継ぐ
継ぐ人
その村には
百年続く菓子屋があった。
名物は
ただの饅頭だった。
餡を炊き
皮で包み
蒸す。
たったそれだけなのに
同じ味を出せる者はいなかった。
四代目の主人には
ひとり息子がいた。
幼い頃から
店に立たされた。
朝四時。
まだ友達が眠っている時間に
小豆を洗った。
十二歳になると
餡を練らされた。
「違う」
父は言った。
もう一度。
「違う」
もう一度。
「違う」
何が違うのかは
教えてくれなかった。
息子は腹を立てた。
「言わんと分からんやろ」
父は答えた。
「言葉で分かるなら
百年もかからん」
息子は
父が嫌いになった。
高校生になると
友達が海へ行く日に店に立った。
大学へ行きたいと言えば
「好きにせえ」
父は言った。
喜んだ。
ところが翌朝も
四時に起こされた。
「好きにしていいんやろ」
「ああ」
「なら何で起こすん」
父は小豆を洗いながら言った。
「行くかどうかはお前が決めろ。
教えるかどうかは俺が決める」
理不尽だった。
大学へ行った。
東京で就職した。
結婚した。
子どももできた。
饅頭とは関係のない人生を
十五年生きた。
父とは
ほとんど話さなかった。
ある冬。
母から電話が来た。
「お父さん
もう長くないって」
久しぶりに店へ戻った。
厨房は昔より小さく見えた。
父は椅子に座っていた。
痩せていた。
それでも
鍋の前にいた。
「まだ作りよるん」
「仕事やけんな」
息子は黙って
隣に立った。
父が木べらを渡した。
十五年ぶりだった。
餡を練った。
ぐるり。
ぐるり。
鍋底から返す。
湯気が顔に当たる。
甘い匂いがした。
すると突然
手が止まった。
分かったのだ。
十五年前
何度聞いても教えてもらえなかった
「違う」
その意味が。
火ではない。
時間でもない。
力でもない。
小豆が
木べらから離れる
ほんの一瞬。
その重さだった。
「……ここか」
父がこちらを見た。
何も言わなかった。
もう一度
餡を返した。
「ここなんやな」
長い沈黙のあと
父は笑った。
初めてだった。
「遅いわ」
それが
父から受けた最後の稽古になった。
葬儀が終わった。
母が古い帳面を持ってきた。
「これ
お父さんのレシピ」
開いた。
小豆の量。
砂糖の量。
水。
火加減。
蒸し時間。
全部書いてあった。
息子は笑った。
なんだ。
書いてあるじゃないか。
最後のページを開いた。
父の字で
一行だけあった。
ここから先は書けない。
息子は
しばらく帳面を見ていた。
そして初めて
父の人生を想像した。
父もまた
教えてもらえなかったのだ。
祖父から。
祖父も
曾祖父から。
愛されなかったのではない。
優しくする方法を
知らなかったのでもない。
ただ百年という時間が
人から人へ渡るたび
「守れ」
という命令に姿を変えていた。
伝統とは
美しいものだと思っていた。
けれど違った。
美しいだけなら
こんなに重くはない。
翌朝。
息子は四時に起きた。
厨房に灯りをつけた。
小豆を洗った。
しばらくして
十歳の娘が
眠そうな顔で入ってきた。
「お父さん
何しよるん」
「饅頭」
「教えて」
息子は一瞬
父の顔になりかけた。
違う。
もう一度。
違う。
その言葉が
喉まで出た。
飲み込んだ。
娘の小さな手を取った。
木べらを握らせた。
「ここな」
餡をゆっくり返した。
「この瞬間
ちょっとだけ重さが変わるんよ」
娘は首をかしげた。
「わからん」
息子は笑った。
「そりゃそうや。
百年かかったらしいけん」
「長っ」
二人で笑った。
鍋から
白い湯気が立ちのぼった。
受け継ぐとは
昔と同じ人間になることではない。
守るものを守りながら
受け継がなくていい痛みを
自分の代で終わらせることでもある。
百一年目の饅頭は
ほんの少しだけ
やさしい味がした。




