営業先の社長が高校時代の同級生で、「1ヶ月間彼氏になってくれたら取引してあげる」と言われた
営業マンというのは、非常に憂鬱な役割だと思う。
学生時代は先生に「結果よりも、その結果に向けてどれだけ努力をしたかという過程の方が大切です」と口酸っぱく言われたけど、それはあくまで学生時代の話であって、社会人になるとその価値観は180度変わってしまう。
結果第一主義が世の常であって、日中駆け回って一件も成約が取れない営業マンよりも、たとえサボっていても数件成約を取ってきた営業マンの方が評価される。
それらの評価は給料や昇進という形ではっきり表れてくるのだから、いやはや、なんとも世知辛い世の中なことだ。
俺・夏河清士は評価されない方の営業マンであり、今日もこうして成約を取るべく営業先の企業を訪れていた。
「おはようございます。私、花菱不動産の夏河と申します。社長様はいらっしゃいますか?」
「花菱不動産の、夏河様ですね。本日はお約束でございますか?」
「はい。13時にお伺いするとお伝えしていた筈ですが」
現時刻は午後の12時55分。まだ13時にはなっていないが、社会人として5分前行動は常識だ。
受付のお姉さんは「かしこまりました」と答えると、内線で社長に連絡し始めた。
「社長、お忙しいところすみません。花菱不動産の夏河様がいらっしゃっております。……はい、かしこまりました」
通話が終了し、電話を切ると、受付のお姉さんは近くのエレベーターを指す。
「社長室は9階になります。あちらのエレベーターをお使い下さい」
「わかりました。ありがとうございます」
受付のお姉さんにお礼を述べてから、俺はエレベーターに乗り込む。
9階に到着し、エレベーターの扉が開く。社長室は目の前にあった。
トントントン。社長室の扉をノックすると、すぐに「どうぞ」と返ってくる。
「失礼します」
社長室の中に入り、深々とお辞儀をして。そして顔を上げた俺は、心底驚いた。
なぜなら――社長というのが、俺の高校時代の同級生だったからだ。
「三ノ輪……だよな?」
「えぇ、そうよ。久し振りね、夏河くん」
約10年ぶりの再会を喜ぶように、社長……三ノ輪は俺に手を振る。
成長し大人の女性の魅力を兼ね備えた三ノ輪だが、それでもどこかあの頃の面影があるように思えた。
俺と三ノ輪静枝の関係は、単なる同級生と呼ぶにはいささか距離が近すぎた。
彼女は俺の元カノというわけではなく、部活が一緒だったり自宅が近所だったわけでもない。
ただ高校3年間の内何度も席が隣になるという偶然に見舞われて、その為自然と会話する機会も多かったのだ。
しかし別段友達というわけでもないので、高校卒業後は一度も会っていない。
連絡先も交換していなかった為、いつの間にか疎遠になっていた。
そんな三ノ輪とこうして再会するなんて……なんていうか、感慨深いものがある。
「高校卒業以来だよな? 元気にしていたか?」
「お陰様で。夏河くんは、あの頃と全然変わっていないわね」
「お前が変わりすぎなんだよ。こんなにも綺麗になって、その上社長とか、今年一番の驚きだわ。……っと、いくら元同級生でも、社長相手にタメ口はマズいよな」
「別に良いわよ。今更仰々しくされる方が気持ち悪いし」
それは決して気遣いではなく、三ノ輪の本心なのだろう。
ならばということで、俺はこのままの口調で会話を進めることにした。
「10年ぶりに会ったわけだし、思い出話に花を咲かせたいのは山々なんだけど、時間も限られている。そろそろ本題に移りたいんだが、良いか?」
「そうね。私もこの後予定が詰まっているし、昔話はまたの機会に。……で、今日はどんな用件で尋ねてきたの?」
さて、ここからが正念場だ。俺は背筋をピンと伸ばす。
「三ノ輪社長。どうか我が社と取引をしてくれませんか?」
「別に良いわよ」
「そうですよね。なのでこれから、我が社と取引を行なうメリットを……って、え? 取引してくれるの?」
予想外の回答に、俺は思わず聞き返してしまった。まさか何の交渉もせず、二つ返事で取引を了承してくれるとは思ってもいなかった。
「花菱不動産との取引は、我が社にとっても有益なものになると思います。なので取引を始めること自体はやぶさかではないのだけれど……一つだけ条件があるわ」
「まぁ、普通そうなるよな。言ってみてくれ」
「夏河くん……あなた、1か月だけ私の彼氏になりなさい」
「……は?」
条件というから、てっきり上司に相談しないとならないような内容だと思って身構えていたのに……1か月間彼氏になれって、どういうこと?
