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短編・童話集

歌うぼんやり静か

掲載日:2020/10/11

 高校の教室にとって、午後五時というのは非常に微妙な時間だ。

 部活動に所属している生徒はすでにいないし、帰宅部の生徒だってそうそう残っている時間ではない。

 仲良しグループがだべっているにしても遅すぎる。


 そんな誰もいないはずの教室にぼくが戻ってきたのは、忘れ物をしたからだった。

 母の作ってくれる昼食の弁当箱をロッカーに忘れていた。

 学校の最寄り駅までたどり着いて、不意にそのことを思いだした。

 最悪だ。いっそのこと忘れたまんまでよかったのに。そんなことを考えていた。


 教室までやってきたのは、ちょうど午後五時だった。

 この街では午後五時になるとチャイムが流れる。

 二昔ぐらい前に流行った、当時のアイドルが歌う、懐メロのメロディーだ。

 教室の前の廊下に並ぶロッカーを開けたとき、そのメロディーが耳に届いていた。


 そうしてそのとき、教室の中から、透き通るような歌声が聞こえてきた。

 懐メロのメロディーに歌詞を乗せたその歌は、開かれた教室の扉の向こうから発せられていた。

 目的の弁当箱を手にしたぼくは、帰りがけに、教室の中へちらりと目を向けた。


 教室の中央に、長い黒い髪を伸ばした生徒が座っていた。どうやらその他には誰もいないようだった。

 クラスメイトだ。彼女の名前は水原美紀子。


 一年生の頃から一緒のクラスだが、あんまり話したことはない。

 意外な一面だな、とぼくは考えながら、学校の階段を降りた。


 何しろその歌は、これまで聞いた誰の歌よりもうまかったから。




 水原美紀子は物静かだ。誰かと一緒にいること自体が少ないし、そもそもあんまり話しているのを見たことがない。


 ぼくはその原因を彼女の性格にあるとにらんでいた。

 おっとりとしているというか、ぼんやりとしている、というか。

 たまに用事があって話しかけても、彼女の目がこちらに向くまで、ワンテンポ、謎の空白がある。


「水原」

 タイムラグ、

「なに? 近藤くん」


 ってな感じ。


 黒い髪を長く伸ばしていて、どちらかといえば地味な容貌だ。声も小さくてあまり聞き取れない。

 そしてよく本を読んでいた。彼女の印象はそんなのばかり。


 弁当箱を忘れた翌日、ぼくは何となく水原のことを気にしていた。

 あの歌声のことが気になっていた。


 だけどその日一日、観察していた水原の様子は普段と何も変わらない。

 相変わらず、いるのかいないのかもわからないようなものだ。

 彼女は植物のようにひっそりとしている。

 呼吸だけでなく、光合成も行っているのでは、と思えるほどだ。


 とはいえぼくは、水原のことをほとんど何も知らなかった。

 高校二年の五月になるのに、一年以上一緒にいるクラスメイトのことを何も知らない――たとえば、歌がうまいとか――というのもどうなのだろう。

 ぼくの社会性にも問題があるんじゃないだろうか。


 そんなわけで、その日の放課後に、ぼくは水原に話しかけてみた。

 普段話さない水原に、用事がないのに話しかける、というのもなかなか勇気がいる話だった。


「水原」

 そして訪れるタイムラグ、

「なに、近藤くん?」


 ぼくは結構行き当たりばったりな方である。話しかけてから、話題を探した。


「水原って、猫派? それとも犬派?」


 彼女は小首をかしげた。少し考えて、それから答えた。


「どっちも好きじゃない」


 すごく珍しいやつだと思った。

 犬か猫かを提示されて、選ばないやつなんてこの世にいたのか。

 これもまた意外な一面だ。


 そのわけは聞かなかった。というか聞けなかった。

 意外過ぎて恐ろしい一面が垣間見えることに危機感を覚えたぼくが、聞くのを戸惑っているうちに、会話が終わったと判断したらしい水原が言った。


