卒業
「暑いなぁ今日も。」
ある夏の日、私はとある家の前まで来ていた。
こじんまりとした2階建ての洋風の家。
表札には《HIRANO》と掲げられている。
ここに来るのはもう何度目だろうか。
高校教師の私、高木みのりは、
今年から初めてクラスの担任を受け持つことになった。
しかも3年生。大事な時期だ。
1ヶ月半ほど前、私のクラスに転校生がやってきた。
名前は平野佑樹くん。
端正な顔立ちで、少し控えめな性格ながらも、
どこか芯を感じさせる彼。
しかし最初の1週間だけ登校してきたあとは、欠席が続いている。
母親の話によると、平野くんは人付き合いが苦手で、
なかなかクラスに馴染めず転校を繰り返しているらしい。
ご両親と1度ゆっくり話をしたいところだが、
どちらも仕事で家を空けている時間が多いそうだ。
平野くんの力になりたい。
その一心で、時間を見つけては彼の家を訪ねていた。
と言っても、ほぼ毎日来ている。
学校から平野くんの家までは、電車を乗り継いで片道1時間弱。
他の仕事も膨大にあるし、正直大変だけど…。
「大事な生徒のために何かしてあげたい。」
額から流れる汗をハンカチで拭ったあと、インターホンを鳴らした。
そして2階の部屋の窓を見上げる。
まだ外は明るいのに閉められたカーテンが揺れるのが見えた。
その隙間から一瞬だけ見える人影。
この光景、いつもと同じだ。
程なくして玄関の扉が開いた。
「高木先生…。」
「こんにちは。平野くん。」
最初はこうして顔を合わせてくれなかった平野くんだが、
ここ最近は玄関まで出てきてくれるようになった。
「今日も顔が見れてよかった。渡したいものがあるの。」
私は鞄からA4サイズの封筒を取り出し、平野くんに手渡した。
「授業のプリントと、夏休みの宿題。」
「…どうも。」
「いよいよ明日から夏休みだね!夏休みの間もここに来るから。」
「それじゃあね。」と続けようとしたところで、
平野くんが先に口を開いた。
「中、入ってください。」
「え?」
「暑いでしょ?冷たい飲み物出します。」
それだけ言うと、平野くんは家の奥に入って行ってしまった。
家の中に招き入れられるのは初めてのことで、
私の鼓動は少しだけ高鳴った。
(心を開いてくれたのかな?)
エアコンの効いたリビングのソファに通され、
平野くんが冷たいお茶を出してくれた。
「ありがとう。本当に暑いね、今日は。」
まだクールダウンしきらない肌から滲み出る汗を
ハンカチで拭いながら言うと、
私から2人分くらいの間隔を空けて、平野くんが腰掛けた。
「夏休みの間も来るって言いましたけど…。毎日来るんですか?」
「来るよ。」
「高校教師ってそんなに暇なんですか?」
「そんなわけないでしょ。
夏休みだからって休みなわけじゃないの。
補習とか夏季講習とかで結構忙しいんだよ?」
「じゃあわざわざ来なくてもいいのに…。」
「そういうわけにはいかないの。
私は平野くんの顔が見たいの。」
真剣に言うと、平野くんは少し驚いた顔をした。
「俺の?」
「そうだよ。」
私はまっすぐ平野くんの目を見た。
照れたように少し目を伏せた彼は、何か考え込むような表情を見せる。
「先生…。」
「ん?」
「いえ…。なんでもないです。」
その先を聞くことはできなかった。
彼の心の扉はまだ完全には開かれていないようだ。
でもこうして家に招き入れてくれたし、一歩前進かな。
平野くんの家を出たあと、学校に戻って仕事を片付け、
帰路についた頃には21時を回っていた。
こんな時間から料理をする気には到底なれず、
今日も晩ご飯はコンビニのお弁当。
でも、今日は平野くんに少し近づけた気がして、
いつものお弁当も少しだけ美味しく感じた。
次の日の午後、私はまた平野くんの家にやって来ていた。
リビングに通され、冷たいお茶を出してくれる。
「ありがとう。」
ソファに座る私たちの間隔は、今日もやっぱり2人分。
これって、心の距離なのかな。
そう考えると、なんだか少し寂しくなる。
「家にいることが多いの?」
私はグラスの氷を揺らしながら尋ねた。
「はい…。」
「家では何してるの?」
「え…えっと、ゲームしたり、寝たり…。」
「そうなんだ。」
若干歯切れの悪い口調の平野くんだが、あまり気にしないことにした。
長居するのも迷惑だし、帰ろうかと思ったとき。
「あの…。高木先生は、英語の担当ですよね?」
「そうだよ。」
「わからない問題があるんです。教えてくれませんか?」
「え?」
「教科書持ってきます!」
興奮気味に言った平野くんは、2階へ駆け上がって行った。
しばらくして戻ってきた彼の手には
英語の教科書と筆記用具が握られていた。
教科書にはいくつも付箋が貼られている。
「ここの問題なんですけど、上手く訳せなくて。」
そう言って付箋の付いたページを開いて見せた。
大事な箇所にはマーカーが引かれている。
前の学校でもほとんど授業には出ていないって聞いてたのに。
まさか学校を休んでいる間、自分1人で勉強を…?