「実は1か月後に、友人の結婚式があるんだけど、つい見栄を張って「彼氏と一緒に出席する」って言っちゃって」
「何でそんな嘘をついたんだよ?」
「だってだって! あの子、「静枝って仕事運はあるくせに、男運はないんだよねー。契約は沢山取れても男は一人もゲットした試しがないし」とか言ってバカにするのよ? 頭にくるのも当然じゃない!」
「確かにそれはムカつくけど……。でも、どうして俺なんだ?」
「夏河くんなら、どうせ彼女いないだろうし」
「おい」
実際いないから、あまり強く抗議は出来なかった。
「それにこうして再会出来たのは、きっと偶然じゃなくて運命よ。だからね、お願い。1か月だけで良いから、私の彼氏になって」
どうせ俺には彼女もいなければ、好きな人もいない。
三ノ輪の条件を受け入れれば、1か月だけだが彼女持ちになれるし、その上営業成績だって上がる。断る理由など、どこにもなかった。
「わかった。1ヶ月間、お前の彼氏になってやる」
「オーケー。契約成立ね」
こうして俺はこの日、契約と恋人を獲得した。
◇
週末。
一週間の疲れを取るべく惰眠を貪ろうとした俺だったが、その予定は一本の電話によって変更を余儀なくされる。
『これから私の家に来てくれないかしら、マイダーリン?』
交際数日で、いきなりお家デートかよ。
彼氏になると約束した以上三ノ輪のお誘いを拒むわけにもいかず、俺は急いで部屋着から外出着に着替えて、彼女の家に向かった。
三ノ輪の自宅は、タワマンの最上階。流石は今を輝く女社長。家賃5万円のワンルーム住まいの俺とは大違いだ。
部屋に通されると、少しばかり露出の多めな服を着た三ノ輪が俺を出迎えてくれた。
「いらっしゃい。どうぞ、遠慮せずにくつろいで」
遠慮するなと言われても、女性の部屋に上がるのなんて初めてのことだし、緊張せずにはいられない。あっ、なんか良い匂いする。
しかし、どうして三ノ輪は俺を自宅に呼んだのだろうか? タワマンに来るまでのは道中ずっと考えていたが、皆目見当もつかなかった。
「いえね、設定を考えておこうかと思って、今日は夏河くんを呼んだの」
「設定?」
「そう。1ヶ月前に付き合い始めたなんて言ったら、急拵えの彼氏だって友達にバレるでしょ? だから半年前から付き合っていることにしようと思うんだけど、どうかしら?」
「成る程な。だから口裏を合わせる為の「設定」か。……出会いはどうする? 運命的な再会の方が良いよな?」
「営業に来たセールスマンが偶然元同級生だったっていうのも、充分運命的よ。嘘だらけというのも良くないし、出会い方自体は事実を語りましょう。ただ出会った時期を、半年前にするだけで」
それから俺たちは二人の出会いだけでなく、様々な設定を考えた。
これまでデートで行った場所とか、俺から三ノ輪に何をプレゼントをしたのかとか。あとは……
「初めてのキスは、いつどこでしたことにする?」
「キス、ね……」
それは難問だな。なにせ俺は、まだファーストキスを経験していない。
いつどこで、どんなシチュエーションでキスをするのが最適なのか? ロマンチックである一方キモすぎないキスシーンを考えるのは、案外難しかった。
「いっそキスについても、事実を織り交ぜてみたらどうだ?」
「というと?」
「三ノ輪のファーストキスを元にするんだ。その相手を俺に置き換えて、皆には説明するんだ」
「わっ、私のファーストキスね。うっ、うん。良いと思うわよ」
途端に歯切れが悪くなる三ノ輪。……あー、はい、そういうことですね。わかりましたー。
どうやら三ノ輪もまだキスを経験したことがないようだ。
「仕方ないじゃない! 私は社長だから仕事が忙しくて、恋愛なんてする暇なかったんだから!」
「別に悪いとは言ってないだろ。俺のファーストキスまだだし。ただ……二人ともキスをしたことがないっていうのは、ちょっとな」
その手の質問をされた時、絶対にどこかでボロが出る気がする。
キスの話題が出た時は、「恥ずかしいので、内緒です」と答えて乗り切ろうか。俺がそう考えていると、三ノ輪が突然こんな提案をしてきた。
「……ねぇ。もういっそ、今ここでキスしちゃわない?」
「……はぁ?」
今ここでキス? この女は何を言い始めたんだ?