「じゃあね、近藤くん」


 その翌日の放課後にも、ぼくは水原に話しかけてみた。

 二度目になると、もうそんなに、緊張も感じなかった。


「水原っていつも本読んでるよな。本、好きなの?」


 うん、という答えが返ってくるかと思ったら、違った。


「別に、ふつう」


 それもまた意外な返答だったので、ぼくは言葉を失っていた。

 水原は、どうやら結構、変なやつだったらしい。


 ぼくのその表情を見てとったのか、水原は少しためらいがちに、小さな声で言葉を続けた。


「あの、それは、嫌いってわけではなくて。なんていうかな、例えば近藤くんって、スポーツ観戦が好きなんでしょ。何のスポーツが好きなの?」


 水原がぼくの趣味を把握していたことに少し意外な感を覚えながら、ぼくは答える。


「野球かな」

「だけどサッカーとか、ラグビーも見るでしょ。嫌いじゃなければ」

「うん」

「わたしもそういう感じ。嫌いじゃないから、読んでる。本が嫌で読まない人が多いから、本が好きに見えるだけだと思う」


 なるほどな、とぼくは思う。少しぼくとは感性が異なるようだけれど、言わんとしていることはわかった。

 そして不意に気になったことをぼくはたずねた。


「じゃあ水原って、何が好きなの?」


 今度は長いタイムラグ。

 そして帰ってきた答えは、

「教えない」


 そういって水原はどこかへ行ってしまった。

 なんだそれ。


 でも水原は、思ったよりも面白いやつであることがわかった。

 とはいえ、ぼくがしたかった話題は、まだ全然できていなかったけれど。




 そのまた翌日に話しかけたとき、今度はあまり、タイムラグはなかった。

 こっちに目を向けた水原は、少し困り顔をしていた。


「近藤くん、最近なんだか、よく話しかけてくる」


 水原にはじめて先手を取られたぼくは、新鮮な気分を味わっていた。

 やっと、まともな会話をしている気分になったというか。


「そうだけど、嫌だった?」

「嫌だっていうか……どうして?」


 ぼくは笑顔を浮かべ、もう少しこの会話をひっぱってみようと試みる。


「知りたい?」


 水原はじっとぼくを見た。

 やがてゆっくりと首を横に振った。


「じゃあ、いい」

「いや、ちょっと待ってよ。教える、教えるから」


 ぼくは三日前の放課後の話を、水原に聞かせてやった。

 何しろその話が、彼女に一番したかった話だったのだから。


 水原ははじめ、普段のぼんやりとした表情をして聞いていたが、やがて眼を丸くして、明らかに動揺した表情へと変わった。

 彼女が感情をあらわにしているさまは、少しおかしかった。

 ぼくのその短い話が終わると、水原は机に突っ伏した。


「油断してた。まさか近藤くんに聞かれてるなんて」

「そう、聞いてたの。水原って、歌、うまかったんだな」

「失敗した。それ、忘れて」

「何で? すごく、うまかったのに。また、聞かせてよ」


 水原は机で顔を隠したまま、首を横に振っている。

 やっぱり、変なやつ。


 とはいえ、ぼくは本心から彼女の歌を褒めていた。

 そして彼女の歌をまた、聞きたかった。


「だから水原、今日、カラオケいかない?」


 この際だから、ぼくはそう言ってみた。

 本当は、もう少し仲良くなったら誘おうと思っていたのだけれど。

 水原は机から顔を上げ、口を尖らせてぼくに言った。


「だからあのこと、もう思い出さないで」

「いや、ぼく、別にからかってるわけじゃないんだよ。あんなにうまいんだから、色んな歌、聞いてみたいな、と思って」

「近藤くんが何を言っているのかわからない。歌って、何の話?」


 水原のド下手な記憶喪失の演技を無視して、ぼくは言葉を続ける。


「なあなあ、カラオケ行こうよ」


 と、そのときぼくらのそばを通りかかったクラスメイトの男子の一人が足を止める。


「あれ、近藤、カラオケ行くの?」

