海:14-12
彼女の親友に会える……。
俺の知らない彼女を知る事が出来るかもしれない。
そう思うと俺は嬉しかった。
……でも、彼女はそうじゃないらしい。
午後3時過ぎ、俺達は遅い昼食を済ませて部屋で寛いでいた。
「彩さぁん、いい加減機嫌直してよぉ……」
彼女のご機嫌斜めな状態は続いていた。
「嫌」
俺に背を向け、テレビを見ながら彼女は珈琲を飲んでいる。
「彩さん、ごめん。でも、俺もっと彩さんの事知りたいんだ」
俺は背後から彼女を包み込んだ。
「珈琲が零れる、放しなさい」
「嫌だ、彩さんが許してくれるまで放さない」
彼女はさっきから視線さえ合わせてくれない。
そんなに嫌だったのかな?
「あ、望月 海……」
テレビ画面に俺の姿が映し出されていた。
望月 海の仮面を被った俺……。
デジタルビデオカメラのCMだ。
「本物がここにいるんだけど?」
「こっちの方がいい」
彼女にとっては何気ない一言だったのかもしれない。
だけど、その言葉だけは聞きたくなかった。
たとえ冗談だったとしても。
貴女も俺を見てくれないの?
貴女だけには本物の俺を見て欲しいのに……。
「彩さんひどい……」
笑って誤魔化そうとしたのに声が震えた。
予想以上に辛い。
刃物で胸を突き刺された気分だ。
何ともないフリさえ出来ないなんて……。
こんな俺の顔見ないで……。
俺は彼女の耳朶を甘噛みした。
「あっ……」
彼女の身体が小さく震える。
「彩さん……好きだよ、本当に大好き。彩さんも俺だけを見て?」
彼女の手からカップを抜き取り、テーブルに置いた。
そして後ろから彼女の顔を覗き込むように唇を塞ぐ。
「彩さん……」
キスを繰り返し彼女を組み敷いた。
「彩さん、目の前の俺だけを見て……?」
彼女の眼鏡を外し、唇を、彼女の瞼や鼻先、頬から首筋、鎖骨へと滑るように這わせる。
「もう……駄目っ……」
彼女は弱い力で俺の身体を押し退けようとしていた。
貴女の目の前にいる、今の俺が本物なんだよ。
目の前の俺だけを見てよ。
テレビの偽者なんかがいいなんて言わないでよ……。
彼女の胸のボタンを外し始めると、続きを阻止するようにインターホンが鳴った。
「放してっ……澄香が……」
彼女は俺の胸を押し離し、眼鏡を掛けてエントランスのロックを解除した。
「もう1時間位遅かったらよかったのに……」
もう1時間遅かったら彼女と身体を重ねる事も出来たのに……。
彼女はその意味を理解していたようで真っ赤な顔をしながら俺を睨み付けた。
「残念……」
もう1時間遅かったらこの落ち込んだ気分もどうにかなったかもしれないのに。
嫌な気分になる事は想定してたけれど、こんなにショックを受けるとは考えていなかった。
それほどに彼女の“こっちの方がいい”という言葉が俺の心を抉っていた。
「あんた……本当に会うの?」
彼女が胸のボタンを嵌めながら確認するように尋ねる。
「うん、会いたい」
気まぐれで会いたいと言ったわけではない。
「彩さん、好きだよ」
好きだから会いたいんだ。
知らない貴女を知る為に……。
俺は彼女の髪を梳いて、項に手を添えて唇を重ねた。
「こんなに愛しいと思った女は今までいなかった」
彼女の眼をじっと見つめながら頬を撫でる。
「信じて……こんな気持ち、俺も初めてなんだ」
彼女を抱きしめると、彼女が俺の背中に手を回してきた。
ベッドの上以外では初めてだと思う。
「信じて……俺には彩さんだけだから……彩さん大好きだよ。ずっと俺の傍にいてよ」
本当の俺を見てよ……。
玄関のインターホンが鳴った。
彼女は慌てて俺から離れ、玄関へと向かう。
背中に彼女の手の感触が残っていた。
「あ、玄関から見えないところにいなさいよ?」
彼女はいつものような素っ気なさでそう告げた。
「ん、分かった」
彼女はいつも冷静だ。
俺なんかに翻弄される事もないのだろう。
芸能人だという事を忘れてくれない。
ただの望月 海斗という男を見てはくれない……。
芸能人である前に1人のつまらない男なのに。
改めてそれを感じて小さな溜め息が漏れた。
「やっほーっ」
彼女が玄関の扉を開けた瞬間、テンションの高い声が聞こえた。
電話で聞いたあの声の人だ。
井守 澄香サン……。
「あんた元気ね?」
彼女の声は俺に話し掛ける時のように冷めた声だった。
「元気よ? 可愛い彼氏に会えるんだもん、楽しみで楽しみで♪ 手土産も大量に持ってきたから♪」
お邪魔しますと言う言葉もなく、澄香サンは上がり込んで来た。
そして……。
「えぇぇぇぇぇえ?!」
俺の顔を見た瞬間、澄香サンは持っていたビニール袋を床に落とした。
缶ビールが床に転がる。
あぁ……暫く飲めないじゃん。
開けたら大変な事になっちゃうよ、コレ?
