クリア・マン
俺は、何かに怯えている。
ティーポッドの「0.5L」のメモリまで水を注ぎ、蓋を閉め、台に固定し直す。
ごー、という音が次第に大きくなっていく。ソファに、なだれ落ちる寸前のように背中をべったりとつけ、夕食の仕上がりを待ってる彼女は、顎をめいっぱい上げ、こちらを向いた。
「ご飯まだー?」
彼女の細身な体は、俺からの視点だと丸々隠れてしまい、まるで逆さの生首のようでとても恐ろしかった。
「沸かしてる音、聞こえるだろ。」
腹を空かせ、機嫌を損ねている彼女の心持ちのように、ポッドはグツグツと煮えたぎったのち、「カチッ」という音を立てた。彼女の文句はもう聞こえてこない。
準備を終えた容器に湯を注ぎ込む。そして蓋をし、その上に割り箸を置いて、蓋が開かないよう固定する。スマートフォンを取り出し、タイマーを3分に設定する。
彼女は相変わらず何か話しかけていたようだったが、その時の俺には全く聞こえていなかった。
「この蓋の下には、何があるのだろう」
俺は呟いた。彼女には聞こえていない。
当然、この蓋の下にはお湯が浸透し、ふやけた麺があるのだろう。それでも、俺は思案せざるを得ない。俺がこの下に麺があると思えるのは、湯を入れる前に麺を見ていて、尚且つ、蓋を開けたあとこの麺を彼女が食っている様子を頭に思い描くことができているからだ。
しかし、その間。蓋を閉じてから3分間の間、この中はどうなっているか分からない。
それが怖くてたまらないのだ。
中が見えない。なんて恐ろしいことなんだ。
今、この中にいきなり俺の大嫌いなかえるが顕現して、蓋を開ける前に消失していたとしても、俺はそれに気付けない。俺はそのかえるのエキスが染み込んだ麺を彼女に食べさせることになるかもしれないのだ。わかりにくいかも知れないが要するに、中身が見えないものは、その中で何が起きていても僕たちはそれを知覚できない、と言う事がおそろしいのである。
幼い頃から、こういう場面に相対したことはあるはずなのだが、俺の抱いたこの恐怖はこれが初めてのものだった。
ふと、顔を上げる。俺は顔がストッキングで引っ張られたように引きつった。
家の中は、中身の見えないもので溢れていた。冷蔵庫、タンス、旅行用のキャリーケース、1度気がついてしまえば、家にある殆どのものが、中身の見えないものであることに気づいてしまう。俺はこんな恐ろしいものに囲まれて生きていたのか。いや、それだけでは無い。この家だってそうなのではないか。
俺たちがこの家から出て、帰ってくるまでの間、誰からのなんの関与もなく、家を出る前と同じと言えるのだろうか。
俺はその事実に戦慄した。
「世界は、中身の見えないもので溢れている。」
「ところでさーあんたのクレカの番号ってなんだっけ?」
彼女の声は依然、頭には入ってこない。俺は無言で彼女に、かえるが入っていたかもしれないカップラーメンを振る舞い、早めの眠りに落ちた。
翌朝。彼女を送り出したあと、俺も会社へ向かう準備をする。開けたままのタンスから、スーツを取り出し、夢心地の脳みそを仕事モードへと切り替えた。いつものバッグも開けたまま、鍵も開けたまま、家を出る。
中身がよく見えるように。
昨日のあの感情を抱いて以来、いつもの会社への道がまるで変わって見えた。まるで地獄の通りのように感じられたのだ。あの曲がり角の奥はここからでは見えない。あそこから何が飛び出してくるかわかったものでは無い。中身の分からないものを視界に入れることが無いよう、俺は会社までの道のりを地面だけを見て歩いて行く。この時、無理にでも空を見上げて歩いていたなら、あんなことは起こらなかったのだろうか。
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俺の名前は齋藤輝義。商社に務めるごく普通のサラリーマンだ。とはいえ、ここの支部では私はかなりいい立場に着けている。齢40にして同期とのダービーのような接戦を制し、部長の座をもぎ取った俺は、今、この甘ったれのトンチキ野郎を説教してやるため、これみよがしにリクライニングチェアにふんぞり返っているのだ。
