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ビヰ玉

ビヰ玉

作者: 由城 要

下働きの少女が体験する、不思議で切ない物語。




 七緒に『七緒』という名前が付けられたのは、ちょうど一〇年前の今日だった。

 太陽に支配されてしまったように、雲ひとつない真夏の蒸し暑い一日。蜻蛉がゆらゆらと、七緒の行く手を邪魔している。名前の由来、そしてその名前に付けられた呪いを七緒自身ははっきりと知っていた。七緒はゆっくりと、前を歩く女の姿を見上げ、もう一度道の向こうに視線を戻す。

 そしてゆっくりと心の中で、聞きなれてしまった言葉を繰り返した。


『七緒の七は死亡の「亡」、下駄の鼻緒を捩った名前。鼻緒はぷっつり切れるから、後腐れなくて良い名前』


 どこが、と七緒は心の中に呟く。そして苛立ちを紛らわせる為に、あちこちに視線を巡らした。 ここは七緒の住んでいた街から少し離れた片田舎。道の両脇に広がる田畑は向こうの山の麓まで広がり、林の影には数軒の農家が建っている。茅葺屋根に、小さな井戸。家の隣には牛舎があった。鶏が庭先を行き来し、ヤギを放牧している子供の姿も見える。

 畑の真ん中ではその親らしき四、五人が鍬で土を掘り返しながら、何やら話をしているようだった。時折チラチラと、七緒達の方に視線を向けては忍び笑いを漏らしている。道を擦れ違う農夫達もまた、こそこそと笑い合っていた。

 もしかしたら自分のことを話しているのかもしれない、と七緒は思った。買われた娘だとか言われているのかもしれないと。

 七緒はギュッと着物の袖を掴んだ。 今日のために誂えた真新しい着物は、まるで七五三のように真っ赤な振袖だった。

 迎えに来た、ヨシという下働きの女は顔を顰めて七緒を見て、『綺麗なお着物だこと』と言っていた。芸者の娘にはこれ以上ないくらいにピッタリの着物。

 七緒はヨシのことを嫌な女だとは思わなかった。住みなれた街を出てから数回しか話をしていないが、それでも本能でヨシが敵ではないと感じ取った。世の中には敵と、そうじゃない人間だけだと七緒は思った。生きていくうえで敵になる人間と、そうじゃない人間。


『七緒の七は死亡の「亡」、下駄の鼻緒を捩った名前。鼻緒はぷっつり切れるから、後腐れなくて良い名前』


 そういって艶やかな笑みで笑ったあの女は、七緒が生れ落ちた瞬間から敵だった。

 七緒は顔を上げ、真っ直ぐに空を見上げる。田舎の空は蒸した空気に包まれて、皮肉なくらいの澄んだ色で輝いている。

 今日から七緒は、この村の地主の元で下働きをすることになる。売られようが買われようが、今の彼女には関係なかった。幼い瞳はただ決意する。

 生きていくのだ、と。あの女から離れて、一人で生きていくのだ、と。





 この村の地主は宮内という姓を持つ豪商だった。一昔前、染物屋として大成した宮内家は明治維新の変革にもその経済力は衰えることなく、今でも街に数軒の店を持っている。数年前に代替わりがあり、今は長男である和泉という男が家を継いでいる。

 七緒は和泉に面識があった。芸者小屋の雑役をさせられている時に、あの女がよく相手をしているのを見かけたからだ。身長は高いほうではなかったが、頭の回転は早そうだった。髪は烏のような色をしていて、藍色のつづれに白い肌が映えて見えた。帽子を肌身離さず持っているくせに、それを被っているところは見たことがない。芸者小屋の者たちは皆、抜けたところのある男だと言って、裏で嘲っていた。

 宮内の屋敷は先ほどの田畑から更に歩いたところにあった。竹垣が敷地の周りを囲っていて、庭の入り口から軒先まで飛び石が敷かれている。七緒はふと足を止め、屋敷を見上げた。田舎では珍しい二階建ての建築だ。背伸びすると、奥のほうに庭石が置かれているのが見える。

 ヨシは七緒が足を止めたことに気付かず、屋敷の入り口まで足を進めていく。ちょうど門を跨ごうとした瞬間、死角から男の子が三、四人、わっと飛び出してきた。


「ヨシの鬼婆帰ってきたぞ!!」


 わらわらと飛び出してきた小坊主達に、ヨシは吃驚してバランスを崩す。最初は驚きで呆然としていたが、やがて顔を真っ赤にして眉を吊り上げた。先頭きって出てきたガキ大将らしき男の子がヨシを振り返って舌を出す。


