東京都北区上中里(かみなかざと)の上空に古代竜(エンシェントドラゴン)は飛ばない
目が覚めると見た事の無い様な澄んだ青空が広がっていた。
周囲から聞こえるのはさざなみだけ。
外で寝ていた記憶は全く無いのだけれど、まるで書き割りみたいな青さにしばらく放心していると、視界を横切る飛行機みたいに古代竜が通過していった。
青い空と黒い竜のコントラストに、思わずきれいだなあとつぶやいてしまう。
視界を通り過ぎた後、時間差で押し寄せてきた生暖かい風圧が意識を覚醒させる。
それによって周り始めた頭が、これまで気にしていなかった疑問を運んできた。
……おかしいな。
東京都北区上中里かみなかざとの上空に古代竜なんて飛ばない筈だ。
あと周囲に海も無い筈だ。
淀んでいた意識に、視覚聴覚触覚からの情報が隙間風の様に入って来ている。
ちょっと情報の整理が必要だ。
頭が上手く回ってないのは目が覚めてから横になったままのせいかもしれない。
更に覚醒するうち、後頭部の触覚がまくらではありえないやわらかさを伝えている事に気付く。
なんだろうと意識を上の方に向けたら、視界に何かが見えた。
頭を上げて更に視界を動かすと、女の子がこちらを向いて目をつぶっていた。
それで気づいたが僕は膝枕されていた。
道理で熟睡出来ていた訳だ。
彼女はその体勢のまま僕と同様に寝ていたらしい。
その距離の近さと無防備さ。
顔を観察すると、頬や腕に幾何学的な紋様が描かれていた。
肌の白さとあどけなさと紋様のコントラストに思わず見とれてしまう。
というか見ていていいのだろうか。
と考えてい「うわっ」ると、上から垂れてきたよだれが顔に当たり、思わず声が出てしまった。
ぴくり、と女の子は体を反応させ、ゆっくりと目を開いた。
この距離なのでどうしようもなく目が合ってしまう。
どうしようと思って数秒見つめあっていると、女の子の方が状況を認識したのか、にこっと笑った。
「ごめん」
あやまりながら、でも視線を外さずゆっくりと起き上がりながらよだれを拭った。
女の子の方はさして笑顔を崩す事も無く、僕が立ち上がるのを目で追っていた。
幼いながらも端正な顔立ちの子が自分を追従している視線を自分から外すのは理由の説明出来ない抵抗感がある。
でも今はそれを上回る重要な気がかりがあったので思い切って視線を外した。
そう、ここは何処なんだ。
前方に見えるのは見渡す限りの波打ち際。
埼玉に帰る人が通過するだけで、夕暮れ時には誰も降りない駅しか無い上中里には波打ち際なんて無い。
急激な地殻変動でも無い限りこんな風景は見られないだろう。
しかも何故か空間のある場所からは赤い光の線が伸びている。
VRのヘッドセットを被った時に出てくる壁の警告表示みたいだった。
こんな物どこかから赤いレーザーサイトで照らしでもしない限り現実には見られないだろう。
その壁のような赤い壁は、左右を見渡す限り波打ち際に沿って続いている。
波までなんだか赤い。赤潮なのかな。
そばに立っている分にはなんの影響も感じられないが、触れたりするべきではないだろう意識を持つには十分な赤さだった。
波打ち際の砂浜と時折横歩きしている蟹だけがこれまで知っている知識と同じ物だった。
後ろを向く。
砂浜の後ろが防風林なのは珍しい事ではないと思うけど、そこに生い茂っているのは見たことも無い形状の植物ばかりだった。
図鑑を引いても画像検索かけても出てこなさそうに見える。
こういう時どうしたらいいんだろうとひとしきり考えを巡らせた後、当然の、でもこの状況で混乱していたがゆえに出てこなかった手段に出る為に更に振り返る。
女の子が先程の笑顔のままこちらを見ていた。
もっと簡単で確実な方法。つまりこの子に聞けばいいんだ。
「こんにちわ。僕の名前は翔。読みはカケルなんだけど、あだなでショウって言われるんだ。君の名前は?」
「アネミ!」
両手を広げて元気よく答えてくれた。
「アネミちゃんか。よろしくね。それで……ここはどこ? 僕はさっきまで上中里に居た筈なんだけど……」
「ゆはいまゃしつうねたしさ! くんてに! れこまにちき」
「???」
……何を言っているのか分からない。
知名度の低さでは1,2位を争うとはいえ、これでもいちおう都内の上中里にこんな方言は無い筈だ。
「僕の言っている事分かる?」
「ししんわし! しなたはたうがまあかたょ!」
……何を言っているのか分からない。
折角聞ける相手が居たのに、肝心のコミュニケーションが取れないので現状の確認しようがない。
腕を組んで首を傾げるしかなくなってしまったが、それは相手の方も同じだったようで、同じ角度で首を傾げていた。
「うだそ!」
しかしふと思いついた様に手を打って、彼女はゆっくりと立ち上がった。
それまで座っていたから気づかなかったが、背は僕より頭ひとつ大きかった。
顔つきは僕より幼いぐらいに見えるが実は年上なんだろうか。
こんな状況でつい益体もない事を考えてしまうのは多分上中里どころか尾久まで足を伸ばしても見つけられない様な容姿に気を取られているからかもしれない。
屈託の無い笑顔を崩さないまま、くいくいと彼女は手招きした。
? 近づけという事なのか?