この新入りは遅れてきた上に、ろくに理由も説明しようとせず、目すら合わさないで、下を向いてブツブツ言っているのだ。最近のやつはみんなこうなのか?それとも何か理由があるのか。
そんなことを考えないでもなかったが、俺は自分の職権を立場が下の人間に振りかざすという快感に呑まれ、その思考を脳髄から焼き払った。俺はこいつに渡す予定だった仕事の書類が入ったクリアファイルを取り出す。
「これなにか、分かるよなぁ!?」
自分も、今のこいつのような時分には、こういう上司に腹を立てたものだが、いざ自分がその立場に立ってみると、奴らの気持ちがとてもよく理解できた。『人間の生きる目的とは、権利を守り、義務を放棄することに努めることである。』私の言葉だ。目の前にいるこいつだって、いつかしら、この悔しい気持ちをスッキリ忘れて自分より弱いやつをいたぶって、時に可愛がったりするのだろう。
「これはお前に任せた仕事だよなぁ!?お前の同期がやってくれたぞぉ!?お前のせいでだ!あいつは三徹明けなのにお前の不始末のせいで昼前にぶっ倒れて救急車だよ!」
相手は少し泣きそうだ。何故だろう。何故に自分の言葉で相手が泣きそうになるというのはこんなにも心地がいいのか。実際にはその同期は救急車には乗っていない。さすがに見兼ねた私が慈悲をかけ、今日のところは帰らせたのだ。もちろん、倒れたので今日の給料は差し引くことになる。
いよいよ、大詰め、〆の段だ。クリアファイルをこいつの眼前に突きつける。こいつの顔とクリアファイルの隙間は子指一本の隙間すらなかった。
「お前が遅れずにこの仕事を済ましていれば!全てうまくいっていたと言うのに!これだよ、これ!」
さぁ、泣いてみろ。その若くてシワひとつない顔を、涙で濡らしてみせるんだ!!
まるでソシャゲでガチャを引いて、画面を手で隠し、じっくり結果を楽しむ「それ」のように、俺はゆっくりとクリアファイルを横にスライドさせる。
こいつは、恍惚の表情を浮かべていた。
「クリアファイル、、、。中身が、よく分かるなぁ…ふふ」
私は無意識にこいつをぶん殴っていた。これで少しは俺に恐れを抱くと思ったが、こいつは怯むことなくすぐさま俺に飛びつき、拳を掴み、とんでもない力で、握られた俺の指を開く。冷や汗を全身にかいて、ギチギチと音をたてながら俺のgooはparへと変えられていく。
「グーはだめだぁぁ!!中身が見えないだろうが!!」
こいつはそう言って自分のカバンを物色し、1枚の紙切れを机の上に叩きつける、勢いでふわっと置いた。
「これ、は、退職届、」
そう言って俺が顔を上げた時にはやつはもう事務所から出ていっていた。焦っていたのか、あいつのカバンは開けっ放しのままだった。退職届を、混乱した脳みそでつらつらと目で追う。若さが抜けきらない、拙い文章だったが、それを指摘できる人間はもう既にいない。それはこう締めくくられていた。
「あなたの頭は中身が見えやすくてとても落ち着いた。良いと思う。ぜひ大事にして欲しい。」
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走っている道中、俺は開けっ放しのカバンから財布を落とした。財布の方も開けてあったので、走っている勢いも手伝い、小銭から何まで全てぶちまけた。腰をかがめ、人混みを避けるようにしながら小銭を拾う。その最中、コンクリートの隙間に挟まった小銭を掻き出そうとした俺は、落ちていたガラス片で人差し指を切ってしまった。「血だ。」舐めてみると鉄の味がした。この味、悪くない。昔から思うが、体から出るものの匂いというのは、自分だけは耐えられるものだな、と、呑気なことを思う。血が流れていることは、俺の体が動いている証拠だ。とても安心出来る。