「うん、水原と」


 あ、と水原が声をあげるが、こういうものは言ったもん勝ちだ。


「へー、いいな。あれ、近藤と水原さんって、もしかして付き合ってた?」

「いやいや、全然そういうんじゃなくて」と、そこを勘違いされると水原にも悪いので、断言しておく。「実は、水原の歌が、」と言いかけたとき、水原から肩をつかまれる。


 ぼくが目を向けると、彼女は真剣な顔をしており、首を横に振っていた。

 どうやら、歌がうまいことを誰かに知られるのは、本当に嫌なようだった。


「水原さんの歌が、なに?」

「めちゃくちゃ下手らしいから、音痴仲間で練習しようってなってさ」

「ウソつけよ」とクラスメイトは鼻で笑った。「近藤ほどの音痴って、そういないだろ」


 実際、ぼくは相当ひどい音痴らしかった。自分ではわからないけれど。

 歌うのは好きなのに、中身が伴わない。

 子どもの頃の一時期には、ジャイアン、と呼ばれたことすらあった。


「でもまあ、」と言いながら水原に目を向けると、彼女は小刻みにうなずいている。「そういうわけなんだよ」

「ふーん。で、近藤たちは本当に、カラオケにいくの?」


 そうクラスメイトが口にした言葉を、また別なクラスメイトの女子が聞きつける。


「近藤くんたち、カラオケ行くの? 水原さんも?」


 また別なクラスメイトがやってくる。


「そしたら、一緒にいかない? 私たちもそんな話しててさ。水原さんともあんまり、話すきっかけなかったし」

「そしたら、俺たちも行くぞ」

「ぼくらも混ぜてよ、近藤」


 なんていううちに、あっという間に十人ものクラスメイトが集まった。

 放課後の教室に残っていたメンバーのほとんどだ。

 みんな、ヒマしていたらしかった。

 さっさと身支度をはじめたクラスメイトたちの中で、ぼくは改めて水原にたずねた。


「いいよな、水原?」


 彼女はしぶしぶうなずいた。




 駅前のカラオケの暗い部屋の中で、ぼくは二度目の水原の歌を聞いた。

 あんまりうまい歌ではなかった。


 水原はカラオケの画面から目を離さず、マイクを両手でつかんで歌った。

 音程は外していなかったけれど、声が小さく、震えており、ほとんどガイドメロディーにかき消されて聞こえなかった。

 それでも盛り上がっていたクラスメイトたちには、あまり関係なかったようだった。


「近藤とは段違いにうまいじゃん」

「水原さん、全然音痴じゃないよ」


 なんて余計な感想とともに、これまでほとんど人前に出なかった水原の歌声に、大きな拍手が飛び、マラカスと指笛の音が鳴った。

 歌い終わってマイクをぼくに手渡した水原は、戸惑いながらもほっとしており、少し嬉しそうでもあった。


 ちなみにその後に歌ったぼくには、クラスメイトからひどいブーイングが飛んだ。

 それはいったい何の歌なんだ、近藤、とみんな両手を叩きながら爆笑していた。

 いいじゃないか、難しい歌だって。好きなんだから。




 そのカラオケの帰り道に、ぼくらは集団で歩いていた。

 そのうちクラスメイトが一人減り、二人減り、ぼくと水原だけが残った。

 どうやら通学に駅を利用しているのは、ぼくと水原だけらしかった。


 歩きながらぼくは、今日のカラオケのことを思い出していた。

 奇妙な成り行きになった今日は、残念なのと、満足な気分が半々だった。


 残念だったのは、ぼくの聞きたかった、あの日放課後に聞いたような、本当の水原の歌が聞けなかったこと。

 なぜだか彼女は最後まで、ごく小さな声で自分が歌う番をやり過ごしていた。


 それでも満足だったのは、水原と多少仲良くなれたこと。

 そして水原の方でも、これまであまり繋がりのなかったクラスメイトたちと関わりが出来たのを、喜んでいる風でもあった。

 今までほとんど話したこともないクラスメイトに囲まれていたはずだったけれど、カラオケの騒音の中で顔を寄せ合って話していたし、時には珍しいことに、実に嬉しそうに笑っていた。