いくら友達に非リア充であることを知られたくないからって、体を張りすぎだろ?
「私だって、誰とでもキスするわけじゃないよ。夏河くんは昔から好感の持てる男子だったし、今は彼氏なわけだし、一回キスするくらい良いかなーって」
「そう言ってもらえて光栄だけど、偽物の彼氏と、それもファーストキスをするなんて、あとで絶対後悔するぞ?」
「後悔することはないと思う。それとも……夏河くんは、私とキスするのが嫌?」
夏河みたいな美女とのキスが、嫌なわけないだろうに。
こういう時は、男がリードしないとな。
俺は三ノ輪の両肩を掴む。
三ノ輪が目を瞑り、唇を突き出してくる。潤った彼女の唇に、俺はゆっくりと自身唇を近付けていった。
この部屋には、誰もいない。誰も見ていない。
だから恥ずかしがることなんて、何もない筈さ。
やがて俺と三ノ輪の唇は重なり……それとほとんど同時に離れた。
はい。彼女いない歴=年齢なので、見事にヘタレました。
「……意気地なし」
「ヘタレで悪かったな。肝の座った男なら、今頃トップセールスマンだっての」
僅かな時間とはいえ、キスはキスだ。目的は達成している。
初めてのキスは、三ノ輪の部屋で。ほんの一瞬唇を触れさせただけだけど、その一瞬が数分にも思えるくらい幸せなひとときでした。……うん、この設定でいこう。
これならば完全に捏造というわけじゃないし、下手に怪しまれる心配もないだろう。
え? ファーストキスの味? 緊張しすぎて、そんなの覚えてないわ。
◇
結婚式当日がやって来た。
三ノ輪の同伴者として式に出席した俺は、彼女の恋人として周囲に紹介された。
案の定馴れ初めや初めてのキスについて尋ねられたので、事前に準備していた設定を答える。
急にこんな質問をされても、あたふたするだけで答えられなかっただろう。
結婚式が滞りなく終わると、今度は披露宴に移る。
出された酒や料理に舌鼓を打っていると、花嫁が俺(厳密には三ノ輪)に近づいて来た。
「今日は来てくれてありがとう、静枝」
「こちらこそ、お誘いありがとう。そして、おめでとう」
三ノ輪と花嫁は大学時代のサークル仲間のようで、当時の思い出話で盛り上がっていた。
話がひと段落したところで、今度は俺の存在へと話題が変わる。
「しかし本当に静枝に彼氏がいたなんてね。顔は……悪くないっていうところかしら」
「そう? 私はカッコ良いと思うけど?」
「いや、それはないって。静枝の目、節穴すぎ〜」
本人は揶揄っているつもりみたいだけど、俺は結構傷ついていた。
三ノ輪が視線で、「ごめんね」と謝罪してくる。気にするな、お前が悪いわけじゃない。
三ノ輪に免じて、花嫁の発言は水に流すことにした。
しかし……俺たちが何も言い返さないと、それを良いことに花嫁の侮辱はどんどんエスカレートしていく。
「でも仕事一筋の静枝に男なんて、絶対出来ないと思ってた。……あっ、もしかして、静枝のお金目当てで付き合っているだけなんじゃないの?」
この女、本当に失礼な奴だな。今日の主役だからって、調子に乗りすぎてないか?
ウェディングケーキをパイ投げの如く顔面に叩きつけてやろうか? お色直しが出来ないくらい悲惨な顔面にしてやろうか?
だけど俺は大人だ。バカな行為に及んで結婚式をぶち壊し、周囲の顰蹙を買うような真似はしない。
そんなことをすれば、俺だけでなく三ノ輪の株も下がってしまう。
故に俺は、満面の笑みを貼り付けて花嫁に答えた。
「お金なんかなくたって、俺は三ノ輪のことが好きだぞ?」
「え?」と漏らしたのは、他ならぬ三ノ輪だった。
俺とて営業マンの端くれだ。交渉に適したタイミングなら見分けられる。
そして……今こそ絶好のチャンスだ。
俺は三ノ輪の方を向く。
「席替えでお前の隣になる度に、嬉しすぎて心臓が止まっちまうかと思った。もし三ノ輪が受け入れてくれるというのなら、今日だけじゃなく、明日も明後日も、これからもずっとお前の彼氏でいたい。……ダメかな?」
「別に、良いわよ。ただし、条件があるわ。……この先一生私のことだけを見続けなさい」
そんなの条件にするまでもない。
営業マンとしてはまだまだな俺だけど、一人の男としては、大成功を収めたのだった。