俺は、ふと考える。「血が、流れている。」
「俺はそれを、見たことがあるか。」
俺は、考えるべきでないことを考えようとしていた。これは考えてはダメだ。そう思い必死に考えを抑え込むが、指先から出る血のように、それは俺の意識下に流れ込んできた。
俺は、血が流れているところを見たことがない。体外でなく、体内をだ。内臓だって見たことがない。食ったものが本当に消化されているのかも見た事がないし、小腸の柔毛だって見た事がない。
「人、の、中身が、見えない」
街を歩いてるこいつらの体の中身が、いわゆる教科書通り、あの図通りである保証がどこにある?本当に心臓は赤いのか?そもそもそんなもの本当にあるのか?どれも、見たことがあるやつがいるのはわかっているが、それを見たのはどれも、俺じゃない。
見た目は全く同じ人間で、怪我すりゃ血も流す、だが、中身が同じかは分からないじゃないか。今、俺の小銭を踏みつけて、それを知らないフリして通り過ぎた女。この女だってそうだ。中身はまるっきり化け物かもしれないじゃないか。なぜみんなはこんな気色の悪い世界で正気でいられる?安心出来ない、安心できないじゃないか。それこそ、カップラーメンの蓋よろしく中身をかっぴらいて見てみないことには。
俺は、人を見ることすら叶わなくなっていた。小銭をとるため、かざした手の上から、小銭が透けて見えたことは、もはや正気を保つことの出来なくなった俺の、ただの見間違いだったのだろうと思う。
俺はあのまま、フラフラと公園へ向かった。
少し、落ち着きたかった。唯一恐ろしい砂場を見ないように、俺はブランコへと腰掛けた。時計の針は既に2本とも真下へ向かって指している。それは今の俺の心を表しているように、この時の俺は見えたのだ。
結局、1日無駄にしてしまった。明日から、どうやって生きていけばいいのだろうか。そんなことを考えている。すると、いきなり右太ももがくすぐったくなった。
彼女からの電話だ。出るかどうか迷ったが、でないと後々面倒なことになりそうだ。ここは一旦出ておこう。
俺はポケットからスマートフォンを取り出す。俺のアウターのポケットにはチャックが着いていたが、もちろん閉めてはいない。
憎らしいiPhoneケースを急いで外して、震えるスマホを指一本で鎮める。
「ねぇ、あたしだけど。いまいい?」
「いまは、体調が、悪い」
「そう、お大事にね、今日さ夜行っていい?話があってさ。昨日、早く寝ちゃったじゃん。」
「あぁ、寝てるかもしれないが、、鍵は開けてるから。」
「やめなよ、不用心にも程があるよ。」
「泥棒なんかよりも怖いものができたんだ。ほっといてくれ。」
「クレカとか通帳とか、盗られちゃうよ。今どこに置いてんの。」
「タンスの2段目だよ。大丈夫、奥に置いてるから。」
ふん、と鼻を鳴らした彼女は声色を変えることなく続ける。
「とにかく、今夜行くから。防犯には気をつけてよね、くれぐれもさ。」
「あぁそうする、じゃ」
いい切る前に電話は切れていた。そろそろ家へ戻ろう。彼女が帰ってきたら、会社をやめてきたことも言わねばならない。ブランコから降りる。
その時から、追い詰められていたはずの心は何故か、元気を取り戻していた。しかし、元気になったという感じでは無い。言うなら、感情が薄くなったといえばいいのだろうか。恐怖というのも、風化するものなのだろうか。分からないが、この時の俺は、朝ほどは追い詰められていなかった。
背後には、沈みかけて体を半分地平線に隠した夕日が、一日の役目を終えようとしている。
俺の影は、何故か見えない。
家に帰ろう。そう思った。
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少し遅くなったが、私は彼のアパートへ向かう。やるべきことが残っているからだ。
あいつは最近、何かおかしい。何かにとても怯えているくせに、家など、開け放しにして出ていく。カバンだって開けたまま置いている。話をつけるなら早くしなければいけない。