 水原は、一人で本を読んでいるのが好きなやつだと思っていたけれど。

 もしかするとただ単に水原は、自分から誰かに話しかけるの、苦手だっただけなのかもしれないな。

 そんなことを考えていると、水原が不意に、ぼくに言った。


「近藤くん。今日は、ありがとう」


 ぼくは笑顔を向けて、彼女にたずねる。


「楽しかった?」


 彼女の真剣味を感じさせる、少々のタイムラグ。


「うん」

「なら、よかった」


 しばらく黙って歩いてから、ぼくは聞いた。


「それにしても、水原、どうして今日は、あのときみたいに歌わなかったの? みんなに聞かせてやれば、絶対にびっくりしたのに」

「そうかな」

「そうだよ」そういってもしばらく返事がないので、ぼくは言葉を続けた。「ぼくはそのうちまた絶対に、お前の歌を聞くからな」


 そう言ってふと見ると、水原は口を尖らせながらうつむいていた。

 そんなつもりじゃなかったけれど、何か悪いことを言ったのか、心配になる。


「……出来ないの」


 やっと絞り出てきた水原の小さな声は、そう聞こえた。


「何が? ……何で?」


 長い、ながーい、タイムラグ。


「歌、嫌いなの?」


 水原は首を横に振る。


「歌、好き。一番好き」

「じゃあ、どうして……」


 やがて水原がこちらへ顔を向けて言う。

 珍しく出てきた大きな声は、きっと彼女の心の叫びだった。


「あがっちゃうの。すごく、すごく緊張して、あんな声しか出なくなっちゃうの」


 彼女は顔を真っ赤にしていた。

 水原が自分の感情を吐露している、そんな珍しい瞬間とその重大さをしっかりと認識しながら、ぼくは頭の中を整理した。


「……つまり水原は、誰かの前だとあんな風にしか歌えない、ってこと? 緊張するから」

「そう。だから、誰にも知られたくないの。歌がうまい、なんて言われると、もっと期待されるじゃない。そうすると、もう歌うのなんか、絶対に無理」

「そんなものかなあ」


 正直いって、ぼくにはわからなかった。

 別にぼくがうまかろうが、下手だろうが、人目なんか気にならない。


「だって近藤くんはあんなにひどい音痴だから」

「お前な……」

「でももし仮に近藤くんの音痴な歌を聞きたい人がいて、その人が近藤くんのあの大爆笑な音痴を期待してたら、どうする? そのハードル、越えられる?」


 ぼくは想像する。確かに、そんな場合、いつも通りに歌えるだろうか?

