本編
長い廊下をひたすら歩かされた末、案内役の侍女がようやく足を止めた。
次の瞬間、マリアンの顔を覆っていた黒布が外される。
「……っ」
急に光が差し込んで、思わず瞬きを繰り返した。
視界が落ち着いてから、そっと周囲を見渡す。
そこは謁見室のようだった。
王宮ほどきらびやかではないけれど、無駄がなく整えられている。けれど使われている木材も石材も、一目で高級品だと分かる。
(質実剛健ってやつ?)
正面の壁には三枚の巨大なステンドグラス。
中央は青い薔薇。枝葉が大きく広がり、まるで天まで届きそうだ。
右は赤を基調に雨と海。左は大地と山脈。
(家紋……?)
この並びは、本家と従属家を示す典型的な構図だ。でも、どれだけ記憶を探っても一致する紋章が見つからない。
(そんなはずない。わたし、全部暗記したのに。)
今回の目的――インスタ子爵ティムの紋章だろうか。
彼は新興貴族。紋章はまだ公開されていない。
まったく新しい意匠だという説もあれば、後見人であるエーリカ王妃の実家、ジェル伯爵家の薔薇を模すのではとも言われている。
ジェル家は桃色の薔薇。なら、青い薔薇……?
「ふふ」
前方から、女の笑い声が聞こえた。顔を上げると、いつの間にか主座に一人の女性が座っている。
(え、いつの間に……?)
三十代後半くらいだろうか。美人というほどではないけれど、不思議と目を引く顔立ち。シンプルな青いドレス。裾には濃紺の糸と白い小粒の真珠で薔薇が刺繍されている。長い茶髪は青いリボンで結ばれていた。座り姿が、完璧だ。王太子妃教育を受けたマリアンですら、作法の乱れを一つも見つけられない。
(……誰?)
どこかで見たことがある気がするのに、思い出せない。
主座の右側、床には若い女が座っていた。まるで子猫のように、茶髪の女の脚に上半身を寄せている。
赤すぎる髪。大きすぎる緑の瞳。少し広めの唇。
全部が強いのに、不思議と調和している。
目が離せない。
(ああいう顔、いるのよね……)
高位者の愛妾とか、王宮の専属の花とか。甘くて危険な存在。けれど、その瞳の奥には冷たい光があった。
――刺すような、冷たさ。
そして、主座の左後方。背の高い男が立っている。
黒いローブには土色のルーン。この国でも珍しい、本物の魔法使いの証。
けれど袖からのぞく腕は、どう見ても戦士のそれだ。
左頬を横切る大きな傷跡。それでもなお、整った顔立ち。彼の片手は椅子の肘掛けに置かれ、茶髪の女性の手に触れそうな距離にある。
(ち、近い……!)
マリアンは慌てて視線を落とした。二度の人生で淑女教育を受けてきた彼女にとって、この距離感は刺激が強すぎる。
(落ち着いて。分析。状況把握。)
深呼吸。
茶髪の女性は中級以上の貴族だろう。けれど淡褐色の肌、緑の瞳、茶色の髪は珍しくない。
(王妃様の側近……?)
エーリカ王妃の宮殿とサロンは、才色兼備の女性を育てることで有名だ。侍女たちには常に良縁が舞い込む。
一年前、マリアンは前世の記憶を頼りに王宮の古参侍女を買収した。その情報によれば、ティムはエーリカ王妃の別宮にいた奴隷から生まれた子。王妃は幼少よりジェイソン国王と婚約していたが、留学中に破棄され、別宮へ幽閉された。
ティムの父は別宮の〈不眠者〉奴隷ダグ。黒塔との戦争で失踪。母は名もなき女奴隷で、出産後に死亡。
王妃はティムを解放し、後見人となった。
目の前の女は、その時に付き添った侍女かもしれない。
(……あり得るわ。)
前世では疫病が国を襲い、王妃は南へ移住した。だが今世では疫病は防がれ、王妃は王宮に留まっている。ティムの運命だけは変わらない。負傷し、養子となり、南へ赴き、盲眼の賢者と呼ばれる。
重生後、マリアンは再び王子の婚約者になることを恐れた。母と妹の看病を理由に領地へ籠もり、王宮の動きを十分に把握できずにいた。
「ブロンティ公爵家のマリアン様が、どうしてこのような場所へ?」
茶髪の女が柔らかな声で尋ねる。その声音は穏やかで、どこか子どもを諭す母親のようだった。声は柔らかい。だがその柔らかさは、刃を布で包んだようなものだった。
マリアンの喉がひくりと鳴る。
(知られている……)
(どうして身元が……?)
マリアンの背筋が冷える。だがすぐに思い出す。荷物はすべて没収されていた。
「お顔立ちは公爵夫人に似ていらっしゃるのに、気質は公爵そのもの。聡明で……けれど、少々せっかち。」
くすり、と女が笑う。
赤髪の女が口元を押さえて肩を震わせる。
大男もわずかに口角を上げている。
(……笑ってるわよね?)