「鬼婆ヨシめ、ざまぁみろ!」

「孝次坊ちゃん!!」


 ガキ大将は後ろを振り向きながら再びヨシに舌を出して見せた。視線を戻して河原へと体を向けた瞬間、竹垣の前で屋敷を見つめていた七緒と視線が合う。

 七緒に避ける暇はなかった。相手の姿に気付いたのは衝突する寸前だった。


「うわぁっ!!」


 ぶつかった衝撃で七緒は倒れた。着慣れない着物を着ていたせいで、バランスを保つことも出来ず、派手に地面に転がる。転がった先には不幸にも水溜りがあった。

 水音があがった瞬間、七緒ははっと我に返った。慌てて起き上がると、嫌な予感は的中していた。紅の袖が泥水に染まり、髪にも砂と泥が混じったようなものが付着している。水の染みた着物はやけに重く、七緒は呆然としてしまった。


「あ……」


 顔をあげると、先ほどぶつかって来た少年の姿があった。気まずそうな表情で、七緒を見ている。どうやら転ばずに済んだのだろう、泥が付着した様子はない。

 少年は仲間達よりも少し身長が高く、体つきもしっかりしていた。年齢は七緒と同じくらいか、一つ上くらいだろう。尋常小学校の黒い帽子を右手に持っている。少年はどうやらガキ大将のようで、つり目で勝気そうに見えるが、この気まずい状況ではその凛々しさも窺えない。

 七緒は少年を睨みつけて、立ち上がろうともがいた。少年は慌てて手を貸そうとしたが、七緒はその手を無視し、竹垣に掴まりながら立ち上がる。そのときやっと、ヨシが二人の様子に気付いて駆け寄ってきた。


「大丈夫かい!?」


 七緒は頷き、そして隣にいた少年を睨み付ける。少年はヨシが寄ってきたことに気付くと七緒に視線を向けて、可愛くない奴、と吐き捨てて走り出した。少し離れたところで待っていた仲間たちと合流し、畑の方へと駆け出していく。

 ヨシに砂を払い落としてもらいながら、七緒は先ほどの少年を睨み付けた。少年たちの姿はだんだんと小さくなってゆき、やがて畑の向こうへと消えていった。





 ヨシに手を引かれて宮内家に入った七緒は、着物を着替えた後に屋敷の中を案内された。案内してくれたのは秋代という、下働きの女だった。ヨシよりも一回り若い、成人したばかりの顔つきをしている。

 秋代は綺麗な黒髪をした女だった。顔はぱっとしなかったが、いつもニコニコと笑っていて、笑顔が一番似合う。そうゆう意味では七緒とは正反対の女だった。


「そうそう、さっき、孝次坊ちゃんに会ったんでしょう?」


 秋代は廊下を歩きながら、七緒に問いかけた。七緒は顔を顰めながら頷く。どうやら事情はヨシに聞いているらしく、秋代は苦笑しながら話し続けた。


「孝次坊ちゃんはこの家の次男よ。やんちゃな方だけど、悪い人ではないわ」

「……」


 七緒は不満気な顔で秋代を見上げた。秋代はどうやら子供の扱いに慣れているようだった。下に弟が2人、妹が3人いるらしい。そばかすのある顔で、小さい子供を宥めるように話しかけてくる。


「きっと七緒にも分かるわ」

「……」


 七緒は秋代の話に耳を傾けながら、縁側から見える中庭に視線を向けた。

 中庭の中央では獅子おどしが涼しげな音を響かせている。庭石は残暑の熱で白く変化している。飛び石の周りには誰かが撒いた打ち水が地面を黒く染めていた。

 池を挟んだ反対側には、小さな和室があった。中には本や尋常小学校の鞄が置かれている。七緒はそれを見つめながら、ふと足を止めた。

 和室の中に、どこから現れたのか子供の姿があった。孝次と呼ばれているあのガキ大将より少し年下だろう。色の薄い着物を身に纏った男児だ。身長は七緒よりも低い。病弱な細さの足に、真っ白な手。


「……?」


 す、とその姿が障子の死角へと消えていった。少し離れたところで七緒の様子に気づいた秋代が足を止める。


「それで、孝次ぼっちゃんが……あら、どうしたの、七緒?」


 七緒は無言のまま反対側を指差した。しかしもう、あの子供の姿は見えない。和室の中には初夏の日差しが差し込んでいるだけだ。人のいなくなった空虚な空間、そんな気配しか感じられない。秋代は首をかしげ、再び七緒に視線を向けた。


