その後の二人(海):6/12
夕焼けが部屋の中を赤く照らす。
俺はベッドの中で彩さんを抱きしめていた。
彩さんは疲れきった顔で俺を睨んでいる。
「ゴメンね彩さん」
「何が?」
「盛って」
「今更でしょ」
彼女は俺を睨んでいるけれどその目は本気で怒っているわけではない。
彩さんの顔に掛かった髪をそっと後ろに流すと彼女は俺の指先をキュッと握った。
その指に指輪は嵌っていない。
もしかしたら気に入らなかったのかな……?
「ねぇ彩さん、なんで指輪してくれないのさ?」
彼女の左手に指を絡めながら尋ねる。
「仕事に集中できないのよ、指ばっかり気になっちゃって」
仕事に集中できない……か。
彩さんらしいね。
「飾りがなかったらしてくれる?」
「多分しない」
彼女は身体を起こしながら即答した。
「お腹空かない? シャワー浴びたら何か作るわね」
この話は終わり、とばかりに彼女はさっさと部屋を出て行った。
そういえばネックレスもイヤリングもしないなぁ……。
今度澄香サンに訊いてみようかな。
俺は起き上がって傍にあったTシャツと下着を身に着けてリビングへと向かった。
コーヒーメーカーをセットして珈琲が抽出されるのを意味もなく眺める。
最近では慣れた珈琲の準備。
好きでも嫌いでもなかった珈琲だけれど、自分で淹れた珈琲も結構美味いと思う。
勿論、彼女が淹れてくれる方が断然美味いのだが。
暫くすると浴室の方から音がした。
俺はマグカップに珈琲を注いで1口だけ飲んだ。
どっちかというと紅茶の方が好きだったのだが、彩さんと一緒にいるうちに珈琲ばかり飲むようになっていた。
撮影中も何故か珈琲に手が伸びる。
「彩さんの影響力って絶大だよね」
俺は珈琲を眺めながら呟いた。
シャンプーの匂いが漂ってきて彩さんが現れる。
Tシャツにジーパンというラフな恰好。
いつの間に持って行ったのだろう?
毎度の疑問である。
髪はタオルで纏め上げている。
露になった首筋が妙に色っぽい。
俺はそんな事を考えながら彼女にカップを差し出した。
「珈琲淹れたよ。ご飯お願いね、彩さん」
彼女に軽く口付けて浴室へと向かう。
脱衣所には俺の服と下着がしっかりと用意されている。
彩さんにはどうしたって敵わない。
俺はその服を見つめながら小さく微笑んだ。
シャワーを浴びて脱衣所で服を着ていると彼女の携帯が鳴っていた。
休みの日のこんな時間に誰が何の用?
澄香サンかな?
これから乱入してくるのかな?
ありえる話だ。
彼女の襲撃はいつだって突然なのだから。
「もしもし? どうしたの? ……あぁ、ありがとう。大丈夫よ、帰ってから朝まで記憶ないくらいよく寝たわ」
俺は素早く着替えてリビングに向かった。
澄香サンではないと直感したからだ。
「わざわざそれだけで電話してきたの?」
苦笑する彼女を後ろから抱きしめる。
「誰から?」
彼女は答えない。
「あ、じゃあね。また月曜」
でも、この焦り方で大体の見当は付く。
彼女が電話を切ろうとした瞬間、俺はその手から電話を奪った。
「もしもし、人の女に手を出さないでって言った筈だけど?」
『あ、いたんだ?』
やっぱりイタリア野郎……!
「海……!」
彩さんが俺から携帯を取り戻そうと必死に手を伸ばす。
俺はそれをかわしながら微笑んだ。
「月曜日も疲れてたらごめんねぇ」
それだけ言って一方的に電話を切った。
こんなヤツと長電話なんかしたくないし、させたくもない。
許されるならば着信を拒否したい。
「海~?」
彼女が顔を引き攣らせている。
「だって……イタリア野郎嫌いなんだもん。大体休みの日に何の電話なのさ? 彩さんを誘おうとか思ってたんじゃないの?」
そうだ、そうに決まっている。
そんな事絶対にさせない。
「昨日の仕事の話よ」
仕事の話?
「今までそんな電話掛かってきた事あった?」
少なくとも俺と一緒にいる時に掛かってきた事はない。
「昨日はちょっと会社でもやらかしちゃったしね……」
彼女は苦笑いした。
らしくない。
「何さ?」
「就業中に寝ちゃって……」
就業中って仕事中って事でしょ?
彩さんが?