マリアンの頬が一気に熱くなった。言い返してやろうと口を開きかけ――
――前世の最期がよぎる。
家門は崩れ、自分は路上で死んだ。
(ここで敵を作るわけにはいかない。)
もしこの茶髪の女が、長年ティムを支えてきた人物なら。取り入らなければならない。
背筋を伸ばし、旅で乱れたスカートを整え、完璧なカーテシーを決める。
「ご挨拶が遅れました。ブロンティ公爵家長女、マリアン・ブロンティと申します。インスタ伯ティム様のご高名はかねてより存じております。本日は、ぜひ重要な取引についてご相談したく参りました。」
「重要な話を、公爵自らでもなく、使者でもなく……娘が密偵のように潜入して行うのですか?」
赤髪の女の声は高く澄んでいる。ピアノの高音鍵のようだ。
「機密事項ですので、伯爵ご本人にのみお伝えできます。」
「わたくしの主は高貴なお方です。ティムも従っております。まずはわたくしにお話しなさい。内容はお伝えします。」
「いいえ。伯爵ご本人と直接お話しします。」
空気が変わった。
赤髪の女の目が鋭く細まる。猫のようだった気配が、獲物を狙う獅子へと変わる。
男も静かに姿勢を正す。黒衣が揺れた。
だが茶髪の女が片手で制した。
「申し遅れました。わたくしはエーリカ。ティムの後見人です。」
その名を聞いた瞬間。マリアンの思考が止まった。
(……王妃?)
エーリカ王妃。
どうして、ここに。恐怖と混乱が一気に押し寄せる。
「賢才で名高いマリアン様が、王妃のお顔をご存じないとは。しかも気づいても跪かない。ブロンティ公爵家のご令嬢は、やはり一味違いますわ。」
赤髪の女がにこやかに皮肉を放つ。
「さあ、マリアン。どうしてここまでしてティムに会いたいのか、聞かせてちょうだい。」
エーリカの声は、まるで優しく包み込むようだった。
その瞬間。マリアンの口が、勝手に動いた。
頭の中が白く霞む。
自分の魂が身体の上に浮かんでいるような、不思議な感覚。
「……彼と婚約したいのです。」
「ティムには既に婚約者がいます。」
「誰も見たことがありません。もし本当に愛する女性なら、宴に連れて出るはずです。存在しない平民の娘でしょう。わたくしと婚約した方が、彼にとって利益があります。」
「なぜ? 公爵令嬢であるあなたは、誰でも選べる立場でしょう?」
「守ってほしいのです。」
「誰から?」
「エドワード王子、ジェイ王子、そしてジェイソン国王から。」
室内が静まり返る。
「何をされたの?」
「婚約破棄され、利用され、裏切られ……そして国王は悪霊を召喚し、王宮は血に染まりました。わたくしは逃げましたが……路上で死にました。」
アンジェラが低く笑う。
「最後が一番重大では?」
「黙って、アンジェラ。陛下が話しているわ。」
「たくさん抱えてきたのね、マリアン。」エーリカの声が、優しく落ちる。
マリアンの視界が揺れた。
「……南から新しい王が来て、悪霊を討ったと聞きました。インスタの王、と。」
「見たの?」
「青い鎧の騎士が黒馬に乗って……歓声が……」
――女王万歳。
――国王は死んだ、女王万歳。
その言葉が浮かんだ瞬間、視界が暗転する。
◇
「まったく……気絶するなんて。」
アンジェラが裾を翻し、倒れたマリアンをまたぐ。
侍女たちが運び去る。
「十三歳にしてはよく耐えたわ。」
「二周目込みなら私より年上でしょうに。」
「……興味深いわね。」エーリカが顎に指を添える。
「夢魔法を使いましょう。」
アンジェラが即座に反応する。
「記憶魔法ではなく?」
「彼女は暗示に弱い。夢の方が安全。」
“安全”。
その言葉が冷たい。
マリアンの意識は暗闇に沈んだ。
◇
三時間後。
寝室で三人は、抽出した“夢”を確認していた。
その間にエーリカは王宮へ戻り、政務をこなし、ジェイソン国王と食卓を囲み、王太子の様子を見せる。
夢の中に映ったのは――
悪霊に憑依されたジェイソン。
引き裂かれるジェイ王子。
血と肉。
エーリカは静かに呟く。「……ゲームシステム。」
ヴィクトリアを狂わせた存在。そして今、ジェイにも宿った亜種。
宿主を求める寄生の意思。
アンジェラが眉をひそめる。
「陛下、危険すぎます。」
ダグも低く言う。
「黒塔の残党に預ける手も。」
エーリカは微笑む。
「彼女の見た未来が本物なら……」
一瞬の沈黙。
「王は死ぬわ。」
その声音は穏やかだ。だが、確信に満ちている。
「そして、次に立つのは――」
青い薔薇の光が揺れる。エーリカは、ゆっくりと微笑んだ。
これは、リタルド王国最後の王妃エーリカが、王国転覆前の最後の一週間に動き出す物語。




