冬将軍と春軍師
澄んだ夜空。
──この冬は、あまりにも静か過ぎた。
凍るべきものが、凍っていなかった。
山頂の社に、甲冑に身を包む武人が一人。
冬将軍は、眼前に構えた太刀を鞘からゆっくりと引き抜いた。
静かに息を整え、一閃。
その刃は薄氷の如く、真白き雲を切り裂いた。
切り裂かれた空から、凍てつく静寂が降りてくる。
冬将軍は白い息をひとつ吐いた。
「これが最後の、風花雪月じゃ」
雲の裂け目から覗く月は、白銀の太刀を淡く照らす。
その刹那、柔らかな雪がしんしんと舞い落ちた。
悠久の時が、風景を静かな白へと染め上げていく。
「──見事なり」
声は、雪の中から生まれたようだった。
冬将軍は振り向く。
社の端に、ゆたりと羽衣を纏う男が立っている。
足元には、まだ芽吹かぬはずの若草が、ひそやかに顔を出していた。
それは、本来なら許されぬ兆しだった。
「して、今宵は何用か。春軍師」
春軍師は、見晴らし台に手を置く。
その掌から、わずかな温もりが広がる。
「はっはっは。何もない。何もないのだ。
──ただ、“何も起こらぬ冬”が、少しばかり気になってなぁ」
春軍師は腰に据えた、ひと振りの刀に手をかけた。
冬将軍は答えなかった。
太刀を握る手は、わずかに冷えを失っていた。
冬将軍の眉がわずかに動く。
そのとき、社を照らしていた灯がふっと消えた。
白い煙が、ゆるやかに二人を隔てる。
夜の闇が幕を下ろす。
降り積もる雪が、音を閉じ込める。
二人は、動かない。
ただ雪だけが、絶えず降り続けていた。
静寂が極まった、その瞬間。
──月明かりの社に、二つの影が弾けた。
太刀の一閃が空を薙ぐ。
凍てつく息吹が宙を走る。
春軍師の刃がそれを受ける。
触れた場所から、淡い緑が滲む。
豪快なひと振りで空気は凍り、霜が社を這う。
繊細なひと振りで氷は溶け、若草が石畳を割る。
火花が散る。
まるで夜に咲く稲妻の花。
吹雪は激しさを増し、滝は瞬く間に氷柱へと変わる。
「春軍師。なぜこのようなことを」
冬将軍の怒声が山を震わせる。
春軍師は笑った。
その笑みは温かい。
だが、甘くはない。
「ぬるい。ぬる過ぎるのだよ。貴殿らしくもない。終わりを恐れるなど」
冬将軍は答えなかった。
その沈黙だけが、真実を語っていた。
一閃。
暖気が凍土を溶かす。
「そんな冷えでは、桜は震えぬ」
冬将軍は踏み込む。
突きが閃光のように走る。
春軍師は半歩退き、受け流す。
「貴殿は、そんなものではなかろう」
「……あの谷には、まだ冬を知らぬ命がある」
甲冑の内側で、心臓がひとつ遅れた。
その一瞬を春軍師は見逃さなかった。
春軍師の目にも止まらぬ連撃。
熱が甲冑を溶かしていく。
冬将軍はただ、その猛攻を受けることしかできなかった。
その熱は雪を雨に変えていった。
「このまま春が訪れても、よいのか?」
社は暖気に包まれる。
──
「喝ッ!」
冬将軍の咆哮が、山々にこだました。
大きく一歩、踏み込む。
そして、太刀を鞘に納めた。
息が止まる。
世界もまた、息を止める。
次の瞬間。
抜刀。
甲高い音が天地を裂く。
何千もの斬撃が、不可視のまま放たれた。
刹那──
凍る。
山も、社も、空気も、月光さえも。
そこに在るすべてが、純白の静止へと閉じ込められた。
春軍師は、刀を地に突き立てる。
大地が震え、氷が一瞬だけ緩む。
だが、すぐに再び凍りつく。
冬将軍は、春軍師の首元に太刀を添えた。
「我がぬるいだと?
今の貴殿に、敗れるわけがなかろう」
春軍師は抵抗しない。
ただ、目を細めた。
「……やっと、冷えたな」
周囲は厳冬の極み。
湖も滝も凍りつき、草木は雪に埋もれ、
空からは重い牡丹雪が降りしきる。
社の屋根が軋む。
木材が悲鳴を上げる。
凍てつく風が社を吹き抜けた。
冬将軍は白き眼下を見渡した。
そして、身体の力を緩め、ひとつ息を吐いた。
「手間をかけさせた。礼を言う」
春軍師は突き立てた刀を抜き、鞘に納める。
「厳しき冬あってこそ、春は息を呑む。
凍てつく静寂があるからこそ、花は震えるのだ」
そう言って、静かに一礼した。
北風が吹く。
春軍師の羽衣は、月明かりに溶けるように消えていった。
静寂。
冬将軍は理解していた。
この厳しさこそが、自らの終わりを呼ぶことを。
それでも──
緩むわけにはいかなかった。
そして、小さく呟いた。
「これよりまた、風花雪月」
月は高く、
雪は深く、
世界は厳しく、美しい。
やがて来る春のために。
冬将軍は、誰もいない社に立ち続けた。
春を迎える者は多いが、
冬を見届ける者はいない。




