王の肉胎血獄
※警告※
本章には非常に強い暴力描写、流血・人体損壊表現、グロテスクな描写、およびクトゥルフ的恐怖表現が含まれます。閲覧の際はご注意ください。
――お前は、何を望む?
その声が、問うた。
「……俺が、望むもの……?」
ジェソンは、自分自身に問い返した。
いつの間にか、淡い桃色の霧が彼の身体にまとわりついていた。
それは甘く、粘つくような香りを放ち、吸い込むたびに意識が遠のいていく。
足元は頼りなく、まるで雲の上を歩いているかのように浮ついていた。
最初に浮かんだのは――エリカの顔だった。
平凡な顔立ち。
特別に美しいわけでもない、ありふれた茶色の髪と緑の瞳。
だが。
彼女は、野口空と並んで歩いていた。
その視線は熱を帯び、まるで大地を焼き流れる溶岩のように、彼へと向けられている。
「待て……!」
ジェソンは手を伸ばす。
だが次の瞬間、二人の姿は霧の中へと溶けるように消え去った。
景色が、変わる。
エリカは王冠を戴き、蒼い長衣をまとい、玉座に座していた。
その隣には、妖艶なアンジェラ。
身体の線を強調する華やかなドレスを纏い、エリカへと寄り添っている。
二人は親しげに囁き合い、時折、柔らかな笑みを交わす。
エリカの瞳には――
惜しみない寵愛が宿っていた。
それは、まるでこの世で最も美しい花を見つめるかのような眼差しだった。
「やめろ……」
ジェソンは駆け寄ろうとする。
だが、その光景もまた、無慈悲に掻き消えた。
次に現れたのは、ティムだった。
若く、整った顔立ち。優秀で、強く――そして。
「魔霊眼」に侵されながらも、生き延びた唯一の存在。
エリカは彼を褒めた。認めた。必要とした。
ジェソンの子どもたちよりも。
その事実が、彼の胸を焼いた。
「……あいつは……」
嫌悪と、劣等感が絡み合う。
そして。
最後に現れたのは――
彼自身だった。
玉座に座る王。
堂々とした体躯。整った容貌。威厳に満ちた声。
臣下たちはひれ伏し、忠誠を誓う。
エリカは隣に座り、彼の言葉すべてに静かに頷く。
失われたはずの側近たちも、皆そこにいた。
ブラウンティ公爵も、議会の面々も、すべてが彼の足元に跪いている。
そして――
エドワード。
王子の装いを纏い、誇らしげに立つその隣には、
彼とエリカに似た子どもたちが並んでいた。
「……これが……」
ジェソンは、呟く。
「俺の……望み……」
目を開けた。
違和感があった。視界が――高すぎる。
天井のシャンデリアが、目の前にあった。
いや。
自分の頭が、それに触れていた。
「……なに……?」
ゆっくりと、自分の身体を見下ろす。
その瞬間――
理解した。
これは。
もう。
人間ではない。
彼の身体は、異様に膨れ上がっていた。
まるで内側から空気を流し込まれたかのように、限界まで膨張している。
皮膚は引き伸ばされ、本来の淡褐色は失われ、病的な白へと変わっていた。
その表面には、紫色の痕――破裂した毛細血管が無数に走っている。
そして。
腹部に――口があった。横一文字に裂けた巨大な口。
そこには、人間と同じ形の歯と舌が備わっていたが、その大きさだけが異様だった。
その口は、何かを食べていた。
まだかすかに動いている「何か」を。
噛み砕き、飲み込みながら。
やがて、咀嚼の途中で――
ぽとり、と。
一つの塊が、床へ落ちた。
乾いた音が響く。
それは――
ジェの首だった。
胴体から切断され、紫の瞳は虚ろに宙を見つめ、銀白の髪は血と唾液に濡れ、
その美貌は原形を留めていなかった。
腹の口は、なおも彼を喰らい続ける。
かつて「恥」として忌み嫌っていた息子を。
不思議なことに。
ジェソンの心には、何の痛みもなかった。
ただ――
「……こんなに食って、腹は……痛まないのか……?」