「誰かいたの?左一坊ちゃん?」


 左一、という言葉に七緒は顔をあげた。それが長男の名前だろうか。孝次が次男だということは、他にも兄弟がいるはず。しかし、先ほどの姿は孝次の兄というには小さすぎる。

 七緒の様子に、秋代は微笑む。


「きっと光の具合よ、この家に子供は左一坊ちゃんと孝次坊ちゃんしかいないもの」


 七緒はしばらく人影の見えた縁側に視線を向けていたが、秋代に促されて再び歩き出した。その後も屋敷の中を歩いたが、あの子供の姿は何処にも見当たらなかった。





 七緒が宮内家の主人である和泉に対面したのは、和泉が夕食をとった後だった。七緒が台所の仕事を手伝っていると、ヨシから声がかかり、屋敷の奥座敷へ案内された。先ほど通った縁側の廊下を通って座敷へ通された七緒は、畳に一歩足を進めた瞬間顔を顰めた。奥座敷は和泉のものだという古風な机が置かれており、その隣には2人の少年が座らされていた。片方は肌の色が白く、墨で黒く塗りつぶしたような瞳をした少年だ。七緒と目が合うと、邪気のない笑顔で丁寧に頭を下げる。どうやらこの礼儀正しい少年が宮内家の長男・左一なのだろう。地主の跡継ぎとしては申し分ない。 もう一方の少年は、片方とは正反対に机に肘をついて、むすっとした表情で横を向いていた。勝気そうに吊り上った目尻に、健康的に焼けた肌。薄い蒼色の着物を着ている。彼はチラ、と七緒を見ると、すぐにフイと視線を逸らした。昼間にぶつかった、あのガキ大将だ。名前は孝次。秋代いわく、宮内家の次男だそうだ。

 七緒はむっとした表情で、孝次を睨みつけた。


「孝次に会ったようだね、七緒?」


 ふと、苦笑するような声が聞こえた。顔を上げると、奥の部屋から主人の泉が出てきたところだった。七緒は挨拶のことをすっかり忘れていたことに気付き、慌てて膝の前に手をつく。深々と頭を下げると、和泉はさらに苦笑した。


「いやいや、挨拶はいい。会うのは初めてじゃないからね。……ところで孝次」

「……はい」


 和泉は興味なさそうな様子の息子に視線を向けた。名指しされた孝次は、嫌々父親に顔を向ける。


「女の子にぶつかって、謝りの言葉もなかったんだって?」


 少し強めの口調に肩をすくませたものの、孝次は何も答えようとしない。ハラハラしながら父と弟を交互に見ていた左一が、早口に言い訳を口にした。


「急いでいたんです、父さん。川原で、みんなと遊ぼうとしてたらしくて……」


 左一の言葉はもっともらしく聞こえたが、嘘を言っているのは明らかだった。視点がチラチラ変わるのは、男が嘘をつくときのクセだと七緒は知っている。少年の弁解に、孝次は口をへの字に曲げたまま、七緒を指差した。


「……だってオレ、ちゃんと手貸したんだ。

 なのにコイツ、オレのこと無視するし、何も言わないし」


 孝次の言葉に、左一が頭を抱えるのと和泉が眉を顰めるのがほぼ同時だっただろう。先に口を開いたのは和泉だった。溜息を吐いて、七緒に視線を向ける。

 視線の意味を、七緒ははっきりと分かっていた。


「いいかい、孝次。女の子をコイツ呼ばわりするんじゃない。指も指すんじゃない。

 ……七緒は喋れないんだ」


 キッと指をさしていた孝次の表情が、一瞬にして変わった。意味が分からないという様子でぽかんと口を開いている。隣にいた左一も同様だった。和泉は額に扇子を当てて溜息をつくと、いまいち理解が出来ていない二人に説明を始めた。

 七緒が喋れなくなったのは、物心ついて少し経った頃だった。理由は分かっていない。医者に診てもらっても、何の異常も見つからなかった。まだ幼い頃のことだったが、七緒ははっきりと覚えている。あの女はそれを聞いて嬉しそうにこう言ったのだ。ああこれで、泣いても怒ってもうるさくないのね、と。

 和泉が説明している間、七緒は静かに膝をそろえて座っていた。顔は上げなかった。自分の声が出ないことに関して、辛いと思ったことはなかったが、顔を上げれば左一からの同情の視線と、孝次からの疑いの視線を向けられることは分かっていた。


「悪いね、七緒。でも、これからここで働くことになるんだ。仲良くしてやってほしい」


 和泉の言葉に、七緒は頷いた。深々と頭を下げて、顔を上げる。これからの生活に幾つか不安はあったが、それでもあの女の元から離れる第一歩だと、七緒は思う。

 顔をあげると、にこやかに笑う左一の顔と、憎たらしい孝次の顔が視界に入ってきた。





 宮内家での七緒の仕事は主に掃除・洗濯、食事の用意だった。どれも芸者小屋で雑役をさせられていた時に身につけたので、さほど大変だとは思わなかったが、この広い屋敷の中を掃除するのは一苦労だった。

