おまる
俺の妹、叶宮蓮子はネット中毒の廃人だ。
いっそ電子の海を彷徨う妖精といってもいいかもしれない。
これはそんな妹と俺にまつわる、限りなくくだらなく、そして赤裸々なエピソードのひとつである。
◇
深夜、尿意に目を覚ますと妹の部屋に明かりがついていた。
今の正確な時間はわからないものの、学生が起きていていい時間じゃないことは確かだ。
明日は平日だし。
学校も当然ある。
兄として、妹の学校生活を案じるのは当然だ。
ここは心を鬼にして、注意をしてやろうと思う。
トントンと、扉を叩く。
返事はない。
もう一度、今度は3回ノック。
またもや返事はない。
寝落ちだろうか?
だとしたら、電気を消してやらないと朝になってから母親に怒られる。
そう思った俺は、やや申し訳ない気持ちになりつつも蓮子の部屋の扉を、音を立てないようにして開けたのだった。
なんだろう、変な臭いがする。
好き好んでは絶対に嗅ぎたくない、けれど身近にある臭い。
その悪臭に不快感を覚えながらも、扉を閉めて前を向いた。
妹の部屋にデカいアヒルがいた。
いや、待て、違う。
アヒルの顔を模しているだけで、本物のアヒルじゃない。
こちらに向いたアヒルの顔。それは薄暗い部屋の中にあってはやけに不気味で、黄色い嘴に青い目が地獄の使者を思わせる――とか詳しく描写するのもアホらしい。
要するに、そう、おまるだ。
おまる。大便にも小便にも対応する、高性能ポータブル・トイレ。
その上にガーゴイルのようにして跨っているのが、ご存知俺の妹である。
客観的に見れば、黒髪ロングの清楚系美人。
おめめパッチリ、肌にも唇にも艶がある。
胸はないもののスレンダーな体系で、大人っぽい美少女だと近所のおばちゃんからも評判だ。
制服時以外は基本的に真っ黒のスウェットか、ピンクの趣味が悪いジャージ。髪もゴム一本で縛った色気ゼロのポニーテールだ。
昔は家でもキメてたのにな、高校行ってからはこんなもん。
その妹が、下半身丸出しでおまるに向けて黄金色の液体を噴出していた。
「…………」
オウ、ジーザス。
なんてことだ。この世界に神はいない。
なるほど、部屋に満ちる悪臭の正体はこれか。
できれば知りたくなかったぜ。
妹は招かれざる客の来訪にも気づかないようで、なにやら必死にパソコンに向かってマウスをクリックしている。
カチッ、カチッ、カチッ。
プシャァァァァ。
カチッ。プシャァァ……。
よし、いいな。妹の小便なんて浴びるわけにはいかん、絶対に。
排泄音が鳴り止んだのを見計らって、俺は蓮子の頭に装着されているヘッドフォンを引っこ抜いた。
「どひわぁぁぁあああ! なななななななにごとぉぉおおお!?」
「うるせぇ! 親が起きるだろ!」
「あ、なんだ、お兄ちゃんか。こんばんわん」
「なんだじゃねぇ、こんばんわんじゃねぇ。今何時だと思ってるんだ」
妹は、PCの右端をチラリ。
「……3時14分ですね」
「だったらお前のすることはなんだ?」
「寝る前の動画巡回」
「それ朝までコースだな?」
「うち、覚悟はできてる。たとえ世界を敵に回しても」
「お前の前に立ちふさがるのは先生と母さんだけだ。寝ろよ大人しく。明日学校だぞ」
「いいもん、うち学校で寝るから」
つーんと唇を尖らせて、そっぽを向く蓮子。
パソコンの画面を見てみると、確かにニロニロ動画の某有名実況者のプレイ動画が映っている。
タイトルにはPart27とあった。
こいつ、まさか。
「蓮子、お前飯食ってからずっとこれ見てたろ?」
「流石だね、ワット数くん」
「それを言うならワトソンくんだ。俺は探偵の助手でも電力消費量でもねぇ。いいから質問に答えろ」
「ずっと見てましたが何か問題でも?」
開き直るな。胸を張るな。そして立ち上がるな。
お前張るほどのおっぱい無いからな。お前今下半身に何も着てないからな。大事な部分もアヒルの顔をどかせば丸見えだからな。親がこの光景見たら泣くぞ、真面目に。
手塩にかけて育てた娘が、実況プレイ見ながらおまるに放尿してた件について。スレ立てれば伸びそうだ。
陰毛が濡れた所為でテカっていた。
吐き気がした。
「一万歩譲ってそれは見逃すとしよう。俺も、お前の自由に口を出すつもりはないからな」
「よろしい、では下がりたまえ。君ごときが我々の絶対領域に立ち入ることなど元からできないのだからな」
「調子に乗んな。常識を考えろボケ」
「ひぎぃっ!」
蓮子のやたらと長い髪を引っ張る。
いや、そんな叫び声出されても。そこまで強くしたつもり、ないんだけどな。
まあいいや、蓮子だし。
こいつが痛がろうが俺が痛いわけじゃないからな。
全くもって問題ない。
それよりもさ。
大事なことがあるだろ?
「蓮子、お前今年で何歳になる?」
「お兄ちゃん、その年でボケちゃったの? 可哀想……」
「俺の一つ年下の今年16歳になるお前は一体全体自分の部屋で何をしてたのかって聞いてんだよ俺はぁあああああ!」
「おまるにおしっこ」
「うわーい」
即答しやがった。
ヒくわ。
めっちゃヒくわ。
もう俺たち、終わりにしよう。
「実の妹を、夏に外で一週間放置した魚を見るような目で見ないでくれませんかね? ぷんすこすこぷん」
「いや、それはだって、ヒくだろ実際……」
「なんで? 便利だよ? 臭いけど」
「利便性を言ってるんじゃなくて、俺は世間体とか常識の話をしてるんだが?」
「あー、わかった! お兄ちゃん、うちのおしっこ飲みたいんだ!」
「えっ、難聴? 病院行く?」
「嘘々。冗談だよ、冗談。そうだよねー。うちもおまるはまずいと思ってたんだよ、実際のとこ」
そう言って、我が妹はおまるとの融合体を解除する。
ベッドの上に置いてあった桃色のパンツを履いて、そして脱いだ。
…………?
「要る?」
「寝言は寝て言え」
「もー、冗談が通じない兄貴だなー」
蓮子は今度こそパンツを履いて、更にその上からスウェットを纏う。
ベッドにダイブして、言った。
「うちは良い子なので、寝ます」
「おう、そうしろ」
「明日からはおむつにするね」
「俺、お前と兄妹の縁切るわ」
「ひっど! ってちょっと、待ってよお兄ちゃん! 一緒に寝るんじゃないの!?」
「くっせぇんだよお前の部屋!」
バタン!
俺は有無を言わさず蓮子の部屋の扉を閉めた。
臭いものには蓋をするのが一番だからな。
翌日のこと。
俺は学校に遅刻した。
言うまでもなく、変な時間に妹と漫才を繰り広げたためだ。
妹は遅刻しなかった。
前の日に学校でたんまり寝ていたらしい。
俺は世界を呪った。