ゾンビ・ウイルス
ゾンビ・ウイルスも悪くないな。
久しぶりに散歩に出た僕は、ぐんと伸びをして空を見上げた。
この春発見された『扉』の存在は、世界中の人々を熱狂させるに充分だった。
幼いころから夢に見たファンタジーの実在に、誰もが扉の向こうを見たがった。
危機感を覚えた国連の規制や許認可制度の発布も虚しく、好事家やインフルエンサーが監視の目をくぐって扉を越え、その結果が──防疫の失敗だ。
異世界からもたらされた、心肺機能不全症候群と呼ばれる疾患は強い感染力をもって全世界に広がった。
その名のとおりこの疾患の特徴は、心肺機能の極端な低下にある。
血液が行き渡らなくなった身体は、通常では死に至るほどの血行障害により、筋肉が硬直する。
進行すれば可動域の狭窄により、徐々に動作が緩慢にぎこちなくなっていく。
呂律が回らなくなり、舌を突き出して喃語のような不明瞭な言葉を話す。
新陳代謝が著しく衰え、皮膚は青白く爛れたように荒れていく。
このような患者の特徴がネット上で「まるでゾンビのようだ」と揶揄されたものが拡散し、現在では「ゾンビ・ウイルス」と通称されている。
ゾンビ・ウイルスが感染する条件は未だ不明だ。
粘膜感染だ、飛沫感染だ、いや空気感染した事例もあると、専門家たちが日々侃々諤々の議論を繰り広げている。
見た目の症状から受けるインパクトに反して、死亡例は少ない。
皮膚感覚が麻痺し、意識のせん妄と多幸感があるため苦痛が少ないのが不幸中の幸いだが、ワクチンの開発も間に合っておらず、現時点では不治の病である。
どうやって感染るのかもわからない、不治の病。人々はぎこちなく距離を取り合い、商店は軒並みシャッターを閉じた。
僕の会社も生産性の低下を理由に随分と渋っていたが、従業員に感染者が出たことを契機に先日、遂に在宅勤務へ踏み切った。
くん、と僕の手が引っ張られた。手をつないでいた妻が小石につまづいたようだ。
今までは仕事に追われて帰宅も遅く、こんな風に妻とのんびり散歩することなんてできなかった。
僕が妻の冷たい手をぎゅっと握ると、妻は大丈夫、というように頷いた。
夕暮れの川沿いを、ふたり手をつなぎゆっくりと歩いてゆく。
お盆も近いというのに、あまり暑さも感じず過ごしやすい。
絶好の散歩日和だ。
僕はじんわりと、このささやかなしあわせを噛みしめた。
道の向こうから、見知った顔が歩いてくる。
「ぐぉんでぃぐわぁ」
「ががぐぎぎぁ」
僕たちは軽く会釈して挨拶を交わすと、またそれぞれの道をあてどなく歩いていく。
ああ、しあわせだ。
妻の青白い頬が夕日に映えて美しい。僕らは見つめあってほほ笑んだ。
ゾンビ・ウイルスも悪くない。




