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抵抗

作者: 橿原岩麿

 神殿文書管理の職に就いたばかりのパッカルは、年老いた管理長から朝一番に蔵書目録を手渡された。立派な装飾の施された、中指の先から肘まであるような大きな本がほこりをかぶってずらりと並ぶ地下三階。彼は書架にある本を蔵書目録と照らし合わせながら歩いていた。管理長は悪い人間ではないが、少々仕事の指示が雑なところがある。今回のこの仕事も一からやり直すことにならなければいいが。彼はそんな不満を胸に秘めていた。


 パッカルは3-1383-9047の欄にある神秘の起源3と4の間に何か小さな本が挟まれていることに気づいた。文庫本にしては少し大きいが本にしては少し薄い。神秘の起源3を取り出し、神秘の起源2にもたれかかったその小さな本にほこりのついた人差し指を伸ばした。表紙には「サヨナラ病についての私的記録」と書かれている。パッカルは裏を見た。値段などが書いていない。どうやら売り物ではなく、大学などで刊行されたものに近いようだ。この類のものは地下一階にまとめられているはずだ。事務所に戻るついでに置いていこう。


 左脇に抱えた神秘の起源3を棚に戻したパッカルは、仕事に戻ろうと思った。しかし、彼にも疲れが出ていたのか、単なる気まぐれか。彼は手に取ったその大きくも小さくもないその本を開いて、読み始めた。ちらと、目を通す程度の軽い気持ちだった。


 我々の苦痛が繰り返されぬ過去になっていることを祈りて、これを書き残す。


 その一文が一番初めに書いてあった。サヨナラ病については過去に流行した疫病であるということしか知らない。たかだか数十ページの本だ。40ページもないだろう。彼は読み通すことにした。


 まずはサヨナラ病について、簡潔な説明から始める。この邪神が創ったとしか考えられぬ病の罹患者は7歳以下の子供である。そして、同時に発病するのは一つの集落で5人以下と決まっている。罹患者数は絶対にそれ以上にはならない。我々の科学技術では納得できる解答が一切見つかっていないため、ここには記さない。しかしこの二つの条件が破られることは一切ない。


 そんな少数の発病者をどのようにして見つけることができるのか。それは大いなる時の流れが悲しくも生み出した文化による解決方法である。この病が発見された当初、5年3か月前には、理由もわからず子供が死ぬだけであった。それから間もなくして発見されたサヨナラ病の初期症状とは、罹患者である子供たちが突然周囲の人間にサヨナラと言い始めることにある。そのことが判明してから、サヨナラは忌み言葉となった。子供の前でなくとも、サヨナラという者はいなくなった。子を持つ親は特にそうだった。しかし、発病した子供たちは聞いたこともないはずのサヨナラという言葉を口にしたのだ。これに関しても明確な理由は不明のままである。配慮から始まったはずの気遣いが、奇しくも余命宣告の衝撃を際立たせるに至った。


 サヨナラと口にし始めた子供たちは次の誕生日の前日、まるで眠るように息を引き取る。親は一体どんな気持ちでその瞬間を迎えるのだろうか。想像に耐えがたい。この世界に生まれてきてくれた愛しき子を迎え入れたその日に天に返さねばならないとは。一体どんな気持ちだろうか。発病した子は、次の誕生日までは全く病気をしない。まるで、大きな問題がその他の小さな問題を覆い隠してしまうように。最期の日までの発病者の行動にはいくつか共通項がある。事例研究でしかないので、言い切ることはできないのだが、まず一つ目として、


 想像だにしなかった苦痛の物語に、ページをめくるたびにパッカルには衝撃が走った。この物語が事実であることが彼には信じがたかった。自分が学んで知識でしかなかった歴史が、いま意味を持った体験として目の前に現れた。物語になってしまった現実のかの語り部の声に耳を傾けていた。人生の中で言葉が経験を経て、その意味を明白に示し始めるように、彼は自らの世界が広がったその瞬間を感じていた。産声を上げた日から、密かに彼の内に積もり積もった偏見の埃を吹き飛ばすような風がパッカルの心に吹いた。


 共通項、発病者の家の壁を慰問として赤く塗る風習、発病者の遺伝と生育環境の関係性、彼らの時代に考えうる限りの、なしうる限りの努力の全ての記録がそこに記されていた。パッカルは取りつかれたように読み進めていった。そして、終息と名付けられた最後の章にたどり着いた。


 我々は祈るしかなかった。不安に押しつぶされる思いで、何一つ自らの手でできることがないこの状況で、せめてもの抵抗として、ふりしぼったこの祈りをどこかに届けてはくれまいか。誰か助けてはくれまいか。我々は既に壊れかけていた。


 いつの日かは、もはやわからない。ある時から、サヨナラ病は姿を消した。最後の発病者が眠りについた日から、人々はもしや、と思い始めた。確信のない疑念にすぎなかったが、一か月。また一か月とすぎるごとに、人々は希望を抱き始めた。そして今、一年が過ぎ、何の根拠もなく、王から根絶宣言がなされた。人々の中にはある夜に輝く神の、救世主の光を見た。などと都合のいい夢物語を話し始めるものもいたが、妄想だろう。この地を聖地にすると、本気で考えているのだろうか。だが、そうわめき始めるのも無理はないと思った。科学のもたらした客観性が考えうる限りの当然を取り除いて、運命と呼びたい偶然だけが残ったのだ。


 終わりの見えない徒労で摩耗した人々の人生は息を吹き返した。もはや、再流行を憂いているのは私だけかもしれない。そんなものは忘れて未来に進んでいった方が良いに決まっている。しかし、どうしても納得できなかった。都合の良い運命を信じる気になれなかった。私はどこかで、この記録が必要とされる日が来ることを待ち望んでしまっているのかもしれない。ただ、もしこの記録に読者がいるのならば、私は伝えたい。信じがたい運命が希望を運んでくることがあると。大いなる時の流れが人々に都合の良い結末を選ぶことがあると、もしこの王国に似たように悲劇がまた訪れることがあるのならば、理由はわからないが運命は我々の味方であると。まだ完全に信じ切れてはいないのが私の弱さであると、全てに目を通してくれたのであれば、見通されているかもしれない。別れを告げることになってしまった子供たちへの追悼の意を表して本文を締めくくる。


 パッカルは驚きに胸を打たれ、高鳴る鼓動を感じながら、茫然として仕事に戻った。何も考えてはいなかった。心に吹いたあの風をただ感じていた。

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