私は驚いてしまった。
「先生?」
「あ、ごめん。ここの問題だよね。ここはね…。」
平野くんは私の解説を頷きながら真剣に聞いている。
その後も他の付箋のページの問題を解いていき、
気づくと2時間ほど経っていた。
「そろそろ終わろうか。」
「でもまだ、授業に全然追いつけてないから。
他の教科もわからないところたくさんあるし。」
「また明日続きをやろう?」
「いいんですか?」
「うん。」
私が笑って言うと、平野くんも笑顔を見せた。
2人分ほどあった私たちの間隔は、いつの間にか埋まっていた。
私は次の日も平野くんの家に来ていた。
でも昨日とは少し違う。
リビングのテーブルには冷たいお茶に加えて、
英語の教科書と筆記用具が用意されていた。
「これ、先生が作ったんですか?」
平野くんは、私が渡した何枚ものプリントを見ながら尋ねた。
「そうだよ。昨日作ったの。
重要点をまとめてみたんだ。手書きで申し訳ないけど。」
「すごくわかりやすいです!」
平野くんが初めて見せてくれた、満面の笑み。
うれしくて、胸が高鳴る。
「じゃあ、昨日の続き始めようか。」
こうして私たちは夏休みの間、
毎日のように2人で勉強をした。
休憩時間には雑談をしたりもした。
行きたい大学があることも打ち明けてくれた。
私の担当教科である英語以外の教科を教えるのは大変だった。
それでも私は必死で教科書を読み込み、
平野くんに教えられるよう、自ら勉強をした。
その甲斐あってか、
日に日に彼の心の扉が開かれていくのを感じられて、私はとても幸せだった。
9月1日がやってきた。
夏休みが終わり、学校がまた生徒たちの声で賑わう。
始業式のあと準備室で授業の準備をしていると、
部屋の扉がノックされた。
「どうぞ。」
私が声を掛けると扉が開かれ、そこにいたのは…。
「平野くん!」
制服姿の平野くんが立っていた。
「おはよう、先生。」
平野くんは微笑んで言った。
久しぶりに学校で見る平野くんの姿。
ものすごくうれしくて、私は彼に駆け寄った。
「おはよう!よく来たね。」
「高木先生のおかげだよ。
夏休みの間毎日勉強を教えてくれて、だいぶ自信がついたし。
それに…先生の顔が見たかったから。」
思いがけない一言に、胸が震えるのを感じる。
どうしてだろう。
ときめいてしまう自分がいる。
「私の?」
「そうだよ。」
あれ?このやり取り、なんだかデジャヴ?
私は頭の中の過去の引き出しを漁ってみた。
「先生が前、俺に言ってくれたよね。
“俺の顔が見たい”って。だから毎日家まで来るんだって。」
そのとき、予鈴が1限目の始まりを予告した。
「教室に行きます。あ、もし時間あったら放課後…。」
「うん。一緒に勉強しよう。」
私が言うと、平野くんはうれしそうに教室へ向かって行った。
放課後、私と平野くんは誰もいない教室で勉強をしていた。
「どうだった?久しぶりの学校。」
休憩を取りながら私は尋ねてみた。
窓から見える空は綺麗なオレンジ色。
夕陽に染まる教室は、なぜかノスタルジーを感じさせる。
「楽しかったよ。意外と。」
「本当?」
「やっぱり人付き合いは苦手だけど、でも高木先生に会えたから。
英語の授業も受けられたし。
本当に、先生のおかげだって思う。」
「平野くんが自分でがんばったんだよ。」
「先生のおかげでがんばれたんだよ。」
「私はただ、平野くんの背中を少し押しただけ。」
「それが俺の大きな力になったんだ。」
平野くんはまっすぐ私を見つめる。
その顔がすごく真剣で、私はつい目を逸らしてしまった。
それは、数日前に見た夢を思い出してしまったから。
平野くんに、キスをされる夢。
生徒とキスするなんて、
どうしてそんな夢を見てしまったんだろう。
私はその記憶を振り払った。
「再開しようか、勉強。」
「…うん。」
次の日もその次の日も、
平野くんは毎日学校に来るようになった。
放課後は毎日一緒に勉強をした。
以前から思っていたけど、彼の飲み込みは早くて、
残暑が終わる頃には授業に追いつきそうだった。
そして秋風が涼しい日のこと。
「よし、これでやっと授業に追いついたね。お疲れ様!