「彩! こ……これっ望月 海?! どういう事?!」
澄香サンも俺を知っているらしい。
「見ての通りよ、言ったでしょ? ある種ヤバイ人種だって」
澄香サンは真っ赤な顔で俺を凝視していた。
さすがにちょっと恥ずかしい……。
「挨拶しなさい、あんた会いたかったんでしょ?」
彼女が呆れた顔で俺を見ていた。
正しくは俺と澄香サンを見ていた、だろう。
どうやら彼女は俺と同等の扱いを受けている人らしい。
「初めまして、望月 海です」
軽く会釈して簡単に自己紹介をすると、真っ赤な顔をした澄香サンが彼女の背中をバシバシと叩いた。
音だけでも充分に痛そうだ。
「い……痛いっ……!」
やはりと言うかなんと言うか、予想を裏切らず痛みに顔を歪ませる彼女の手を引っ張って抱き締める。
「彩さんを苛めないでくれません?」
彼女を叩く澄香サンに腹は立つけれど、彼女の親友なのだから怒る事も出来はしない。
「あ……ごっごめん! ちょっとっていうか、かなり動揺しちゃって……!」
澄香サンが真っ赤な顔で手を振る。
ブンブンと聞こえる音がその力の強さを物語っていた。
絶対に叩かれたくない。
「ちょっと……離して。動けないでしょ?」
迷惑そうな彼女の顔を見て渋々と解放し、床に腰を下ろす。
「澄香、あんたも挨拶位しなさいよ」
床に転がった酒を掻き集め、彼女はキッチンに向かった。
「い……井守 澄香です。彩とは高校からの付き合いでもう15年友達やってます……」
「高校から? 15年も?」
澄香サンは知らない彼女をたくさん知っているに違いない。
「高校生の彩さんってどんな感じだったの?」
「え? 彩は……今と大差ないかもね……」
「じゃ、昔から人気者だったの?」
「人気者ねぇ……う~ん、まぁそうかも。彩の周りにはいっつもたくさん人がいたからなぁ……」
澄香サンも彼女が好きなのだろう。
昔を思い出す澄香サンの顔は楽しそうだ。
俺は電話の時とは逆に澄香サンを質問攻めにした。
知らない彼女をもっと知りたい。
ただそれしか頭の中にはなかった。
気が付けば陽はどっぷりと暮れ、時計を見れば午後9時を指していた。
「あんた明日仕事でしょ? さっさとお風呂行って寝なさい。肌荒れるわよ?」
彼女が俺に視線を移す。
澄香サンは酒に弱いのか、ただ飲み過ぎたのか分からないけれど……真っ赤な顔をして呂律も回っていない状態だ。
機嫌がいいのは構わないけれど、口説こうとするのはやめて欲しい。
酔っ払い相手だからと簡単にあしらってはいるものの、恐いものがある。
気を抜いたら食われそうだ。
「澄香、あんたもそろそろ帰りなさい。また来ていいから」
彼女が澄香サンの肩を叩くと凄い眼で彼女を睨む。
さすがに彼女も狼狽えたようだ。
「海よ? もちうき 海! なんれ海があんらり惚れらのろ?!(海よ? 望月 海! なんで海があんたに惚れたのよ?!)」
「それ……私も疑問だし……」
なんで疑問なのさ?
「彩さんだからだよ。つい何でも話しちゃうし、時々無性に会いたくなるし、見てるだけで安心しちゃう……彩さんの代わりなんて誰も出来ない。澄香サンだってそう思うでしょ?」
それ以外に言い様がないのだ。
「海君はぁ、彩りぞっこんらろれ~(海君は彩にゾッコンなのね~)」
「そうだよ、俺の基準は全て彩さんだから」
俺が彼女に視線を移すと思いっきり顔を逸らされた。
なんでそんなに俺を拒絶するのさ?