 特に長い廊下は一番の試練だ。縁側の廊下を雑巾で端から端まで行き来する。あまりバタバタ掃除したり、軽く拭くとヨシに叱られた。丁寧に隅から隅まで、というのがモットーなのか、手を抜くと厳しく説教され、やり直しを要求された。

 七緒にとって、この廊下はあまり好きな場所ではなかった。暗くなると、中庭の獅子脅しの音だけが奇妙に響き、真っ暗で足元も見えなくなる。和室の人気がない雰囲気も、軋む床板も、気味が悪くて仕方ない。

 しかしそれ以上に、昼間の廊下も最悪だった。この日、七緒は床の雑巾がけをヨシに言い渡され、渋々濡らした雑巾を持ってやってきた。雑巾を床に置き、力を入れて拭き始める。足音を立てないように気をつけながら、足を動かしていく。

 しかし、勢いがついた瞬間、七緒の着物の袖が誰かに押さえつけられた。


「!」


 驚きで七緒はバランスを崩した。頭から床にぶつかりそうになる。七緒は着物を押さえていた相手を睨みつける。そこには、いかにも楽しげな表情でこちらを見下している孝次の姿があった。


「なんだよ。通ろうとしてたとこに出てきたお前が悪い」

「……」


 七緒は勝ち誇った顔の孝次を一瞥し、もう一度雑巾で床を拭き始めた。奥座敷から遠ざかって行くと、孝次が意気揚々と縁側から中庭に出て行く姿が見えた。これだから廊下の掃除は嫌だ、と七緒は思った。いつ孝次が悪戯を仕掛けてくるか分からない。それに、孝次に弱みを見せるのだけは絶対に嫌だ。七緒は孝次に見つからないように、ぶつけた額をさすった。


「大丈夫?七緒」


 ふと顔をあげると、和泉の書斎から左一が顔を出した。どうやら転んだ音で気付いたらしい。左一は七緒に歩み寄り、押さえていた額を診る。


「ちょっと腫れてるかもしれないから、秋代から冷やすものもらってくるよ」


 左一は、にこ、と笑うと台所へ秋代を探しに行った。七緒は書斎の鏡に映る自分を見て、もう一度額をさすってみた。言われてみれば、上の方が少し腫れているかもしれない。

 これも孝次のせいだ、と顔を顰めながら、七緒はもう一度鏡に視線を向けた。その時、七緒の後ろを誰かが歩いていった。左一かと思った七緒は廊下に視線を向ける。しかし、そこに人の姿はない。


「七緒、持ってきたよ。……七緒?」


 台所から歩いてきた左一が、きょろきょろしている七緒に首をかしげる。七緒も不思議そうな顔をしていたが、なんでもない、と首を横に振って、左一から水に浸した布を受け取った。





「二一点作の五、二進の一重。三一三重の一、三二六重の二、三進の一重……」


 夕方になると、東側の左一と孝次の部屋からそんな声が聞こえてくる。左一が孝次に算数を教えている声だと知ったのは、宮内家に来てから数週間経ったころだった。聞いた話によると、左一は尋常小学校でも一、二を争う秀才らしい。文字の書けない七緒にはよく理解できなかったが、和泉だけではなくヨシや秋代までもが左一に期待をしていることは分かった。

 七緒は中庭で薪割りをしながら、最近繰り返し聞こえてくる割り算の九九を聞いていた。斧を一度薪に突き立てて、今度は軽い力でそれを地面に打ち付ける。あっさりと半分になった蒔きを拾い集めると、今日の仕事はこれで終わりだ。

 斧を片付けて頼まれていた薪を抱え、七緒は台所へと歩き始めた。あの縁側の外を歩いていくと、中から声が聞こえた。


「七緒」


 案の定、そこには左一と孝次の姿があった。向かい合って勉強している。孝次はこちらに背中を向ける格好で、左一はこちらに顔を向けている。にこにこと手を振る左一に、孝次が一瞬だけ七緒の方を振り返り、ふいと視線を逸らした。

 七緒は左一にだけ軽く会釈をし、台所へ急ごうと視線を移した。


『七緒』


 踏み出した足が止まった。左一のものでも孝次のものでもない呼び声に、七緒は固まってしまう。声のした方に視線を向けると、丁度和室の隅にあの子供の姿が見えた。

 子供は七緒が自分に気付いたのを確認すると口角を上げて、壁の向こうへと吸い込まれるように消えていった。その瞬間、七緒の手から薪がバラバラと転がり落ちた。左一は首をすくめ、全く見ていなかった孝次は驚いたように振り返る。