アパートへ着く。もう夜になっていたので辺りは閑散としたものだったが、あいつの部屋の玄関は開かれ、電灯の光が煌々と扉のすりガラスから溢れ出していた。何やら物音が聞こえる。
中に人がいるようだが、あいつかは分からない。言ってはみたが、やはり鍵は閉めなかったようだし、泥棒が入っていてもおかしくない。
「あははは!!」
笑い声が聞こえた。あいつの声だ。
どうやら、泥棒では無いらしい。私は開ききったドアノブに手をかけ、玄関を閉めつつ中へとはいる。靴を脱ぎながらつけっぱなしの玄関の電灯も消し、部屋へと向かう。
彼は、自分の腹を、包丁で裂いていた。
内蔵が、どろどろと地面へ流れ落ちる。
驚きのあまり、声が出せなかった。
「見てくれ!!これで中身が見える!!俺はちゃんと人間だ!化け物じゃない!!」
彼はそう言い、ちと臓物を
彼の体同様、流れ落ちる臓物達も、次第に姿を消していた。数秒も経つと、彼は完全にいなくなっていた。
私の姿を見たあいつは、消える寸前確かにこう言った。
「なんだ、あんたが化け物だったのか」
私は必要がない事がわかると、右手に持っている包丁を置き、タンスへと歩を進めた。その時の私の心臓は、どんな色をしていただろうか。
それが分かることは、一生ないのだ。
「カーテンコール」
「体が、どんどん透けてきてる。一体どういうことなんだ。」
言葉では焦った風を装ってはいたが、実の所、彼はあまりその事実を悲観的に捉えてはいなかった。
自分の姿が見えなくなってしまえば、他の人が彼の中身に怯えることはない。そう思っていた。
しかし、気になることがあった。彼自身は、未だ怯えていたのだ。自分の中身をまだ見ていないことに対して、彼は、心の底からの恐怖を覚えていた。
「中身を、見なければ。俺は、ちゃんと人間なんだから。確かめないと」
台所の包丁が目に入る。迷わず彼は、その木製の柄を手の内に収める。彼のその時の異常なまでの責任感は、今夜、我が家に訪れるのであろう彼女を案じる気持ちから来ていたのだろうか。
腹に力を込め、両手でつかを握り、鈍く光る鋒を自分の腹に向ける。
「俺は、ちゃんとした、、、、」
鉄製の異物が、俺の中身をかき回す。不思議と、痛みは感じなかった。刃が下に降りるにつれ、彼は満たされた気分になっていく。開いていく傷口から流れ出す臓物は、彼が人間であることを、雄弁に物語っていた。
「やった!俺は化け物なんかじゃなかったんだ!」
思わず、笑いが込み上げる。歓喜と祝福の笑いが込み上げる。俺は自分が人間であることを、自分で証明して見せたのだ。
ふと、顔をあげた。
昨日の残りのハンバーグを冷凍したものが見える。冷蔵庫のなかに入っていたはずのものだ。
彼は、冷蔵庫を開けることなく、見えるはずのない中身を見ていた。部屋を見回す。全てのものの中身が透けて見える。
彼は死にゆく寸前で、中身の見えない恐怖から解き放たれていた。
視界も、彼自身も、クリアになっていた。
どんな娯楽も、比較にならぬ。中身の見えない恐怖から己を解き放ち、自分自身の真の中身を証明して見せることこそ、至上の喜びであり、人間の生きる目的だ。と、この時彼は理解した。
玄関から、何者かが入ってくる音が聞こえる。泥棒ではあるまいかとも思ったが、あれはブーツの音だ。泥棒がブーツなど履いてこないだろうし、あれはきっと彼女だな。と、彼は思い返した。もう長く意識は持たない。早く彼女に、自分が人間であることを、見せてやらないと。
足音が変わる。居間のフローリングを踏んだ音だ。
入ってきた。
彼は最後の気力を振り絞って叫んだ。自らが人間である旨を、声高らかに、思い切り叫んだ。
彼女はさぞ喜び、安堵しているに違いなかった。
思わず綻んだであろう彼女の笑顔を見るため、彼は振り向いた。
その夜は、月がよく映えたという。
その月の光が作り出した影に呑まれた、微かな悲鳴の出元を知るものは、もういないのである。