 かえって、普段よりもちょっとばかりうまく歌えてしまったりして。


 とはいえぼくには、その期待に応える必要はあまりない。

 好きで音痴なわけでもないし。

 お笑い芸人でも何でもないのだし。


「そんなハードル、越える必要あるのかな」

「……わたしにはあるの」


 ぼくが目を向けると、水原は顔を真っ赤にしながら、言葉を続けた。


「誰かに言うのはじめてだから、誰にも言わないでね」


 自己矛盾を起こしかねないそんな言葉の後には当然、長いタイムラグ。

 やがて水原が小さな声で言う。


「わたし、歌手になるのが夢なの」


 なるほどな、とぼくは思った。




 その日の夜に、夕飯を食べたぼくは自分の部屋に戻り、水原にアプリでメッセージを送った。


『心の準備、出来たか?』

『そういう緊張させること、やめて』


 すぐに帰ってきた水原のメッセージは女子のくせに味もそっけもない、文字だけの文章だった。

 らしい、といえばらしいけど。

 とはいえ、いま水原が、スマートフォンでこのメッセージを見ているのは間違いないわけで。


『じゃあ今から、電話します』


 そのメッセージを送ってから、三十秒待って、ぼくはアプリで電話をかけた。

 水原はすぐに出た。

 すぐにスピーカーモードにして、スマートフォンを机の上に置く。

 電話の向こうでは、水原もそうしているはずだった。


「もしもし」


 電話で聞く水原の声は、普段よりも大きめに聞こえた。

 声に集中して、改めて聞いてみると、水原は、やっぱりいい声をしている。


「なんだか変な感じがするなあ。電話で話すとさ」


 ちょっとした、タイムラグ。


「わたしもそう思う」


 電話だとやけに妙な間になる。

 だけども、それでやっぱり水原だな、という感じがするわけで。


「さっそく行こうか、水原。なんでもいいよ」


 ぼくは机の上のパソコンで、動画サイトを開きながら、リクエストを待つ。

 動画サイトには、親切な人が自作した様々なカラオケ用の楽曲が、無料で提供されている。


 だけども水原からすぐに返事はない。

 またしても、長いタイムラグ。


「近藤くん。……やっぱり無理」

「なんでだよ。それなら大丈夫そう、って言ってたじゃないか」


 今日の別れ際に、ぼくは水原から歌を聞かせてもらう約束をしていた。

 彼女ははじめ、何があろうとも絶対に無理だ、というスタンスを崩していなかったけれど、そんなのじゃ歌手にはなれない、とぼくは冷静に指摘していた。

 そして彼女に、少しずつ人前での歌に慣れることを勧めた。

 電話の向こうの水原に、そのときにした話を蒸し返してやる。


「だいたい、クラスメイトの前で歌うのが無理なやつが、歌手になんてなれっこないだろ」

「ああっ、言わないで、そんなこと言わないで」


 珍しく早い反応で返事が来る。

 どうやらその夢は、水原の中では結構本気なものらしい。


「だいたい、ぼくには一度聞かれてるんだから。しかもスマホ越しだろ? こんなので緊張して、どうするんだよ」

「……だって」


 その言葉の後が続かない。

 まあ、あがり症がそう簡単に治るわけはないだろうけれど。


「なあ水原、歌ってよ」


 スマートフォンの向こうから帰ってくるのは、タイムラグ。

 というか沈黙。


 やむを得ず、ぼくは動画サイトから、今日のカラオケでも歌った、あの難しい歌のカラオケ音源を選んだ。

 その曲で、ぼくはいつも歌の練習をしている。

 一向にうまくならないらしいその歌を歌っているうちに、スマートフォンの向こうから笑い声が漏れた。


「近藤くん……何でそんなに天才的に、面白く歌えるの?」


 まだカラオケの曲は続いている。ぼくは歌うのをやめて、水原に言った。


「じゃあ続き、水原が歌えよ」

「……それは、ちょっと」

「ならさ、一緒に歌おうぜ。それなら出来るだろ?」


 そしてぼくは彼女の返事を待たず、その歌をさらにボリュームを上げて歌った。

 スマートフォンの向こうで、水原がまた、笑い声を漏らした。


 それから少しして、水原の透き通った歌声が聞こえてきた。

 その歌はやっぱり、尋常じゃなくうまくって。

 ぼくは少しずつ声のボリュームを落として、最後には水原の歌に聞き入っていた。


 夢中になって歌っていたらしい水原は、歌い終えた後でやっと、恥ずかしそうな小声でたずねてきた。


「……どうだった?」

「ちゃんと歌えてたよ。水原、やっぱりめちゃくちゃうまいな」ぼくはそう言って、間髪を入れず、次のカラオケ動画の再生ボタンを押す。「じゃ、次はこの曲。また一緒に歌おう」

「あ、うん」


 カラオケの曲が流れだす。またぼくはしばらく一緒に歌って、そのうちに水原の曲に聞き入っている。


 まだ一人で歌っていることに気づかない水原の歌声を聞きながら、ぼくは考える。

 どうやったらクラスメイトたちに、水原のこの歌を聞かせてやれるだろうか。

 彼女の歌は、ぼくがこれまで聞いた誰よりもうまかった。

 むろん、テレビ画面の向こうで歌う、プロを含めても。


 しかしそのうちソロで歌っていることに気づいた水原が、不満げな声で言う。


「ちょっと、近藤くんのド下手な歌が聞こえないんだけど」

「ド下手で悪かったな」


 そしてド下手な歌を歌いはじめながらぼくは考える。

 彼女には才能がある。そのうち、世に出るだろう。

 だからまあ、今はまだしばらく、こんな感じでいいや。


 きっと、水原美紀子の歌声を独り占めできるのは、今だけだろうから、さ。

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