「ど、どうしたの。……七緒?」


 七緒の視線は左一達のいる和室を見ていた。瞬き一つしていなかった。見間違いなどではないことを、七緒ははっきりと理解した。

 七緒は縁側の戸に手をついて、中を見回した。しかし、そこに2人以外の姿はない。そして子供の姿があった場所には、見間違うようなものは一つもなかった。

 消えた、と七緒は思った。以前よりも冷静に、それを理解した。


「な、なんだよ」


 急に青ざめた七緒に、孝次もうろたえ始めた。左一も何があったのか分からず、オロオロと辺りを見回している。しかし七緒には今の状況を説明することが出来ず、ただ血の気が引いていくのを感じているしかなかった。





「幽霊を見た?馬鹿なこと言うんじゃないよ。左一坊ちゃんも孝次ぼっちゃんも怖がるじゃないか」

「いえ、でも……七緒自身も信じられないみたいで」


 この幽霊騒動は、宮内家の下働きの者たちの間に一気に広がった。左一や孝次が夕食を済ませた後、下女達が夕食を取る時間には、その話でもちきりになっている。

 秋代は隣にいる七緒に視線を向ける。


「それで、その子は姿を消したの?」


 七緒はご飯を口に入れながら頷いた。ヨシは眉間にシワを寄せて、顔を顰める。


「変なことを言わないでおくれ、七緒。坊ちゃんたちが不安に思うだろう」


 秋代は苦笑しながら、ヨシに視線を向ける。


「でもヨシさん。もしかしたら、座敷童子かもしれませんよ。この宮内家も、古くからの豪商ですから。良いことが起きる転機かもしれません」


 座敷童子、という耳慣れない言葉に、考え込んでいた七緒は顔を上げた。着物の袖を引っぱられた秋代は、七緒の方に膝を向けて話し始める。


「座敷童子というのはね、古いお家に住む子供の霊のことなの。悪戯もするけれど、座敷童子がいる家には福が訪れると言うわ」


 宮内家の建物は結構古いものだし、もしかしたら座敷童子かもしれないわね、と秋代は言う。七緒や他の下女達が頷く様子にヨシは溜息をつき、食器を片付けようと立ち上がって襖を開けた。その瞬間だった。


「……ぅわっ!!」


 廊下の方から何かが倒れる音がした。七緒が振り返ると、そこには立ち聞きしていたらしい左一と孝次の姿。襖が開いたことに驚いて左一がバランスを崩したらしい。後ろにいた孝次が押し潰されている。

 ヨシは目を丸くし、秋代は苦笑しながら下女達の輪から離れ、2人に手を貸した。


「坊ちゃんっ、何をしていらっしゃるんですかっ」


 ヨシの怒鳴り声を聞きながら、左一は押し潰していた孝次を立たせた。ヨシの剣幕に気付いているのかいないのか、嬉しそうに秋代を見上げて問いかける。


「ねえ秋代。座敷童子だったら、僕らにも見えるかな?」


 ヨシが顔を赤くして、『坊ちゃんっ』と怒鳴っている。孝次は両手で耳を抑えて顔を顰めた。

 秋代は柔らかく笑って頷く。


「座敷童子は子供にしか見えないですから。もしかしたら、坊ちゃん達にも見えるかもしれませんね」

「本当に?」


 なごやかに会話している兄とは対象的に孝次はあまり嬉しそうではなかった。騒がしい室内に視線を向けると、会話の輪から外れていた七緒のところに近づいて、着物の袖を強く引っ張る。


「おい、七緒。ちょっとこっち来い」

「……?」


 急な呼び出しに、七緒は嫌そうな顔をした。しかし孝次は動じない。無理矢理引っ張るかたちで、七緒を廊下へと連れ出した。

 廊下に出ると、孝次は辺りをきょろきょろと見回した。何度も何度も確認して、廊下の端まで七緒を引っ張っていった。そして周りに警戒するように小声で言う。


「……あのさ」


 珍しく静かな声色に、七緒は首を傾げた。いつも眉間にシワを寄せて不機嫌な顔しかしない孝次が、内緒話でもするように語りかけてくる。その表情は少しだけ強張っていて、緊張しているように思えた。


