歪められた王、己が血と婚約の偽りを知る
ジェソンが目を覚ました時。
最初に感じたのは――冷たい石の感触だった。
視界がぼやけたまま、彼は自分が床に横たわっていることに気づく。
そして次の瞬間、さらに異様な違和感に襲われた。
身体が、動かない。
いや――
動かせるのは、上半身だけだった。
全身は、黒く鈍い光を帯びた鎖によって厳重に拘束されている。
その一本一本には、魔力を封じる刻印が刻まれていた。
ジェソンは必死に身体を捩る。
鎖が軋む音が、低く響く。
だが――
「……?」
何かがおかしい。
彼は気づく。自分の脚の感覚が、まったくない。
腰から下が――存在していないかのように。
「……な……に……?」
恐怖が、ゆっくりと脳に染み込んでくる。
その時。
ふと、奇妙な安堵がよぎった。
――あの“もの”が、出てこない。
下半身の裂け目から、無限に湧き出ていたあの忌まわしい嬰児の群れ。
あの蠢きが、もう存在しない。
「目が覚めたか。」
低く、沈んだ声。ジェソンはゆっくりと顔を向けた。
そこに立っていたのは――
先ほど、魔導士たちを率いていた黒髪の男。
距離が近くなったことで、その顔がはっきりと見える。
白い肌。
異国の血を思わせる容貌。
そして、全身に刻まれた無数の傷痕。
戦場の傷ではない。もっと長く、もっと陰惨な――生き延びた証の傷。
その瞬間。
ジェソンの記憶が、ひとつの名を呼び起こした。
「……ダグ……?」
別宮でエリカに仕えていた奴隷。
“無眠者”。
そして――ティムの父。
「……馬鹿な……」
声が震える。
「お前は……戦場に送ったはずだ……」
彼は確かに確認した。
ダグが黒塔の魔導士たちに捕らえられたことを。
――それで終わりのはずだった。
黒塔に連れ去られた魔力持ちは、例外なく実験材料となる。
死ぬことすら許されず、壊され続ける。
それを知っていたからこそ、安心していたのだ。
「二年前だ。」
ダグは淡々と言った。
「俺たちは黒塔を破壊した。その後、俺はエリカのもとに戻った。今は王立研究院、魔法部門の主任を務めている。」
――二年前?
――黒塔が、破壊された?
その瞬間。
ジェソンの中で、何かが崩れた。
今まで感じたことのない種類の恐怖。彼はずっと思っていた。自分は安全だと。
王である限り、誰も自分に本当の危害は加えないと。
アンジェラに嘲られようと。侍従に軽んじられようと。
せいぜいが、ぬるま湯を冷水にすり替えられる程度。
寝台の交換を怠られる程度。
些細な嫌がらせに過ぎないと。
だが――
黒塔の崩壊すら知らされていなかった。
ならば。
他に、どれほどの事実が隠されている?
先ほどニック伯父が何を言ったのか。
なぜあの場にいた全員が、自分をあの目で見ていたのか。
――まるで、不要になった廃棄物を見るように。
「陛下とティムに対して行ったことを思えば、本当は腹を裂いてやりたいところだがな。」
ダグが静かに言う。
「だが今のあんたは、もう“死ねない”。だから代わりに、下半身を切り離した。」
彼は顎で示した。
ジェソンの視線が、その方向へ引き寄せられる。
そこには――
彼の“下半身”が転がっていた。
腹部から切断されたそれは、異様に膨張し、歪んだ形の複数の脚が絡み合っている。
まるで、空気を抜かれかけた怪物の残骸。
そしてそれは――
溶けていた。足先から、じわじわと。
肉と骨が液状化し、床へと流れ出していく。
腐臭が、ゆっくりと広がる。
「……な……何をするつもりだ……!」
ジェソンは叫ぶ。
「私はこの国の王だ!お前はただの奴隷だ!」
ダグは見下ろす。
その視線は冷たく、感情がない。
まるで屠殺前の家畜を見る肉屋のように。
彼は何も答えず、暗い墨のような液体で床に魔法陣を描き続けた。
「ここはどこだ……!エリカは……エリカはどこだ!ここに来させろ!」
「ここにいるわ。」
その声は、静かだった。
部屋の中央。そこにエリカは座っていた。
青い鎧を纏ったまま。
まるで最初から、すべてを見ていたかのように。
「ここは別宮の魔法実験室よ。」
ジェソンの目が見開かれる。
「なぜだ……!私はお前を救った!すべてを与えた!それなのに――」
「何を?」
エリカの声は冷たく、わずかな嫌悪を含んでいた。
「あなたがいなければ、私は別宮に閉じ込められることもなかった。あなたの“奉仕”は、ただ私を王妃という檻に縛りつけて、国政と後始末を押しつけただけ。」
「それは……私の体が……」
「空とダグにしたことだけで十分よ。」
エリカは言い切る。
「でも一番の問題は――ティムに手を出したこと。」
「……協定?そんなものは知らない。」
「前王と王妃が、あなたと私の婚約時に結んだ協定よ。さらに、別宮でヴィクトリアとも契約している。」
「知らない!」
「読んでいないの?」
エリカの眉がわずかに寄る。
「……では聞くけれど。なぜ前王夫妻が、私を別宮に閉じ込めたと思っているの?」
ジェソンは、迷わず答えた。
「……私は、お前を愛していた。魅了されていても、心の底では分かっていた。だから離したくなかった。それだけだ。」
沈黙。
そして。
