Sea:15 アサリが逃げた!?|ちゃっかりゲストと、砂の中のサバイバーたち。
春の風が、海のあそびラボの窓を揺らしていた。
陽だまりの中、ミオたちは展示水槽の前でしゃがみこんで、なにやらわちゃわちゃと話し込んでいる。
「ホタテの目って、ほんとに100個あるのかな……?」
ミオがつぶやくと、ケンタがすかさずノってくる。
「それで全部見えてるなら、オレもホタテになりたい! ってことで、次の遠足はホタテ探しだな!」
「残念だけど、ホタテは潮干狩りじゃ見つからないよ」
と、優しく割り込んできたのは汐ノ宮教授だった。
白衣の袖をまくり、書類の整理をしながら振り返る。
「え、そうなの!? なんで!?」
ミオが身を乗り出すと、教授はゆっくりと頷く。
「ホタテはね、基本的にもっと深い場所にいる。潮干狩りで採れるのは、浅瀬の干潟に住む種類の貝たち。たとえばアサリやハマグリ。ホタテはその仲間ではあるけど、住んでる環境がちょっと違うんだ」
「じゃあ、ホタテの目を観察するのは無理か……」
ミオが肩を落とすと、ケンタがフォローするように言う。
「でも、アサリにもなんかすごい能力あるんじゃない?」
「あるよ」
教授がすかさず言った。
「アサリはね、見た目は地味だけど、実はなかなかのサバイバーなんだ。砂の中で生き抜くために、いろんな能力を持っている」
「えっ!? なに!? なに!? なに!?」
ケンタが食いつく。
「今回の潮干狩りには、特別ゲストが来て色々教えてくれるらしいから。今は……まあ、当日を楽しみにしてて」
ミオとケンタが顔を見合わせる。
「なんか……怪しい……!」
ラボの窓から、潮の香りがふわりと吹き込んできた。
──春の遠足当日。
空は高く晴れわたり、海辺の空気はすこしだけ塩っぽかった。
「うおーっ!海だーっ!!」
ケンタのテンションは到着直後からMAXだ。
「まだ潮干狩り始まってすらないけどね」
ミオが冷静に返すと、隣でハルキが小さく吹き出した。
そんな中で、子どもたちをやわらかく見守っている女性がいた。
副担任の月島すみれ先生。
ふわりとした髪、やさしい眼差し、落ち着いた声──
けれど何よりも印象的なのは、その話し方だった。
「みなさん、今日は“海の教室”です。砂の中には、たくさんの命が暮らしています。騒ぎすぎず、よく観察してみてくださいね」
その声は、まるで波音のように穏やかで、どこか静かな知性をまとっていた。
「……副担任の先生ってさ、“静かな司令官”って感じだよな」
ケンタがぽつりと言うと、ミオはこっそり頷く。
「でも、たぶん“めっちゃ海関連に詳しい人”だと思う。前にラボでも、教授と話してたし」
「え、そうなの?」
「うん。なんか、“センセー、こないだのサンプルね〜”とか言ってて」
「センセーって……教授のことだよね……?」
ケンタの目が少し鋭くなる。
そのとき、もうひとりの先生が、海辺の方から歩いてきた。
無言で、少しだけ離れて全体を見守るようなその人──
担任の先生。あまり多くを語るタイプの人ではない。。
でもその視線は鋭く、どこか観察者のような冷静さをまとっている。
「……あの先生、ずっと何も喋ってないけど、めっちゃ場を把握してる……」
ケンタがつぶやく。
「ほんとだ。なんか“空気で把握する系男子”……」
ミオも目を細めた。
担任はふと立ち止まり、そっとポケットから手帳を取り出した。
少しだけ見えるページには、“観察記録”の文字。
それを見ていたハルキが、小さくつぶやいた。
「……汐ノ宮教授と、同じ匂いがするな」
「それじゃあ、準備ができたら、ゆっくり砂を掘ってみましょう」
副担任の月島先生が、やさしい声でみんなに声をかける。
「“掘りすぎ注意”ですよ。力を入れすぎると、せっかくのアサリさんがびっくりしちゃいますからね」
「アサリさん!?」
ケンタが盛大にツッコむ。
「先生、今アサリに“さん”付けしました!?」
「もちろんです。命ですから」
そのやりとりに、周りの子どもたちがくすくす笑う。
砂浜にしゃがみ込んだミオは、熊手でそっと砂をかいていく。
ハルキも無言で作業を始め、ケンタはなぜか「カンでここ!」と叫びながら勢いよく砂を掘り返していた。
「うおっ!? なんか、逃げた!!」
ケンタの声が響く。
見てみると、掘り出しかけたアサリが水をぴゅっと吹いて、ぴょこんと跳ねるように動いた。
「動いた!?」「アサリが逃げた!?」「それ召喚ミスじゃん!!」
あっという間にパニックと笑いの渦。
「……ほんとに逃げるんだ……」
ミオが驚いた顔で手を止める。
「これ、生きてるってことか……」
ハルキがぽつりとつぶやく。
「アサリは驚いたとき、水管から水を吹き出して移動しようとするんです」
教授がいつの間にか、白衣のまま海辺に立っていた。
子どもたちが「あ、教授だー!」と手を振る中、ミオはそっとつぶやくように考える。
「……“特別ゲストが来るよ”って言ってたの、まさか自分のことだったなんて」
「何食わぬ顔して、アサリ片手に解説始めてるし……」
「ちゃっかりしてるなあ、ほんとに」
白衣を翻しながら、教授は砂にしゃがみ込んで、手のひらにひとつアサリを載せて見せる。
「この水管っていうのは、アサリが砂の中で呼吸したり、餌を取り込んだりするための“管”でね。ときどきピュッて吹いて、敵を避けることもある。まるで小さな水鉄砲」
「うわっ!生き物っぽい!思ってたより生き物っぽい!」
ケンタがジタバタしながら後ずさる。
「でしょ?」
教授はくすっと笑う。
「貝は、動かないって思われがちだけど……ちゃんと、生きてる。逃げる力も、意思もあるんだよ」
その言葉に、ミオはそっと自分の手の中のアサリを見つめた。
“じっとしている”って、“何もしてない”ってことじゃないんだ。
「よし……オレ、やってみるわ……」
ケンタがなにやら真剣な顔で、ポケットから取り出したのは──塩。
「えっ、それどこから持ってきたの!?」
ミオが目を丸くする。
「母ちゃんが“おにぎり用に”って渡してくれたんだけど……いまこそ使うときだと思うんだ……!」
「何に!?」
「これで、アサリを……召喚!!」
ケンタはまるで魔法陣を描くように、砂の上に塩をぱらぱらと撒いた。
「こいっ! 貝たちよ! 深き砂より目覚めるのだッ!!」
しーん。
……が、数秒後。
ぴゅっ!