俺は一瞬耳を疑った。
けれど、彼女の真っ赤な顔を見たら嘘ではないと分かる。
俺は……耐え切れずに噴き出してしまった。
「笑わないでよっ、私だって初めてだったんだから……!」
彼女は顔を顰めながら俺の胸に拳をぶつけた。
「そんなに頑張ってたんだ? そりゃ家でも溜め息出るよね」
彼女の両手を掴んで俺は唇を重ねた。
きっと大変な仕事を終えたんだね。
「お疲れ様、彩さん」
俺は彼女を抱きしめながら素直な気持ちでそう囁いた。
深夜2時。
俺はいつもの柴田さんからの電話で目を覚ました。
「もしもし……」
彩さんが眠そうな声で電話に出る。
俺は相変わらず彼女に起こしてもらおうと寝たフリをしていた。
「はい、すぐ帰します」
柴田さんからの電話を切って、彼女が俺の唇にそっと口付けた。
正直びっくりだ。
彼女がこんな事をするなんて思っていなかった。
「もう1回……」
俺は彼女の首の後ろに手を回し、引き寄せて唇を重ねた。
「彩さんからのキスで起こされると嬉しい」
彩さんは俺が起きてると思わなかったのか動揺している。
あぁ……時間があるならば抱きたい。
けど、柴田さんは既に隣に来ているわけだし、それは出来ない。
渋々彼女を開放して素早く着替えた。
「愛してるよ、彩さん」
俺は必ず彼女にそう言ってから部屋を出る。
ベッドの中でだけ言うのは嫌だし、彼女はまだ俺の想いを疑っているから。
彼女に“愛してる”と言うのは苦ではないし、恥ずかしくもない。
素直な自分の気持ちなのだから、誰の前でも堂々と言える。
言葉にするのを嫌がる男が信じられないくらいだ。
ねぇ彩さん、少しは信じてくれるようになった?
俺は心の中で彼女に尋ねた。
当然返ってくる言葉などないけれど。
本当に……本当に愛してるよ。
俺には貴女だけなんだ。
貴女しかいないんだ……。
「ねぇ柴田さん」
ある日の移動中の車内で俺は柴田さんに声を掛けた。
「ん、何? トイレ? 悪いけど首都高だしサービスエリアなんかないわよ。我慢できないなら途中で端に寄せるけど」
「違うよっ! 訊きたい事があるんだけどっ」
「何よ?」
毎回渋滞する首都高では柴田さんの機嫌が悪い。
いつもの事だが。
「柴田さんってアクセサリー好きでしょ?」
「好きよ、何? 日頃の感謝の印に高級な物でも買ってくれるの? ありがとう、やっとそんな気になってくれたのね~嬉しいわ」
「違うよっ」
なんでそうなるかな……。
「……そういうの嫌いな女の人っているの?」
暫し沈黙。
車内にはカーステレオから流れてくるプロエの新曲だけが聞こえていた。
「……そういえば彩さんってアクセサリー身に着けてないわね」
柴田さんはいつだってストレートな言葉を返してくる。
「そうなんだ。彩さんが言うには仕事に集中できないんだってさ」
「あぁ……事務職の人なんかはそうかもね。私には関係ないけど」
柴田さんの話なんか訊いてないし。
「飾りの付いた指輪って回転しちゃうし気になるのかもね」
「ネックレスは?」
「あれってね、止め具が前にきちゃうことがあるのよ。気になる人って凄く気にしてるわよ?」
へぇ…。
「他にも金属アレルギーで着けられない人もいるしね」
なるほど。
「まぁ、彩さん見てる限り几帳面だし、本当に気になっちゃうから着けないタイプよね」
別に、疑っているわけではない。
「何? 指輪嵌めてくれないの?」
「……うん」
柴田さんは楽しそうに笑った。
俺が悩んだり落ち込んだりするのを楽しむ性格はどうにかして直して欲しい。
無駄なのは分かっているけれど、そう願わずにはいられない。
「そんなくだらない事考えてたの?」
「だって……やっぱして欲しいじゃん」
休みの時だけでもいいから嵌めて欲しい、と思うのは我が儘なのかな?
俺はシートに身体を預けて小さな溜め息を漏らした。
マンションに帰ってくると妙に隣が騒がしい。
俺はそっとクローゼットを開けて聞こえてくる声に耳を傾ける。
「でねぇ~人目も気にせずにさぁチュ~って♪ もう恥ずかしくってさぁ」
カラカラと笑う澄香サンの声が聞こえた。
既にかなり酔っ払っているようだ。
なんか行き難いなぁ……。
でも会わないのは嫌だし……。
俺はその場で腕を組んで考えていた。
澄香サンならこの部屋の中を荒らしそうな気がするけれど……もしかして話してないのかな?
話していないという事はこのクローゼットの事も当然知らないわけで。
俺は驚く澄香サンを想像して小さく口元を持ち上げた。
幼い頃の悪戯を思い出す。
久しぶりにワクワクした。
「ただいまぁ」
クローゼットを勢いよく開けて彼女の部屋に足を踏み入れる。
大きく目を見開いた澄香サン。
次の瞬間には噴水のように口に含んだ酒を噴き出した。
彼女はソファに座っていたので結構広範囲に酒が飛び散った。
コントみたい……。
でも生で見たのは初めてだ。
「澄香っ」
彩さんは慌ててタオルを取り洗面所へと向かう。
「豪快なお出迎えだね澄香サン」
変な菌もないしアルコール消毒なんて必要ないんだけどな……。
派手に噴き出してくれたお蔭で被害は大きい。
マーライオンなんて可愛いレベルではなかった。
俺は澄香サンの顔を見ながら苦笑した。
「誰だって驚くわよ」
彩さんからタオルを受け取って口元を拭きながら澄香は溜め息を吐いた。
「カーペット敷いてなくてよかったね、彩さん」
敷いてあったら大事だっただろう。
「そうね」
彩さんも予想を上回る反応に苦笑していた。
「あんた……わざと黙ってたでしょ?」
澄香サンが彩さんを睨みつける。
「噴き出すって分かってたら話してたけどね」
そう言って彼女は大爆笑した。
そんな彼女の笑顔につられて俺も笑う。
彩さんの笑顔は俺にとって最高の栄養剤だから。
ずっと、ずっと俺の傍で笑っていて欲しい―――――。
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