「それは愛じゃない。」
エリカは静かに言った。
「ただの醜い所有欲と責任転嫁よ。」
その言葉は、刃のように突き刺さる。
エリカは背後を振り返る。
「ティム。レイは大丈夫?」
最初に光の中へ踏み出したのは、ティムだった。
若き南方伯ティム
彼は――どこか違って見えた。
しばらくしてから、ジェイソンはようやくその違和感の正体に気づく。
ティムは、いつものように目隠しをしていなかった。
普段は黒布で覆われていたその瞳が、今は露わになっている。
顔の上半分が隠されることなく、完全に晒されていた。
その瞬間。
ジェイソンは、そして背後に立つダグもまた――
同時に理解してしまった。
ダグに酷似した骨格。だが、それだけではない。
顔立ちの輪郭。そして、新芽のように淡く輝く翠の瞳。
エリカと、あまりにも似ていた。
まるで、ダグとエリカ、二人の特徴をそのまま重ね合わせたかのような存在。
ジェイソンが、何も気づいていなかったわけではない。
十九年前。
まだヴィクトリアの魅了魔法に囚われ、彼女を心から愛していた頃のこ
二人は、子を成せないことに悩んでいた。
だがある日、ヴィクトリアは突然態度を変えた。
それまで徹底してエリカとの接触を避けさせていたにもかかわらず、
今度は執拗なほどに、別宮へ向かうようジェイソンに迫ってきたのだ。
それだけではない。
彼女は自ら、媚薬を用意し、半ば強引にジェイソンをエリカのもとへ送り込んだ。
その行為は、明らかに異常だった。だが直後、ヴィクトリアは態度を一変させる。
彼を寝室へ連れ戻し、涙を流しながら「強いられた」と訴えた。
あまりにも矛盾した行動。
当時のジェイソンは、深く考えることができなかった。
魅了魔法が解けた後、ジェイソンはその理由を問いただした
そしてヴィクトリアは、あっさりと答えた。
「攻略システム」の任務だったのだと。
本来の物語の流れでは、
エリカとジェイソンの間には一人の子が生まれる。
その名は――ティム。
彼は次世代の「攻略対象」であり、ヴィクトリアの娘である主人公と、禁忌の血縁関係にある恋を繰り広げる、極めて人気の高いキャラクターだった。
その「存在」を現実に成立させる必要があった。
――それが、任務。
やがて別宮の奴隷の女が子を産み、その子は「ティム」と名付けられた。
ヴィクトリアは、それで条件は満たされたと判断した。
ジェイソンの中には、拭えない疑念が残った。
あの夜。
ヴィクトリアは、自分だけでなく――
エリカにも、同じように媚薬を使ったのではないか。
ティムは本当は――
エリカの子なのではないか。
その疑念は、やがて確信へと変わった。
ティムが成長するにつれ、あまりにも優秀であることが明らかになっていったからだ。
エドワードでは、到底及ばないほどに。
だからこそジェイソンは――
彼を、排除しようと決めた。
「これは裏切りでも罪でもないわ。」
エリカは静かに言った。
まるで、理解の遅い子どもに言い聞かせるように。
「私が彼を産んだ時、私は“名ばかりの側妃”だった。正式な王妃ではなく、王家に都合よく置かれた存在に過ぎない。」
彼女は一歩も動かず、ただジェイソンを見下ろす。
「そして――ヴィクトリアと私の間で交わされた側妃契約には、はっきりと記されているの。」
「私は、任意の相手と関係を持ち、子を成すことができる。
ただし、その子に王家の名を与えない限り、王権には一切の影響を及ぼさない。」
短い沈黙。
「つまり、あの子――ティムは、契約上、何の問題もない存在だった。」
ジェイソンの顔が歪む。
だがエリカは続けた。
「……けれど、それだけじゃないわ。」
彼女の声は、わずかに低くなる。
「もっと遡れば、あなたと私の“婚約時”に、前国王夫妻と結ばれた協定がある。」
「その中には、より明確に記されている。」
ゆっくりと、言葉を区切るように。
「――王家の血を有する側が、婚姻の主体である場合。
その者は、王統の維持を目的として、適切と判断した相手との間に子を成すことが許される。」
ジェイソンは息を呑んだ。
「そして、その子は――王子、あるいは王女として扱われる。」
エリカは微かに首を傾げる。
「つまり、私が誰との間に子を成そうと、それは制度上“正統”なの。」
「あなたに、それを否定する権利はない。」
冷たい断定。
逃げ場はない。
「さらに言えば――」
彼女の視線が、わずかに鋭くなる。
「もしその子に危害が加えられた場合、私は“相応の報復”を行う権利を持つ。」
「それもまた、契約に明記されている。」
ジェイソンの喉が震える。
「……そんなもの、聞いていない……」
「そうでしょうね。」
エリカは、わずかに微笑んだ。
「だってあなたは、一度も契約書を読んでいないもの。」
「あるいは――」
一拍。
「読んでも、理解しようとしなかっただけ。あなたは“王”だったけれど、“契約の主体”ではなかったのよ。」
ジェソンの視界が歪む。音が遠ざかる。
世界が――崩れていく。
彼の人生は、最初から――
“王”ではなかった。
そしてその事実は、彼の肉体よりも先に、彼の存在そのものを引き裂いた。