「お前、本当に見たのかよ。その、……ゆーれーとか」


 七緒は瞬きをして、頷いた。まさかそんなことを聞かれるとは思っていなかった。七緒の返答に、孝次はまた顔を顰める。


「……?」


 七緒は黙り込んだ孝次の顔を覗き込む。考え込んでいた孝次は七緒の顔が近くにあることに気付いて、慌てての首を振った。


「わっ……み、見るなよっ!別にそれだけだからなっ。じゃあなっ」


 逃げるように去っていく孝次を見送って、七緒はまた首を傾げた。





 やがて初夏が過ぎ、夏も盛りになっていた。若葉が青々と茂り、強い日差しが畑に照りつけている。宮内家に来たときは真白な肌をしていた七緒も、家事の手伝いを行ううちに健康的な色に日焼けしていた。お遣い以外で屋敷の敷地から出ることはなかったが、日中は玄関前の掃除をしているだけでも、首筋がチリチリと熱くなる。

 座敷童子騒動から1ヶ月。あれ以来、誰も座敷童子の姿を見ていない。七緒自身も、あれは見間違いだったのかもしれないと心の中でそう思っていた。

 そんなある日、七緒は左一と孝次の部屋の掃除を任された。部屋の中は一週間前に秋代が掃除をしたばかりのはずなのに、あらゆるものが散らかっている。尋常小学校の教科書、帽子に鞄、駒や石ころ、習字用の硯と、筆。小さな机の上にはビー玉が3つほど転がっている。青と赤、そして橙色の透明なビー玉。左一と孝次の宝物らしい。


「……母さんからもらった、大事なものなんだ」


 七緒が掃除をしに来たとき、二人とも小学校へ行く準備をしていた。箒を持って現れた七緒に、左一は笑顔で掃除を任せてくれた。その時に、七緒はこのビー玉のことを聞いたのだ。

 和泉の夫人・キヨは孝次を生んだ5年後に亡くなった。ヨシや他の者たちが言うには、物静かで聡明な夫人だったらしい。あの孝次も、母親の前では悪戯もせず、兄のように真面目に過ごしていたと言うから驚きだ。

 七緒は見たことのないキヨの姿を思い浮かべながら、箒を畳の目に合わせて動かし始めた。どんな顔で、どんな声で……と想像を巡らす。あの孝次を黙らせるのだから、きっと理想の母親なのだろう。あの女と違って。


『ああこれで、泣いても怒ってもうるさくないのね』


 七緒はふと、あの女の顔を思い出して顔を顰めた。声が出ないと分かったときのあの言葉。あんなに嬉しそうに笑う顔を、七緒は生まれて始めて見た。それは残酷で、冷たくて、自分勝手で。でも、誰よりも、どんなに着飾った芸者よりも綺麗な顔で。

 声が出ればいいのに、と七緒は口を動かした。息を吐く音だけが静かに耳元に届く。声になって響くことはない。七緒はもう一度繰り返した。声が出れば、文句の一つも言えるのに。

 そんなことを考えながら箒を動かしていると、ふと視界に誰かの足が入ってきた。自分のものではない、小さく細い、真白な足。


『……叶えてあげようか?』


 聞きなれない、幼い声に七緒は凍りついた。いつの間にか目の前に、見慣れない男の子が立っていたからだ。病弱な白い肌に、枯れ木のような細い手足。丸い輪郭に、漆喰のように黒い髪をしている。ぱっちりとした目に、微笑むような口元。

 しかし、その姿はどこか空虚で、反対側が透けて見えた。


「!」

『ねえ、叶えてあげようか?』


 少年が七緒を見上げて問いかける。その目元は左一に似ていて、意地悪そうな笑い顔は孝次にも似ている。七緒は驚きと恐怖で動けなくなっていた。手に持っていた箒が滑り落ち、畳の上に音を立てて倒れる。

 子供は一度もそちらに視線を向けなかった。七緒の顔を覗き込んで、同じ言葉を口にする。


『ねえ、願い事叶えてあげるよ。その代わり、ぼくのお願い聞いてくれる?』


 頷いてはいけない、と七緒は心の中で思った。以前、芸者小屋に通っていた客に教えられた話だが、幽霊について行ったり、一緒に遊んだりしてはいけないらしい。そうなってしまうと、自分もまたそっちの世界に連れて行かれるのだそうだ。

 七緒はぎゅっと目を瞑って、少年の声を無視しようとした。しかし、少年の声はどうしても頭の中に響いてくる。


『大丈夫。どこにも連れて行かないし、あっちの方へ引っ張ったりなんかしないよ』

「!」


 まるで当然の受け答えのように、少年は言った。七緒は目を見開いて驚く。少年は悪戯な笑顔で七緒を見上げた。


『ほら、ぼくなんでも出来るんだ。だから、願い事を叶えてあげるよ。ぼくのお願い、聞いてくれたらね』



「おい、ちゃんと掃除してたのかよ」


 小学校から帰ってきた孝次は、玄関先で小走りに駆けてくる七緒を見つけた。いつものようにむっとしたような表情で、そう問いかける。いつもならば、孝次に負けず劣らずの表情で視線を逸らすのに、この日だけは違っていた。