そんなことだけを、ぼんやりと考えていた。
彼は歩こうとした。
だが、足の感覚がおかしい。
その巨大な身体の下には――
十数本の脚が生えていた。
いずれも不完全な形。
太腿も膝もなく、ただ脛と足先だけが存在する。
黒い長毛が生えたそれは、かつてヴィクトリアが取り寄せた北方魔獣の毛皮を思わせた。
そして、その脚の隙間に――
違和感。
内側から押し広げられるような、不快な圧迫。
しゃがもうとする。
だが――膝がない。
できない。
脚の間に、裂け目があった。
その縁が震え、内部で何かが蠢いている。
やがて、激しい収縮。
押し出される。
ひとつ、またひとつと――
地面へと落ちる。
「――っ……!」
それは。
「出産」だった。
だが、あまりにも。
あまりにも――
おぞましい。
「なぜ……こんな……」
彼の声は、もはや一つではなかった。
複数の声が重なり合い、歪んだ音となって響く。
「それが、あなたの願いです。」
無機質な声が応じた。
「繁栄する王。
魅了を見破る視界。
妻を超える力。
そして、南方伯ティムを凌ぐ肉体。」
ジェソンは瞬いた。
顔中に生えた無数の眼で。
それぞれの白目の中に、複数の瞳孔が渦巻いている。
「違う……こんなのは……望んでいない……!」
「最適化された結果です。
虚空より抽出した“上位存在の因子”を使用しています。」
「元に戻せ……!」
「調整を試みています……」
わずかな間。
「……異常です。修正不能。」
その間にも。
裂け目から生まれ落ちたものたちが、動き始めていた。
それらは――
赤子の頭を持っていた。
人に似た顔。
だが口の中には、獣のような鋭い歯。身体は歪み、四肢もなく、肉塊のように蠢いている。床を擦りながら、ゆっくりと這い進む。
やがて、扉の外へと。いつの間にか開かれていた寝室の扉から、外へ。どこへ向かうのかも分からぬまま。
「戻せ!戻せ!元に戻せ!!」
ジェソンは叫び続けた。
何かで身体を覆おうとする。
だが――
彼には、もはや「手」がなかった。
その時。
彼は「それ」を感じた。
あの時と同じ。
闇に沈み、身体が変わる直前に感じた――
「視線」。
天井の上。
王宮の外。
空の彼方。
星々の向こう。
何かが、見ている。
人は、それを――神と呼ぶ。
その存在は、祝福もしなければ、裁きもしなかった。
ただ、見ていた。
己の欠片を取り込み、耐えきれずに歪んだ矮小な人間を。
そして、その欠片を盗み、扱いきれなかった造物を。
だが、その存在は――何も与えなかった。
救いも。
罰も。
ただ、見ていた。
己の欠片を取り込み、耐えきれずに歪み果てた矮小な人間と、
それを媒介として力を弄ぼうとした、未熟な造物を。
冷ややかに。
そして、どこまでも無関心に。
ほんのわずかに――その視線が、揺らぐ。
遠く。
王宮へと近づいてくる気配。
それは人間の群れ。
だが、その中に――
「知っているもの」が、混じっていた。
血の奥底に刻まれた痕跡。
かつて自らが捨てた欠片より連なる、歪んだ系譜。
巣を持ち、
己の内より新たな命を孵すもの。
――己に連なるもの。
それは、すでに“理解している”存在だった。
ならば。
この場に、己が関わる必要はない。
ほんのわずかに、愉しむような間。
それから、興味を失う。
視線は静かに離れ、
意識はゆっくりと引いていく。
まるで、夢の続きを思い出したかのように。
やがてその存在は、虚空の彼方へと身を沈め、自らの巣へと還っていった。
星屑と残滓に囲まれた、静寂の巣。
そこは、誰にも知られず、誰にも侵されない場所。
そこで再び――
それは眠りにつく。
深く。
長く。
終わることのない夢の中へと。
そしてその夢は、またいつか、現実を歪める。
その夜。
王宮は、地獄へと堕ちた。




