Sea:10 この魚、どこから来たの?|遠い海とスーパーのあいだ
「これ、今日とれた魚なのに……ノルウェー産?」
スーパーの鮮魚コーナー。
ミオはラップ越しの刺身パックを見つめながら、小さく眉を寄せた。
「ほら、ここに“本日入荷”ってあるけど、原産国はノルウェー。
これってどういうこと?」
横にいたケンタがのぞき込む。
「え、それ超遠くない? ってことはアレか、空飛ぶ魚?」
「……それ、物理じゃなくて物流の話ね」ミオが即ツッコミ。
「でもさ、仮に飛行機で運んできたとしてもさ、時差あるでしょ?
ノルウェーの朝って、日本の昼じゃない?」
「それ以前に、魚ってそんなに早く移動できるの?
っていうか……とってから腐らせずにどうやってるんだろう?」
ミオの問いに、ケンタは言葉を失い、ハルキが肩をすくめた。
「たしかに。“新鮮”って書いてあっても、ちょっとだけ不思議かもね」
その日の午後、「海のあそびラボ」。
図書室の窓際にある冷蔵ショーケースの前。
例によって、白衣のすそをはためかせた汐ノ宮教授が、氷のような紅茶を飲んでいた。
「ノルウェーのサーモンが、今朝この街のスーパーに並んでいた件、ですか?」
ハルキの一言に、教授はくいっとカップを傾け、静かに笑った。
「それは、“空飛ぶ魚”の話だな」
「やっぱ飛ぶの!? 今回こそマジで空飛ぶ系!?」
ケンタが目を輝かせる。
「残念ながら、翼は生えてない。でも、飛行機には乗ってるよ」
「“チルド状態”でね。凍らせず、氷点近くで運ばれる。
冷やしたまま、ノルウェーの港から飛行機で成田へ。そこからトラックで全国へ」
「え、それってもう完全に、俺らよりハードスケジュールじゃん……」
「そのとおり。そしてそれは、ほんの一例にすぎない」
教授は指先で机をトントンと叩く。
「さて、君たちは“魚を届ける”って、誰がどんなふうにやってると思う?」
3人は顔を見合わせた。
汐ノ宮教授は図書室の奥にある扉を開けると、
冷蔵室に入っていくような冷気の漂う一角へと3人を誘った。
「ここは、研究で使っている“流通観察ブース”だ。
今日は特別に、“魚が旅する経路”を可視化して見せてあげよう」
壁に取り付けられたスクリーンに、青と赤の点が無数に浮かんでいる。
それは海上の漁船、空の物流網、陸路のトラック、冷蔵倉庫、スーパーマーケット……
まるで“魚の旅の銀河図”だった。
「この赤い点がノルウェー。ここから、チルド配送で24時間以内に日本へ」
「中継空港を経て成田着。すぐに通関・検疫されて、温度管理されたトラックで築地市場へ」
「そこから、各スーパーへばらけていく」
「ちょ、ちょっと待って……」
ミオが思わず口にする。
「え、そんなスムーズに運ばれるの? 魚だよ? 何千匹とかあるでしょ?」
「そのために、“段取り八分、仕事二分”って言葉があるんだよ」
教授はゆっくりと頷いた。
「大量の命を、誰かの食卓へ腐らせずに運ぶには、“準備と段取り”がすべてなんだ」
「つまり……魚が並んでる時点で、もうほとんど勝負はついてるってことか」
ハルキの声が、いつになく静かだった。
「で、誰がそれ、全部管理してるの?」
ケンタがぽつりと聞く。
「それが、最も複雑な仕事をしている人間たちだ」
教授が指さしたのは、“築地の仲卸”と書かれた小さな点。
「この人たちは、天候・気温・交通・取引・人の流れ……すべてを見ながら、
どの魚をどこに、どういう順で、どう出すかを決めている。
タイミングが1分ズレると、すべての温度が狂い、商品価値が失われる世界だよ」
「ひぇ……まさに魚の“進撃のスケジューラー”」
ケンタが震えるポーズをとる。
「しかもこの人たち、魚に触らないこともある。
すべては目利き、数字、経験、そして“勘”。
それでも“腐らせない”責任を背負っている」
「うわ、やば。俺、今日の宿題忘れてる場合じゃなかったわ……」
ケンタのつぶやきに、ミオとハルキが吹き出した。
「いや、宿題はやれよ」
「それはそれで重要だぞ」
教授まで真顔で乗ってきて、図書室はしばらく笑いに包まれた。
その日の夕方、ミオは自分のノートを開いた。
タイトルページには、こう書かれていた。
「この魚、どこから来たの?」
ふと思い出す。
スーパーのパックに貼られていた“本日入荷”というラベル。
あの一言が、こんなにもたくさんの旅と仕事を内包しているなんて、知らなかった。
翌日。
「“朝どれ”ってさ……ほんとに“朝とった魚が今ここにある”ってことなの?」
ミオの問いかけに、図書室で読書していたハルキが顔を上げた。
