Sea:11 ウミウシって、なに?|名前もないまま、ただ綺麗でいたい
図書室の窓が、すこしだけ開いていた。
春の風が、背表紙をなでるように通り抜けていく午後。
埃をまとった光の筋が、本棚の隙間から差し込んでいる。
ふとした静寂のなかで、汐ノ宮教授が立ち止まり、ぽつりとつぶやいた。
「……ウミウシ、って知ってる?」
ミオが顔を上げる。
読んでいたページの間に指をはさみながら、少し首をかしげた。
「え? なにそれ、ウミ……シ?」
「貝じゃないのに、ウミウシ?」
ケンタもそばでノートを閉じながら首をかしげる。
「名前はある。でも、形は決まっていない」
教授は、ゆっくりと背中のポケットから一冊の写真集を取り出した。
「貝の仲間だけど、殻を捨てて生きている。不思議な子たちだよ」
ページをめくる音が、静かな図書室に小さく響く。
広がった見開きには、色とりどりのウミウシたち。
青く輝くもの、虹色に透けるもの、毒々しくも美しい姿。
まるで宝石のような、あるいは深海の幻のような――不思議な存在感を放っている。
「なにこれ……全部、ウミウシ?」
ミオの声が、ため息のように漏れた。
「そう。どれも同じ“ウミウシ”という名前だけど、姿かたちは全然違う。
見た目ではとてもひとくくりにはできないんだよ」
「きれい……」
ミオの目が、ページに吸い込まれるように動く。
「でも、何者かって聞かれると困るかも」
「そう。名前では説明しきれない子たち」
教授は本を抱えたまま、少し顔をほころばせた。
「でもね、その“生き方”がとてもユニークなんだ」
教授はページをめくる。
「たとえばこのアオミノウミウシ。
毒を持つクラゲを食べて、その毒を自分の体に取り込むんだ。
まるで、相手の武器を“借りて”、自分の盾にするようにね」
「なにそれ、ゲームのドロップ装備じゃん……」
ケンタが呆れたように言って、ミオと目を合わせて笑う。
「でもね、“借りてきた猫”と違って、ウミウシは堂々としてる。
借りものでも、それを“生きる力”に変えているんだよ」
「それってさ……なんか、借り物ってバレないようにするのが人間だけど、
ウミウシは“堂々と借りる”んだね」
ミオがぽつりとつぶやく。
「うん。そのまま自分の色に変えちゃう。
“借りもの”でも、“自分のもの”としてちゃんと使いこなす。強く、美しくね」
「それからこのエリシア・クロロティカ」
教授が指差したのは、鮮やかな緑色のウミウシだった。
「なんと、光合成するんだ。ワカメの“葉緑体”を取り込んで、自分で栄養を作る。
太陽の光が、文字通りの“ごはん”になる」
「……えっ、それって昼寝しながら栄養補給できるってこと?」
ミオが目を丸くする。
「それ、最強すぎない……?」
ケンタが苦笑しながらつぶやいた。
「うん。でも、それだって“他者の力”を上手に取り込んでる。
生きるために、いろんな選択肢を試してきた結果だ」
さらにページがめくられる。
「このクロシタナシウミウシは、頭だけ切り離しても、そこから新しい体を再生する。
しかも、たったの一週間で」
「一週間!?」
ミオとケンタが同時に声を上げた。
「それって、ゾンビじゃん」
ケンタが椅子にのけぞる。
「もうそれ、魔法生物でしょ……」
ミオが小声でつぶやき、くすっと笑う。
「そして、ウミウシは“雌雄同体”」
教授が最後のページを開く。
「交尾したら、どちらも卵を産む。ふたりとも“親”になる」
「フェアだけど……混乱する世界だな」
ケンタがこぼすと、教授はやさしくうなずいた。
「“ふたりともが親”って、なんかいいね」
ミオがそっと言う。
沈黙が、図書室に降りた。
ページを閉じた教授の手の中で、ウミウシたちの写真は静かに光っていた。
「見た目じゃわからない。名前じゃ足りない。
でも、どの子も、自分の色でちゃんと生きてる」
ミオがぽつりとつぶやいた。
「“こういう子です”って、ラベルじゃ決められない」
ハルキが、教室の隅からふと口を開く。
「“花は桜木、人は武士”ってことかもね」
ミオが静かに言った。
「見た目より、生き方が語ってる。……そんな感じ」
教授は、なにかを噛みしめるように目を細めた。
そして、そっと棚に写真集を戻した。
その日の帰り道。
ミオはふと立ち止まって、空を見上げた。
夕焼けの中に、うっすらと月が浮かんでいる。
風が髪を揺らす。
「私も、自分の色で生きていけたらいいな」
「ウミウシ、すごかったね」ケンタがつぶやく。
「ね。あんなに自由で、しなやかで、ちゃんと強い」
ミオはそう言って、少しだけ笑って、歩き出した。
夜。
ミオはノートを開き、ペンを走らせる。
ページの隅に、小さなウミウシのイラストを描きながら――
ウミウシって、なに?
名前があっても、決められない。
借りたものを、生かして。
自分の色で、堂々と生きている。
“七転び八起き”じゃないけど、
頭だけで立ち直る強さには、ちょっと憧れる。
「どんなにバラバラでも、自分のスタイルでいい」って、
ウミウシたちが教えてくれた気がする。
それは、きっと、誰より自由で、
誰より誇らしい生き方だと思う。
——私も、そうなれたらいいな。
ページのすみには、ウミウシたちと、小さなサンゴの絵。
図書室のサンゴの標本が、ほんの少しだけ光を返した気がした。
——今日も、海のどこかで。