子の推測では、自分が帰った後、入れ替わりに井崎桃子がやってきて、唐沢と関係したのではないかという。桃子とは、いつか良次がレストランで見かけた、あの女である。
「だから、そこを正美さんが細工をしたのよ。わたしがソファから落ちると、画面がチラついて、それから突然に性行為するところになっていた。そこでうまく映像をつなげたんだわ。だから、私らしい女の上半身は、ソファの陰か、髪がかぶっていて、顔が見えていないわよ。こっちは身に覚えのない本人だから、すぐわかったわ。あなたも迂闘ね。正美さんと一緒に見て昂奮しちゃって、見損なったのね、きっと……」
 良次は、中途半端なうなずき方をした。
「そうだな。小さな画像だからね。ほとんど信じてしまったんだ。たしかにあの場面は下半身ばかりが目立っていたからね。それが、妻であったきみと別の女だったとなれば、見分けられなかったぼくは、責められるべきかもしれないな。」
 その落ち着いた、醒めたような言い方に、裕子は不審そうに聞いた。
「もしかしたら、あなた、それに気づいていたの」
 すると、良次は「いや、あの時はそのまま信じていたさ。しかし、後でよくよく思い起こすと、どうもしっくりこなかった。ただ、お互いの結婚生活を白紙にする段階だったことは事実だろう。いわば、離婚の口実にしただけで、そんなに厳密に追究する気はなかったのだ。」
 良次は、その話を蒸し返すのを拒むように言い淀んだ。
「いま、あの唐沢との関係はどうなんだ」
「あら、あなたの奥さんになった正美さんから聞いていないの。唐沢と井崎桃子はいま一緒に住んで、同じ仕事をしているわ」
 それも良次の知らないことだった。
「うん、過去のことはお互い話さないから。だけど、正美がそんな細工をしていたなんてねえ」
「だって、正美さんはね、わたしを仕事仲間に勧誘しておきながら、自分は脱けたがっていたの。それで、わたしの身の上をきいて羨ましがっていたのよ。自分が良次さんの奥さんだったら、子供を産んで専業主婦をするって。いつでもマンションを買える経済力があるなら、文句はないって、よく言っていたわ」
「それじゃ、下心があって、おれにまつわりついたのかな。しかし、そんな計算づくのようには思えなかったな。あれは、ひょんな出来心で、正美と関係しちゃたんだからな。きっかけは、ぼくがつくったんだ」
 良次は半信半疑であった。
「そりゃ、正美さんも全部を計算してはいなかったでしょう。まさか、アパートにわたしが帰った時に、男女の肉体が炎上しているまっ最中だなんて、計算出来っこないでしょうから……」裕子はここで皮肉な目で良次を見た。「ただそうなるように期待してあんなことをしていたのよ。すると、思いがけずに、事態があの人の望む方向に、進展したわけね」
 良次は、ため息をつき、考え込むように額に手をやった。
 彼にしてみれば、正美がどんなたくらみをしたにせよ、今の彼女を責める気はない。それどころか、専業主婦の役目をしっかり果たしているし、近々待望の子供を産んでくれる。セックスの相性もいいのだ。とくに不思議なことは、正美の黒々とした下半身の濃い繁みは、見ても触れても、良次の性的欲望をかきたてるのだ。正美と多少の感情的な食い違いがあっても、彼女のそれを与えられるとことで、心理的な弱みを打ち消してくれるのだった。その不思議な力には、ひそかに感謝しなくてはいけない気持でいた。
「どうなの? ダイヤを買う話は、家に帰って、正美さんに相談してもらってもいいのよ。彼女だって、反対できないわよ」
 裕子が彼の気持ちを見透かしたように、返事を迫った。
「えっ、いいよ。よし、ローンを組んできみからダイヤを買おう。そのかわり、もうこれきり、我々とは会わないというのが、条件だ。前にも言ったろう。あんまり、あこぎなセールスは、友達を失うってな。」
 そして、改まった口調で良次は、静かに言った。「じつは、あの時の君が不倫をしていたと思い込んだとき、それは辛かったのだ。だって、物知らずの可愛い女と信じていた妻を、軽蔑しなければならなかった。それが、なぜか嫌だった。だから、一応、事実と認めたとはしながら、君とのいきさつを考えれば、なにかが違うのではないか。と心にひっかかっていたのだ。それが、やはり君が軽蔑すべき女ではない、とわかっただけで、ずいぶん気分が良くなったよ」
「そうなの。ごめんね…。わたしを愛してくれていたのにね。でも、可愛がってくれていたけど、いつもペットのような感じだった。あなたのお陰で、わたしは誰のペットではないとわかったのよ。人間の心って、いつも同じじゃないし、どう変わるかわからない。どれが正しく、どれが間違っているかもわからない。それで感情的に悩まされるの。でもね、ビジネスの世界は、いつも明快よ。損か得か。数字で割り切れるの。それが好きなのよ」
 裕子は、そういって、くったくのない様子で微笑んだ。
        ☆
 家に帰った良次はその夜、べッドのなかの寝物語で正美に言った。
「知り合いの人が、きみにダイヤモンドをプレゼントしたらどうかというんだ。考えて見たら、きみとは結婚式を挙げていないし、おれの昇進もあるしで‘買って見ようかと思うんだ。ちょっと値が張るけれどね」
 正美は、ちょっと意外そうに彼の顔をみつめた。良次もじっと、彼女の反応をみつめた。正美はしばらく思案していたが、なにか納得するものがあったらしい。そして、いった。
「あら、すてき…。そのひと、ずいぶん気が利くのね。でも、そういう人の言うことは、一度きけばじゅうぶんよね。けじめをつける意味でね」
 正美はいかにも嬉しそうに、彼に抱きついた。
「もちろんだよ。今度かぎりさ」
「ほんとう。うれしいわ」
 正美は、いかにも我が意を得たというばかりに、微笑んだ。
 良次は、それがまるでモナリザの謎めいた微笑のように思えたのだった。  (完)





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