月の下で手をつなぐ
月が綺麗だったので書いてみました。(中秋の名月、一日遅刻)
※ファンタジー、異世界、恋愛要素はありません。
窓から見えた月が、とても幻想的だった。
そういえば今日は十五夜とかいう日だったか。中秋の名月がどうのこうのとテレビで流れていたような気がする。意味はよく知らないけれど、月が良い日なんだろう。
だから俺は、珍しく母を散歩に連れ出した。
もうすぐ日が暮れるという時刻の公園は、わずかに残っていた子供が帰ると犬を散歩させている人がちらほらといるだけだ。
もう九月も半ばだというのに、夕方になってもまだ蒸し暑く、髪が肌に張り付く感じがする。
「暑いね。俺が子供の頃はもう少し涼しかったと思ったんだけど」
「そうかねぇ」
正直に言えば、子供の頃の九月半ばがどんな気温だったのかなんて記憶にない。だけどやっぱりここまで暑くなかったんじゃないかと思う。
それでも確実に秋は近づいているようで、じっとりとした重い空気に乗って、銀杏がぷぅんと匂った。
「ばあちゃん、銀杏踏まないようにね。臭くなっちゃう」
自分の母親なのに「ばあちゃん」と呼ぶようになったのはいつだったか。俺に子ができたときからだから、もうずいぶん母を母と呼んでいない。
「……って、無理か。無理だな。こんだけあったら避けられないな」
足元を見て諦める。実が潰れて、一帯が銀杏ゾーンになっていた。
「あぁ、銀杏の匂いか」
母はゆっくりとイチョウの木を見上げた。びっちりと実がなっている。ということは、これからもっと落ちて、さらに臭くなるということだ。
「昔は拾ってよく食べたんだけどね」
「……そうだったね」
認知症の母の話は現実に起こったことなのかわからないことがよくあるけれど、銀杏拾いはたしかにやったなと思い出した。母と兄と俺の三人で、誰が一番多く取れるか競争しながら拾ったのだ。俺はいつも三位だったけど、それでも楽しかった記憶がある。
「ばあちゃん……母さん、見て。大きな月だ」
見上げた木の上に、まあるい月が浮かんでいた。
まだ低い位置にあり昇りきっていない月は、どこかぼんやりとしていて大きい。
「ほんとに。大きな月だねぇ」
大きい月ってなんだかちょっとだけ怖い、と思うのは俺だけだろうか。
その月に向かうかのように母が足を進めたので、俺はパッと母の手を握った。
母は一人にしておくと迷子になる。そして足腰も弱くなっているので、転ぶのも怖い。
母は少し驚いたように繋がれた手を見て、それから俺を見た。
「大きくなったねぇ」
「なにが?」
「あんたが、よ」
母は二人の息子である兄と俺、それからいとこや孫。親族の顔と名前がだんだんと一致しなくなっていき、そしてみんな「あんた」になった。俺の名前が「まさし」であることも、覚えているのかわからない。
「あんなに小さい手だったのに、大きくなった」
「そりゃあね。もう大人だからね」
いつも見上げていた母の身長をいつのまにか追い越し、目線を下げて話すようになった。
小さかったはずの俺の手は大きくなり、そして母の手は小さくなった。骨と皮になって張りのなくなった手は、強く握ると壊れてしまいそう。
それでも温かいそれは、俺が一番安心する手だったはずだ。
そういえば、いつまでもどこまでもついてくる月が怖いと思っていた時期があった。今日のように月を眺めた記憶は俺にはないけれど、もしかしたら必死に母の手を握った日があったのかもしれない。
俺は母にとって遅い子で、母が四十を越えてから生まれた。大人しかった兄とは違って、やんちゃでじっとしていられない子だったと母が言っていた。
『目を離したら何をするかわからないし、手を離したら車道に飛び出しちゃうんだもの。絶対に離れないようにって、ぎゅっと繋いでたのよ。私の歳のせいもあったけど、本当にまさしは大変だった』
俺が大変だったエピソードはいっぱいあって、何度聞かされたかわからない。
そんな覚えていない日のことを言われても困る。なにせ子供の頃の記憶なんてほとんどが曖昧だ。まるで今宵の空のよう。たしかに煌めいていた過去の星たちのはずなのに、明るい月に隠れて見えないのだ。
ふと、母の中には俺の知らない俺の話がいっぱいあるのだなと、そんなことを思った。
母が思い出せなくなってしまったら、いたはずの小さな俺はどうなるのだろう。人知れずになくなっていた星のように、この世界から消えてしまうのだろうか。
母は機嫌が良さそうにゆっくりと歩きながら、ふふと小さく笑った。
「こうやってまた手を繋いでくれるなんて、歳を取るのも悪くないね」
離れないようにとしっかり繋がれていたはずの小さな俺の手は、いつの日にか握られなくなった。繋がなくても車道に飛び出さなくなったから。
いや、俺から離れたのかもしれない。周りに見られるのが恥ずかしくなったから。そして、守ってもらう必要もなくなったから。
公園をとてもゆっくり、母のペースで一周する間に、いつの間にか日は落ち、濃紺の空に浮かぶ月は先程よりも小さくなって輝きを増していた。
母は立ち止まると、繋いだ手をもう片方の手で包み込んだ。そして、もう小さく柔らかい子供の手ではない、ごつくなって荒れている俺の手を、愛おしそうに撫でた。
「大きくなったねぇ、まさし」
今日は月が綺麗だから、散歩に来たのだ。その月の光は優しく、もったいないほどに美しいのに。
薄汚れたおじさんになった俺を見て、母は満足そうに笑った。