「産地による。地場の漁港でとれて、近くのスーパーに並ぶ場合は“ガチ朝どれ”もありえる」
「じゃあノルウェー産は?」
「うーん、それは“昨日どれ”が冷蔵で旅してきたパターンかな」
「え、それってもはや“朝どれ”じゃなくて、“飛行機冷え冷え”じゃん」
ケンタが唐突に割って入って、ミオが吹き出した。
「でも、“新鮮”って、つまりどういう意味なの?」
ハルキは自分でも気になっていたらしく、手元の資料をめくる。
「獲れた時間の短さ=新鮮、とは限らないんだよ」
「魚の種類や保存方法によっては、“寝かせたほうがおいしい”こともある」
「熟成ってこと?」
「うん。イカとかサバとか、逆にとれたてだと固かったり、旨味が出なかったりする」
「じゃあ、“新鮮”っていうのは……鮮度のことじゃなくて、管理の信頼のことなんだね」
ミオが、ゆっくりとした声で言った。
「そう。“どこで、誰が、どう扱ったか”を信じられるから、“新鮮”に感じる」
汐ノ宮教授が、本棚からぽんっと冊子を取り出しながら口を開いた。
「“新鮮”という言葉に騙されることもある。
だからこそ、見るべきは“魚の道のり”と、“誰の手を通ってきたか”だよ」
教授は、少しだけ間を置いてから言葉を足した。
「物流の世界にはね、こういうことわざがあるんだ」
「急いては事を仕損じる」
「焦って運んでも、魚は届かない。
温度管理も、タイミングも、段取りも……“急ぎすぎるほど、失敗しやすい”ってことさ」
「なにそれ、すごい格言感ある」
「でもさ、それってつまり……魚が“遅れてくること”もあるの?」
ミオが聞くと、教授は小さくうなずいた。
「あるよ。たとえばトラックが渋滞に巻き込まれたら、配送ルートはすぐに組み直される。
それでも、間に合わないことだってある。
でも——」
「じゃあ、もし魚が届かなかったら……」
ミオの問いに、汐ノ宮教授は紅茶のカップを置いた。
「その時点で、“次の段取り”が動き出すんだ」
教授がホワイトボードに手早く書き出していく。
「まず、代替品。冷凍・前日便・近場の市場。とにかく“並べられる魚”を確保する」
「レイアウトも組み直す。空白が出ないように、棚を詰めて見た目を整える」
「広告やPOPも調整。必要があれば、店内放送で案内もする」
「惣菜コーナーは、魚を使わないメニューへ即時切り替え」
ケンタがぼそっと言う。「それ、朝の数時間でやるの……?」
教授はにやりと笑った。「そう。“開店前の戦場”とも言うね」
「それって、もう“失敗しない前提”で動いてない?」
ハルキが言うと、教授は頷いた。
「届かなかった魚のぶん、誰かが“見えない努力”で埋めてるんだ。
誰にも気づかれないように、“何も起きなかったように”するのが仕事なんだよ」
「それって、ちょっと切ないな……」ミオがつぶやく。
「でも、そういう人たちがいるから、魚はいつも“いる”って思えるんだね」
「……でも俺、たぶんその場にいたらパニックになってるわ」
ケンタが言う。
「“サーモンが来ねぇぇぇ!!”って床で転がる」
「うるさい。たぶん床も冷蔵だから、そこで転がったら凍えるよ」
「でさ、それ全部がうまくいって、“魚が並んでる”って光景ができてるんだよね」
ハルキが締めるように言った。
汐ノ宮教授は小さく頷くと、静かに語った。
「“何も問題がなかった日”をつくるのは、
“問題が起きても備えている人たち”なんだよ」
「……でもさ」
ミオが、テーブルの上で指を組みながら言った。
「それだけ毎日備えて、準備して……
届かなかったら対応して、
何もなかったみたいに終わらせて……」
「なんか、すごく大変なことしてるのに、誰も気づかない。
それって、割に合わないんじゃないかなって思っちゃった」
ケンタがうなずいた。「俺だったら3日で音を上げるわ……」
汐ノ宮教授は、静かに笑った。
「うん。そう思うのは自然なことだよ。
でもね……“特別な仕事”が大変なんじゃない。
“どんな仕事も”、それぞれの備えがあるからプロとして成り立ってるんだ」
「魚を届ける人たちも、病院を守る人たちも、学校の先生も。
みんな、“何かが起きても大丈夫なように”って準備をしてる。
それは、ただの習慣じゃなくて、誇りを持ってやってることなんだよ」
「だから、目に見えなくても、誰かが毎日ちゃんと整えてる。
それが、社会っていう場所なんだ」
ハルキが口を開く。
「“届かない”って、どれくらいの頻度で起きるんですか?」
汐ノ宮教授は、紅茶を一口飲んでから答えた。
「流通業界の調査ではね、遅延・欠品のイレギュラーは**全体の約3〜5%**程度。