今日はね、がんばったご褒美にお菓子を作ってきました!」
「えっ。先生の手作り?」
「そうだよ。クッキーどうぞ。お口に合うと良いのですが。」
平野くんはうれしそうにクッキーを手に取り、口に運んだ。
「おいしい!」
「よかった。」
「先生…。」
「なぁに?」
「5教科全て、授業に追いついたね。」
「この短期間ですごいよ。がんばったね。」
「もう、先生との勉強は終わり?」
平野くんは手に食べかけのクッキーを持ったまま、
悲しそうな顔で私に尋ねた。
「ひとまずは終わりかな。
でもわからないところがあったら、いつでもおいで。」
平野くんが俯く。
「俺は…。」
クッキーを持つ平野くんの手が、微かに震えている。
「俺は先生と勉強したくて学校に来てるんだよ。
先生の顔が見たくて学校に来てるんだ!」
突然大きな声で言われて、私の身体は硬直してしまった。
何か言わなくちゃ。でも言葉が見つからない。
しばしの沈黙のあと。
平野くんの顔が至近距離に来たと思ったのも束の間。
唇に温かいものが触れてすぐに離れた。
何が起きているのか、すぐには理解できなかったが、
やがて以前の夢の記憶が思い起こされた。
「正夢…。」
「え?」
「夢見たの。平野くんにキスされる夢…。」
私は小さく言った。
「夢じゃないよ。現実だよ。
俺の家で一緒に勉強してたとき、
先生が寝ちゃったからその唇にキスした。
さっきので、2回目のキスだよ。」
私の鼓動は割れそうなほどにドクドクと高鳴っていた。
平野くんとの様々な記憶が思い起こされる。
徐々に近づいていく、彼との距離。
私は、彼の開けてはいけない扉まで開けてしまったのだろうか。
「3回目してもいい?」
平野くんの顔が再び近づく。
夕陽のオレンジと影のコントラストのせいか、
彼の表情がいやに色っぽく見えた。
「だめ!!」
私は思わず平野くんを突き飛ばしてしまった。
彼は目を丸くしている。
「…終わり。勉強終わり。気をつけて帰ってね。」
私は手早く机の上を片付け、教室を後にした。
平野くんが私を呼び止めたけど、無視をした。
その日を境に、私たちはほとんど会話をしなくなった。
教室で顔を合わせるたび、廊下ですれ違うたび、
平野くんは何か言いたげな表情を見せるが、
気づかない振りをした。
そして、卒業の日が刻々と近づいていった。
卒業式前日の放課後。
結局この日まで、平野くんとはろくに会話をしていない。
明日は卒業式で、これから大学入試も控えているのに。
でも、どうやって接したらいいかわからない。
このままじゃダメだってことはわかってる。
私自身、このまま終わりたくない。
それは、平野くんが大事な生徒だからというだけではなく、
きっと私が平野くんのことを…。
3月1日。
卒業式が終わり、教室には私1人が残っていた。
生徒たちの座っていた席をただ眺めている。
初めて自身が送り出した生徒たち。
うれしいけど寂しい、そんな複雑な気持ちが渦巻いている。
誰もいない静かな教室の真ん中で目を閉じると映るのは、
平野くんと一緒に勉強をした日々。
そして、キスをされたあの日のことばかり。
“卒業おめでとう”
ただその一言しか言えなかった。
きっとそれでよかったのだと思う。
あくまで私たちは教師と生徒なのだから。
なのに。それなのに。
私の目からは涙が溢れた。
「高木先生。」
突然呼ばれて振り向いた先には、平野くんがいた。
右手には卒業証書が握られている。
左手は身体の後ろに隠れていて見えない。
「平野くん…。」
私は慌てて手で涙を拭った。
「先生に、渡したいものがあって。」
そう言って後ろに隠していた左手が差し出されると、
視界に虹色が飛び込んできた。
色とりどりの花束だった。
「受け取ってくれる?」
いつになく真剣な顔で平野くんが言う。
頬には微かに涙の跡が見えた。
私はゆっくりと手を伸ばし、花束を受け取った。
「綺麗…。」
「先生…まだ怒ってる?」
「え?」
「キスしたこと。」
「…。」
「もうわかってると思うけど、俺、先生のこと好きだよ。」
初めて言葉にされて、鼓動が急激に速まる。
私はきっと、この言葉を待っていた。
「…怒ってないよ。」
「本当に?」
「うん。最初から怒ってなんかいなかったの。
ただ戸惑って、どうしたらいいかわからなくて。
最初は、生徒のために何かしたい気持ちが全てだった。
それなのにいつしか、平野くんのこともっと知りたいとか、
会いたいとか、話がしたいとか。
それは教師としてではなくて…。」
言い終わる前に、平野くんに抱きしめられた。
思いのほか逞しい腕から、絶対に離さないという意志が伝わる。
「先生。俺、この学校は今日で卒業するけど、
先生からは一生卒業しないから。
今は花束しか渡せないけど、いつか必ず指輪を用意して言うから。
“結婚してください”って。」
平野くんは私を強く抱きしめたまま話す。
「平野くん…。」
「これからもよろしくね、先生。」
花の香りが漂う教室で、私たちは3回目のキスをした。