婚約破棄された公爵令嬢の前世と、今世の選択
マリアンはようやく、アンジェラの装いに気づいた。
アンジェラは黄金のドレスを身にまとっている。
それは、前世でマリアンが最後に出席した舞踏会で使われていたものと同じ生地――遠く離れた真珠諸島から輸入される、限られた権貴のみが手に入れられる夜光布であった。
しかし今、そのドレスには、かつて宮廷で見慣れていたパニエで広げられた角張ったスカートや、パフスリーブ、そして細かな真珠と金糸による精緻な刺繍は見られない。
代わりに、全体はよりゆったりとした設計へと変わっていた。
コルセットもパニエも排され、胸下で切り替えられたハイウエストのラインは、腰の輪郭を強調することなく、柔らかく流れる。
歩くたびに揺れるスカートには、青と赤の薔薇の模様が繊細に描かれ、生きているかのように美しく咲き誇っていた。
――自分は本当に、領地に籠もりすぎていたのだ。
マリアンはそう思った。
王都の流行すら、まるで知らない。
そして今の王都の風潮は、前世とはあまりにも違っていた。
前世では、エリカ王妃は長く南方に滞在していたため、宮廷の流行はマリアン――未来の王子妃である彼女と、舞踏会に出入りする社交界の女性たちによって主導されていた。
だが当時は、議会の派閥争いが激化し、舞踏会の場すらも衝突と対立に満ちていた。
貴族の女性たちは互いを出し抜こうとし、ドレスのレースの段数でさえ比較の対象となった。
マリアンは、ブランティ公爵家と王家双方の社交的象徴として、常に最も古典的な宮廷衣装を身にまとっていた。
数十年変わらぬパフスリーブと角型スカート――それが「正統」であったからだ。
本当は、モス公国の軽やかなドレスの方が好きだった。
それでも、一度として袖を通したことはなかった。
――もし前世の記憶を、もっと上手く使えていたなら。
結果は違っていたのだろうか。
前世、宮廷の茶会で耳にした話がある。
ティムと、その平民の婚約者についてだ。
公式には――
彼女は暗き山脈に住む家系の出であり、山中で部隊とはぐれたティムを救ったことで縁を結んだとされていた。
多くの貴族は、この婚約を政治的な示威だと見ていた。
後見人であるエリカ王妃の意向であり、南方で勢力を拡大するティムが王権を脅かさないという意思表示だと。
一方で、それは純粋な愛によるものだと考える者もいた。
エリカ王妃は以前から、ティムの両親に恩があると公言しており、彼に政略結婚を強いないと宣言していたからだ。
――ならば。
自分は領地で安穏と過ごすべきではなかった。
ティムが山中で遭難する時期に赴き、彼を救い、その女性に代わるべきだったのだ。
もし王位に就くのがティムではなくエリカであったとしても
ティムは彼女が育てた存在。
彼の妻になることは、依然として安全な選択だった。
それとも――
今からでも、エドワードの寵愛を取り戻せるだろうか。
前世と同じく、ジェイソン王が自滅し、エリカ王妃が台頭するのなら――
王位継承者は、その一人息子であるエドワード王子となる。
議会と軍がエリカの即位を許す理由も、そこにあるはずだ。
いずれ王位は、正統たる男子嫡系――エドワードへと戻る。
そして彼女は思い出す。
かつてエドワードが「三日以内に領地へ戻れ」と命じたことを。
あれは――警告であり、保護だったのではないかと。
……最後に、自分を救ったのも彼だった。
「どうだ?」
エリカが問う。
「彼女はブランティ公爵領への送還を求めています。無断で訪れたことを謝罪し、後日ご両親と共に王宮へ謝意を示しに来ると」
アンジェラが報告した。
「……そう。ダグ、公爵が妙な場所から飛び降りようとしたと聞いたけれど?」
「はい。すでに拘束魔法で沈静化させております。公爵夫人と他の子供たちも屋敷内に隔離済みです。ディマン王国は間諜の発覚後、混乱状態にあり、救出の是非について結論は出ておりません」
マリアンはまだ知らない。
自分が一週間も昏睡していたことを。
ダグの開発した魔法と、ティムがインスタ領で発見した薬草によって、彼女は安らかな眠りを保たれていた。
その間、侍女たちが世話をし、命を繋いでいた。
その裏で――
事態は大きく動いていた。
第三日――後に「至黒の夜」と呼ばれる事件が発生。
王宮上空に異形が出現し、エリカ王妃、ダグ、そしてティム伯爵がこれを撃退。
第四日――
ジェイソン王が禁じていた「魅惑の魔の子ジェイ」による暴走が明らかとなり、王は死亡。
第五日――
ブランティ公爵、ディマンとの内通の疑いで拘束。
第六日――
継承会議にてエリカ王妃の即位が決定。
第七日――
エリカ、女王として即位。
アンジェラは宮廷夫人として留任。
ダグは魔法省初代長官に任命。
第八日――
マリアン、覚醒。
「どうやら、未来を決めたようね?」
エリカは意味深に微笑んだ。
「彼女はずっとエドワードについて探っていました」
アンジェラがため息をつく。
「やはりね。でも、こんなに早いとは」
「なぜです? 彼女はティムとの婚約を望んでいたのでは?」
「人は、よく知らない相手に強い感情を抱けるものかしら? それよりも――前世で長く共に過ごし、最後に救ってくれた相手の方が、よほど重いでしょう」
「……陛下が即位されたと知って、考えを変えたようです。少し不安です」
「心配いらないわ、私の小さな薔薇」
エリカは優しく微笑む。
「あなたへの約束は変わらない。私たちの子は、その座には向かない――ならば、その娘を育てればいいだけ」
その言葉に、アンジェラは満足げに微笑んだ。