「動いたーーーっ!?!?」 「召喚成功!?」 「ケンタ、まさかの成功例!?!?!?」
子どもたちが一斉に駆け寄って、歓声とざわめきが広がる。
教授は、腕を組みながらにやりと笑った。
「“召喚”って言い方、面白いね。でも……実は、これもちゃんと科学で説明できるんだ」
「えっ、ほんとに!?」
「うん。アサリってね、水管を砂の上に少しだけ出して呼吸してるの。そこに塩がかかると、“干潮がきた”って勘違いするんだ」
「……か、勘違い?」
「そう。貝にとって塩分濃度の変化は“外の変化”を示すサイン。干潮になると、浅瀬は陸になるから、身を守るために潜ろうとして、水を吹いたり動いたりする。つまり──」
「──“塩=危険信号”ってこと!?」
「その通り!さすがミオ!」
教授は手を打った。
「塩で出てくるのは魔法じゃない。生き物が環境に反応してる、生きた証なんだ」
「魔法じゃないけど……科学って、めちゃくちゃ面白いな……」
ケンタがポツリと呟いたその顔は、ちょっとだけ誇らしげだった。
潮干狩りもひと段落。
子どもたちは取れた貝を手に、海のあそびラボの屋外スペースに集まった。
テーブルの上では、炊き立ての白ごはん、湯気の立つ味噌汁、そして香ばしい貝のバター炒めが用意されている。
「うわーっ! めっちゃいいにおいするー!!」
ケンタが目を輝かせると、月島先生が微笑みながら配膳を手伝った。
「取った命をいただく、ってこういうことですよ。みんな、ちゃんと感謝して食べてね」
「はーい!」
元気な返事があちこちから飛び交う。
ミオはそっと両手を合わせた。
(……ありがとう)
手のひらに包み込んだ、あのアサリのぬるっとした温もりを、少しだけ思い出す。
「いただきます!」
一斉に声が上がり、潮の香りとバターの香ばしさが辺りを包んだ。
──そして、食事の途中。
ふと、月島先生がぽつりと語り出した。
「……私、小さいころ、潮干狩りが大好きな友だちがいたんです」
ケンタが味噌汁を啜る手を止め、ミオとハルキも顔を上げる。
「その子は、せっかくたくさんとっても必要な分以外、そっと海に返しちゃうんだ」
先生の声は、いつものふわっとしたものとは少し違って、どこか遠くを見るようだった。
「“食べるためにいただくんだから、余分になんていらないの”って、真面目に言ってたなぁ……」
ミオは、手元の味噌汁を見つめる。
潮のにおい。あの小さな、水を吹いたアサリ。
さっきまで砂の中で、逃げようとしていた命。
「……食べるって、他の命をいただいていることなんですね」
小さな声で、ミオが呟いた。
「そうですね」
月島先生はにっこりと、けれどどこか寂しそうに微笑んだ。
「だから、今日のこと、忘れないでくださいね。楽しいだけではなくて、生き物と、自分の力で出会った日のこと」
春の光のなかで、潮騒の音だけが静かに響いていた。
遠足からの帰り道。春の風はまだあたたかくて、制服の袖がふわりと揺れる。
その夜。
ミオは、家の机にノートを開いていた。
ページの上に、昼間のアサリの絵。
その下に、ていねいな字で書き始める。
今日、わたしはアサリをさわった。
動いた。逃げた。水をぴゅって吹いて、砂にもぐろうとしてた。
あのとき、「あ、生きてる」って、初めてはっきり思った。
でも、わたしは、それを食べた。
ちゃんと「いただきます」って言って、食べた。
すごく、おいしかった。
でも、すごく、不思議だった。
ミオは一度、ペンを置いて考える。
窓の外には、もう静かな夜。
でも耳をすませば、どこか遠くで、まだ潮の音が聞こえる気がする。
再びペンをとる。
命って、“動くこと”なのかもしれない。
水を吹いて、もぐって、逃げて、それでも捕まって──
それでも、必死に生きようとしてた。
あの日、砂の中にいた“誰か”と、ちゃんと会えた気がした。
ページのすみに、ミオはちょっと照れながら、アサリの絵と、
副担任の月島先生のふんわりした笑顔を描いた。
ページを閉じると、そっと胸に手を当てる。
──ありがとう。
今日の風も、潮の音も、きっと忘れない。