そんなに俺の事嫌がらないでよ……。
俺は今日何度目か分からない小さな溜め息を密かに漏らした。
彼女は酔っ払った澄香サンをタクシーで送って行った。
その間に俺は空き缶を集めたり、皿を洗ったりして余計な事を考えないようにした。
珈琲メーカーのスイッチも忘れずに入れた。
彼女が珈琲を飲みたがると思ったからだ。
「ただいま」
玄関から声。
「お帰り。ご苦労様」
リビングに入って来た彼女に珈琲の入ったカップを差し出す。
「ありがと」
意外にも素直に礼を言われてドキッした。
「いい友達だね」
「そうね」
「俺を見ても写メも撮らなかったし、サインも強請らなかった」
それくらい強請られるだろうと覚悟はしてたのだが、そういった事は全くなかった。
さすが彼女の親友である。
「そうね。でも、澄香はあんたのファンだから後日こっそり頼まれるとは思う」
彼女はクスクスと笑った。
「彩さんも楽しそうだった」
「あんたも楽しそうだったじゃない」
「楽しかったよ。彩さんの話たくさん聞けたし、澄香サンに会えたし」
彼女はカップに口を付けながら視線を逸らした。
まただ……。
なんでそうやって俺から目を逸らすのさ?
「片付けてくれたの?」
彼女がテーブルの上を見ながら尋ねる。
決して俺を見ようとはしない。
「彩さんが彼女送って行ったからその間にね」
「ありがと……」
彼女が素直だと調子狂うなぁ……。
「もしかして酔ってる?」
彼女が疑うような目で俺を見上げる。
こっちが訊きたいよ。
「全然。俺酔わないみたい」
酔えるわけないじゃないか……。
知らない貴女の話を聞いているのに……俺が望んでいた事なのに。
貴女こそ酔ってるんじゃないの?
こんなに素直に礼を言うなんてさ……。
「そんなにじっと見ないで、凄く恥ずかしいんだけど?」
俺の視線を避けるように彼女は背を向けた。
「3週間も会えないんだもん、今夜はずっと見てたい」
「駄目、寝なさい。あ、その前にお風呂行ってきなさいよ?」
彼女はそう言ってキッチンに入って行った。
「彩さん、訊いてもいい?」
「何……?」
もし、貴女が酔ってるなら話してくれるだろうか?
素直に答えてくれるだろうか?
俺は彼女に傍に歩み寄った。
「少しは……俺の事好きになってくれた?」
彼女の肩が僅かに震えた。
気付かないふりをして彼女の長い髪をそっと掻き上げる。
そして、シンクにカップを置いたのを確認し、彼女の両肩を掴んで身体を冷蔵庫に押し付けた。
「なっ……何?」
彼女は驚いて顔を上げた。
やっと俺を見てくれた。
「俺の勢いに負けてるだけ? 俺の事嫌い? ……俺は愛してるよ、彩さんを愛してる」
“愛してる”なんてドラマ以外で口にするなんて思わなかった。
でも……“好き”だけでは足りない。
そんな簡単な……単純な感情ではない。
「彩さんは……? 俺、不安なんだ。俺の勢いに流されてるだけみたいで……名前も呼んでくれないし、素っ気ないし……俺、嫌われてるの? 答えて彩さん、俺……迷惑?」
酒のせいかもしれない。
でも、溢れ出した感情は抑えられない……止まらない……。
「そんな事……ない……」
彼女が小さな声で答えた。
「流されてるわけじゃない……」
迷惑じゃない?
流されてるわけじゃないの?
俺は彼女を抱きしめた。
「彩さん……俺が素の望月 海になれるのは柴田さん以外では彩さんだけなんだよ? 彩さん、愛してる……俺を見てよ……」
俺は震える小さな声で訴えた。
本当の俺だけを見てよ―――――――。
ご覧頂きありがとうございます。
彩の「こっちのほうがいい」という言葉で海はかなりショックを受けています。
何気ない一言なんでしょうけど……海にとっては言われたくない言葉だったんですね。
何気ない一言でショックを受けることって少なからずありますよね。
私も多々あります。
さて、残すところあと2話。
まだ2話あるんだって感じですよね。
☆あと2日お付き合い下さい☆