100回中の3〜5回。でも、その1回がその日の“全部”を狂わせることもある」
「逆に言えば、95%は何も起きていないように見えるんだ。
それは、“誰かが常に備えているから”なんだよ」
ケンタがぽつりと呟いた。
「でも、そんなの……なんか、ヒーローじゃん」
「うん、しかも顔も見えないヒーロー。
誰も“かっこいい”とか言ってくれないのにさ……」
ミオも小さく笑った。
「じゃあ、その仕事を“やりたい”って思う人、いなくなったらどうなるんですか?」
ハルキが問う。
教授はふっと笑って、首を振った。
「何言ってるんだい。
そのヒーローは、君たち自身の未来なんだよ」
3人の目が、そっと丸くなる。
「さっきも言ったけど、それは特別なことじゃない。
どんな仕事であれ、見えないところで同じようにすごいことをやってる。
誰かのために、何かが起きないように、ちゃんとプロとして備えてる」
教授は、静かに言葉を重ねた。
「そしてね——
仕事もこなしながら、そのうえで、
君たちのお父さんやお母さんも、同じように君達を支えてくれてるんだ」
ミオの目が、そっと潤んだ。
「……そっか。
いつも通りに見えてたけど、
あれって、すごいことだったんだね」
「毎日同じ時間に起きて、家を出て、夜には“変わらない顔”で帰ってきて。
それだけで、どれだけすごいことをやってるか。
それをちゃんと知ってるって、大人になるってことだと思うよ」
教授は紅茶のカップをそっと持ち上げた。
「……めちゃめちゃ、かっこいいだろ?」
ケンタが、照れ笑いを浮かべながら言った。
「へえ……それ、ちょっと“冒険者ギルド”みたいだよな。
危機を未然に防ぐ“備えの戦士”っていうか」
「“生鮮の番人”とか?」
「“マグロの守護者”……いや、“鮭のサムライ”!」
「じゃあわたし、“流通の勇者”って呼ぶね」
ミオがそっと笑った。
その笑いには、いつもよりちょっとだけ深い意味があった。
夕暮れどき。
スーパーの鮮魚コーナーをあとにして、3人は帰り道を歩いていた。
西の空には、オレンジ色の雲がにじんでいた。
「うちのお母さん、仕事から帰ってきても、いつも“ただいま”って言って、
そのまま台所に直行するんだよね」
ミオがつぶやいた。
「うちの親父、朝6時とかに起きて、出発してるくせに、
帰ってきても“疲れた〜”とか言わないんだよ。あれ、すごいよな……」
ケンタが笑った。
「見えないところでやってることって、気づかないままになっちゃうけど、
知ったあとだと、ちょっと見方変わるよな」
ハルキが小さく言った。
「うん、なんか……“ありがとう”って言わなきゃ、って思った」
ミオは空を見上げながら、そう言った。
それから数十分後。
「ただいまー」
ランドセルを下ろして靴を脱ぎかけたところで、ミオは足を止めた。
リビングからは、テレビの音とまな板を叩く包丁の音。
「おかえり〜」
キッチンから聞こえるお母さんの声。
奥の書斎では、お父さんが何か書類に向き合っていた。
ミオはランドセルを置いて、キッチンに向かう。
夕飯の支度中、お母さんは魚を焼いていた。
「お母さん」
ミオが正面に立つ。
「なに?」
「……いつもありがとう」
「えっ、どしたの?」
「あ、いや……なんとなく」
ミオは照れくさそうに笑う。
「なんか変なもの食べた?」
「ううん。ちゃんと、食べる前に言っておきたくなっただけ」
お母さんはぽかんとしながらも、笑ってうなずいた。
「なにかあったのか?」
お父さんが奥から顔を出す。
ミオはちょっとだけ顔を赤くして、でも、しっかり言った。
「お父さんも、いつもありがとう」
「……お、おう。なんか、うれしいな」
ふだん口数の少ないお父さんが、少しだけ恥ずかしそうに笑った。
「よし、じゃあ今日はサーモン多めに焼こう」
お母さんが冗談めかして言うと、3人のあいだにあたたかい空気が広がった。
夕飯のあと、ミオは自分の部屋でノートを開いた。
外には夜の風。
ページの端には、小さな魚の絵。
この魚、どこから来たの?
その下には、こう続いていた。
それは、遠い国だけじゃなくて——
すぐ近くで、“気づかれないまま支えてくれてる人”からかもしれない。
ページのすみに描かれた食卓の絵には、
今日の夕飯と、お父さんとお母さんの笑顔もそっと添えられていた。
そのころ、「海のあそびラボ」の図書室。
棚の奥にある、小さなサンゴの標本が、
誰もいない空間でほんの一瞬だけ、淡く光を返した。
それは“気づいた誰か”の記憶が、
この場所に、静かに届いた証だった。