「おい、ちょっ……」


 七緒は孝次を無視して玄関から外へと出て行った。まるで逃げるように、道を右へと曲がって走っていく。思わぬ様子に孝次は呆然と七緒の背中を見送った。七緒の姿は町屋敷の方へ消えて行く。

 孝次は我に返ると、また顔を顰めた。


「……なんだよ、変な奴」


 ぶつぶつと無視された文句を言いながら、家に上がった。まず鞄を下ろそうと和室へ向かい、綺麗に掃除された部屋を見て足を止めた。

 部屋は隅々まで箒で掃いてあった。ばらばらと散らかしてあった小物が一つに纏められ、教科書は机の上に積み上げられている。しかし、その中で一つだけ、孝次の目に止まったものがあった。

 机の上に置かれたビー玉の、青、赤、橙の3つのうち、橙色のビー玉がなくなっている。孝次は七緒の様子を思い出し、慌てて立ち上がった。


「あいつ!」


 孝次は縁側から中庭へ飛び降りた。靴も履かずに七緒を追おうと飛び出すと、ちょうど鶏小屋から帰ってきた秋代とぶつかりそうになった。卵を籠に入れて抱えていた秋代は、突然飛び出してきた孝次に驚く。


「あら……孝次坊ちゃん?」

「秋代!七緒、どこ行った!?」


 転びそうになった孝次は慌ててバランスを立て直し、秋代を見上げてそう叫んだ。秋代は後ろを振り返り、


「あら、さっき米屋の前ですれ違いましたよ」


 孝次は秋代の言葉を聞くや否や、米屋の方向に走り出した。小学校の下校の時間の為に、何人かの同級生と擦れ違う。しかし声をかけている暇はない。

 木綿織物の店を通り過ぎ、八百屋を右に曲がる。道の向こうには先ほどまで授業をしていた尋常小学校が見えてきた。木造校舎の2階から顔を出して、黒板消しを叩いている生徒の姿が見える。


「あ、孝次。どうしたの?」


 視線を米屋の方向へと戻したとき、左一の暢気な声が聞こえた。どうやら今下校してきたらしい。長年使ってきた白い鞄を肩にかけている。孝次は足踏みしながら、矢継ぎ早に問いかけた。


「兄ちゃん!七緒、どこに行った!?」

「え?さっき、西川に走っていくのを見たけど……」


 首をかしげる左一に、孝次は叫んだ。


「七緒が、ユキのビー玉持ってったんだよ!」


 突然の孝次の言葉に、左一は目を丸くする。すぐに駆け出そうとする孝次の腕を掴んで言った。


「待って、孝次。西川に行ったなら、もしかして……」


 左一も孝次も顔を見合わせ、そして走り出した。山の向こうではもう日が沈みかけている。兄弟2人の影が、地面に長く伸びていた。






『走って、走って。追いつかれないように』


 七緒は耳元にあの子供の声を聞きながら、唯一知っている道を走っていた。通り過ぎる人達が、七緒の姿にこそこそと何かを耳打ちしている。また噂しているのだろうか、自分が買われた娘だから。

 七緒はぎゅっと右手を握り締める。硬い球体の感触がしっかりと手に伝わってきた。七緒は角の店を右に曲がり、西川の川沿いに出た。そして転がり込むように、橋の下に駆け下りる。

 橋の下で七緒はへたり込んだ。全力で走ったのはいつ以来だろう。きれる息を整えながら右手を開くと、橙色に輝くビー玉が手の中を転がった。

 ふと気付くと、隣にはあの子供がいた。まるで孝次のように悪戯な表情で囁く。


『ねえ、七緒。あそこが僕のお墓なんだ。あそこに供えてよ。そのビー玉』


 子供が指差したのは、桁橋の真ん中にある橋脚の下の土台の部分だった。そこには小さな石が積み重なっていて、簡単な墓石のように見える。

 しかし、その下には深い川が広がっていた。墓があるのは川の中央。底は見えない。

 七緒は唾を飲み込んだ。芸者小屋で生まれてからこれまで、泳いだことはない。けれど、川の流れは静かで、足がつかなくてもなんとかなりそうに思えた。


『ねえ、早く早く』


 子供の声に急かされるように、七緒はゆっくりと川に足を入れた。川は思ったより深く、浅い部分でも膝まで浸かってしまう。秋代から譲ってもらった着物が水に濡れ、重たくなっていった。七緒は深呼吸を繰り返して、早鐘のように鳴る心臓を抑えようと必死だった。