このままでは埒が明かないのも事実なので、一歩近づく。
さっきまで近くに居過ぎたせいで気づかなかったが、普段嗅がない様なかすかな匂いがした。
何かの香料なんだろうかと考えていると、彼女はするりと手を伸ばし僕の首筋に触れた。
「!」
手の冷たさにちょっとびっくりして居ると、手を引き寄せておでこに付ける。
「?!」
更に驚いてなにをどうすればどうしたらと思っていると、彼女がまた分からない言葉を続けた。
「せれいいよへてだたこばとをととえのたえま」
「???」
「とせこへばよまえとたいえれてをただいのと」
言葉が言い終わると同時に、触れている額からばちりと弾ける音がした。
寒い時にドアノブを触った時の静電気みたいだった。
その反発に合わせ、抑えていた彼女の手が離れる。
薄れていく匂いを少し名残惜しんでいると、一歩離れて彼女は改めて口を開いた。
「これらなかわりますかうゆしゃさま」
「……! 分かる。まだちょっとだけ変だけど何を言いたいかは分かる」
さっきおでこをくっつけて何かした時の作用なのだろうか。
今度は向うもこちらの言葉は理解してくれたようで、ただでさえ屈託の無かった笑顔はぱあっと明るくなった。
「よたっか。さっのきはいかいせのこばとをたいがにりかいでるきようにするめたのほうまなんすで」
……傷だらけのCDを頑張って読むプレイヤーってこんな気持ちなんだろうか。
言われた内容を脳内でエラー訂正しながら咀嚼していくとひとつ疑問が氷解した。
そうだったのか……異国の言葉だから通じなかったんだ。
それで彼女が僕に魔法みたいな物をかけてくれて、片言ながらも言葉が通じるようになったと。
「なるほど」
とひとりごちた後、前より疑問が増えている事が分かった。
「ちょっと待って」
「なでんすか?」
「異国って事は……ここは上中里じゃない?」
「かかみなざとってどでこす?」
そうか。都内でも通用しない地名が異国で通用する訳無いか。改めて言い直す。
「ここは日本じゃないの?」
「ほにんってどすこで?」
「ええ……じゃあ地球のどこなんだ?」
「ちうきゅってどこすで?」
「地球じゃない異国ってどういう事だ……いや待て」
「ここは上中里でも日本でも無い異国なんだよね」
「ここはかかみざななとでもほにんでもないいかいせです」
「いかいせ……いせかい……異世界? 異国じゃなくて異世界?」
「いは」
「今僕は地球上の知らない場所にいるんじゃなくて、そもそも別の世界に居るという事なの?」
「うでそす」
ぶんぶんと首を縦に振られる。
思い違いを正していき、信じられない結論が出てきて頭が混乱する。
「だって僕は目が覚める前に上中里の駅を出て……どうなったんだけっけ?」
自然に出る筈の過去の記憶がなにかの衝撃に引っかかって出てこない。
そう、なにか衝撃があった筈だ。
強い衝撃だ。
そこを頼りに頭をぶんぶんと振ると、棚の上の方にあって見えなかった記憶がぽとりと落ちてきた。
「そうだ! 駅を出て角を曲がろうとしたら飛び出して来たトラックに跳ねられて、その後目が覚めてたらここに居たんだ」
「だいぶじょうすでか?」
頭を抱えていると、初めて笑顔以外の顔をして覗き込まれた。
「肉体的には大丈夫なんだけど精神的には大丈夫じゃないかもしれない」
「??」
不思議そうな彼女を横目に、改めて周囲を見渡す。
見知らぬ土地の赤い海と見た事の無い植物と見た事も無い格好の女の子。
「?」
改めて目が合うと不思議そうな顔をした後改めてにっこり微笑まれた。
よく見たらなんか耳もちょっと普通より長い。
こんな子は尾久どころか地続きの異世界である渋谷にだってハロウィンでも無い限り居ないだろう。
とりあえず確証は無いものの状況証拠だけは異世界だ。
疑問は残るが受け入れるしかなさそうだ。
しかしなんで来られたんだ?
トラックに跳ねられたぐらいで異世界に来てしまうのであれば、異世界なんで今頃地球人でごった返している筈だ。
「僕がなんでここに来たか思い当たる節は無いかな?」
駄目元で聞いてみる。
分からないなら分からないなりに、見当違いの返答でもそこから得られる情報がある筈だ。
「あしたがよまびした」
明日が呼ぶって詩的な表現だがどういう意味だ?
……いやあたしがよびましたか。
「え、君が」
「いは」
「僕をこのせかいに」
「んう」
「呼んだ?」
「そでうす」
「いったいなんの為に?」
「このいせかをくすってもうらめたです」
「この世界を救って貰う為?」
言葉が通じた事が嬉しかったのか、首を縦に何度も上げ下げされた。
「今この世界が何らかの危機にあるって事?」
「とてもあなぶいです」
「危ないっていっても僕はどこにでもいるごく普通の中学2年生なんだけど」
「あたなにならでまきす」
「僕になら出来るって言われても誰かに自慢できるような能力は何も無いよ。せいぜい上中里の地形が全部頭に入ってるぐらいだよ。だいたい危機というのは具体的にどんな事なの?」
「いせかがちさいくなってなあがあいててきがきます」
世界が小さくなって穴が空いて敵が来ますって言っているんだろうか。
言いたい事は分かったがどういう意味だろうと赤い海のある空を眺めていると、そこに穴が空いて敵が出て来た。