 七緒は水の冷たさに体を慣らしながら、橋脚へと一歩一歩向かっていく。手の中に握られたビー玉は、川に落としたわけでもないのに、やけに冷たく感じた。

 川の5分の一くらいまで来ると、七緒は腰まで水に浸かっていた。あともう少しという所で水流が邪魔をし始める。さらに悪いことに、後方から聞きなれた怒鳴り声が聞こえた。


「バカ七緒!」


 その聞きなれた罵りに、七緒は焦った。それは相手がヨシでも秋代でも左一でもなく、孝次だったからかもしれない。

 急ごうと体を動かすも、足が上手く前に出せず、前に進むことすらできない。七緒は混乱で、半ばヤケになっていた。捕まって、二人の持ち物を盗んだことがヨシにバレてしまえば、宮内家から追い出されるかもしれない。またあの女の所に帰るくらいなら、ここで溺れたほうがはるかにマシだ。


 七緒は無我夢中で、前へ前へと進んでいく。その間、頭の中にあったのは、あの女の顔だった。


 声が出せれば、罵ることも怨むことも出来たかもしれないのに。

 コエガダセレバ、ノノシルコトモウラムコトモデキタカモシレナイノニ。


 七緒は悔しさと、悲しさでいっぱいだった。声が出なくなった日も、名前のわけを聞いた日も。それが突き放された寂しさなのだと理解した瞬間、突き出した右足が深みにはまった。一瞬にして体が傾き、右半身が川の中に沈む。


「七緒っ」


 声にならない悲鳴を上げた瞬間、追いかけて川に入ってきた孝次に左手を強く引っ張られた。ぐい、と後ろへ引き戻される。その瞬間に、七緒の右手から透明な球体が滑り落ちた。

 ポチャン、と絶望的な音がした。2人の足によって川の水は濁り、ビー玉の行方は分からない。もしかすると深みへ落ちてしまったのかもしれなかった。


「孝次、七緒!」


 遅れて走ってきた左一が、2人の傍に駆け寄ってきた。七緒は左一と孝次によって橋の下へと引き戻されてしまった。

 川から上がり、七緒を引っ張りあげると、孝次は大きく息を吐いて座り込んだ。左一は複雑そうな表情で、


「……大丈夫?」


 と七緒に問いかけた。七緒はしばらく呆然と2人の顔を見ていたが、やがて顔を歪めて泣き出した。

 泣いても泣いても、声は出てこなかった。





 夏真っ盛りとはいえ、夜になると縁側から通り過ぎる風が涼しい。七緒と左一と孝次は揃って縁側に座り、中庭を見つめていた。

 あの後3人は水浸しで宮内家へと帰ってきた。もちろん、ヨシにはこっぴどく叱られた。何時間と説教が続いたが、左一も孝次もビー玉のことは一言も口にしなかった。

 獅子脅しの響きを聞きながら、左一がぽつりぽつりと話し始める。


「母さんが亡くなるちょっと前にね、ヨシが話してるのを聞いたんだ。

 もしかしたら、もう一人子供が生まれるかもしれないってこと。僕も孝次も大喜びで、男の子か、女の子か、名前は何がいいか話し合ったりしてた。結局、女の子でも男の子でもいいように、ユキってつけたんだけど」


 ちょうどその頃に、孝次が和泉からビー玉を貰った。青、赤、橙色の3つのビー玉を見て、左一はそれを兄弟3人で分けることにしたのだ。

 膝を抱えて左一の話を聞いていた孝次が言う。


「橙色のビー玉は、ユキにやるつもりだった。でも、母さんが死んで……ユキも死んだ」

「……あの橋の下のお墓、昔僕たちが作ったんだ。ユキの墓が他の人のより小さいから、もっと立派なのを造ろうって思って。でも、結局、あれくらいのものしか造れなかったけどね」


 川が増水するたびに、墓はゆっくりと崩れていった。その間に月日も流れて、左一も孝次も、墓のことを忘れかけていた。いつの間にか、ユキのことを忘れかけていた。

 七緒は月に照らされた2人の顔を見つめながら、静かに話を聞いていた。左一はふと空を眺めて、独り言のように呟いた。


「ビー玉、結局ユキに持って行かれちゃったね……」


 左一の言葉をかき消すように、涼風が頬を撫でて、中庭から部屋の奥へと消えていった。宵闇の空は、静かな色に染まって、煌々と輝く月が3人の子供達を照らし出している。

 獅子脅しの音が木霊する。虫の音が忙しなく鳴き続ける夜のことだった。




fin.

 最後までお付き合いいただきありがとうございます。


 ビヰ玉には続きがいくつかありますので、またお付き合いいただければ嬉しいです。


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