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幸田露伴・田村松魚 合著 「もつれ絲」現代語勝手訳(9)

 其 九


 翌朝、平九郎は早朝(はや)くから再び訪ねてきた。自分が仕掛けた罠にこの親子がまんまと掛かったのはすぐに分かったけれど、そんな素振りは少しも見せず、どこまでも実直な挙動(そぶり)と、親切めいた言葉を端々(はしばし)に含ませ、巧みに、

「お話はどう決まりましたか」と訊けば、おこのは昨夜の始終を話して、

「お須磨のことは貴方様(あなたさま)にお任せいたしますので、これからのご面倒をひとえにお願い申します」と、どこまでも平九郎を自分達のための神とも仏とも頼り信じ切った口振り。平九郎は『思う壺、してやったり』とほくそ笑みながら、()と膝を乗り出して、

「それはそれは、よく思い切られました。それはもう、親となり子となった愛情は自然の道理でございますから、お考えになったのもお嘆きになったのもごもっとも。しかし、万事はこの私がお引き受けして、お娘御(むすめご)をお世話いたします以上は、決してもう心配はいりません。不幸が続いた挙げ句に、運の芽を見出す最初の幕開けというものは、第一にどうしても諦めが大事でございます。と言いましても、百里、二百里と遠い所へ(たび)(かせ)ぎに行くではなく、たかが七里、八里のつい目と鼻の先の千住のことでございますから、お会いになろうと思えば訳はないこと。仕事の暇を見て、チョイチョイこちらへ娘御がお帰りになるなり、またこちらから見物旁々(かたがた)千住の方へお運びになるなり、そこはもう、通行の便が好い今時のこと、決してご心配になるほどのこともありません」と、例の調子。

「そうでございましょう。もうそれはこちらも諦めておりますし、それにあちらのご主人と申す方もお話のような堅固な方ということでございますから、充分安心はいたしております。それに貴方様がその上お見棄てなさらないと仰るので一層心丈夫に思っております」と、おこのの言葉にも勢いが出たので、

「そうです、そうです。もうそこは大船に乗ったお積もりでいて下されば好い。私もわざわざこうしてここまで足を運んだ甲斐があり、本望でございます。ところで早速そういうことにお話が決まりましたからには、早くその話を進めようじゃありませんか。善は急げと申します。お娘御のお気持ちが変わらない(うち)に。ハハヽヽヽヽ、何だかこう陰気な心持ちがさっぱりと消えて、陽気になってきたようではございませんか。ハハヽヽヽ。ところで、私も家の方に急用を抱えておりますので、都合もあって、今日中には是非とも帰らなければなりません。で、証文のことから前借金のことなどもこれから早速片を付けまして、少し性急のようではございますが、今日の夕方に出発(たつ)ことといたしましょう。これ、お娘御、イヤ、お須磨様、よく思い切られました。どうも見上げたものだ。これはご主人、ご病気はいかが、こりゃ大分お加減が好さそうだ」と、今までの沈着めかした挙動(そぶり)とは違って、どこかそそっかしく軽々しい様子の言葉が、その身体(からだ)の動かし(よう)にも表れて、ともすれば日常の平九郎の地金が露呈(あらわれ)そうになったのを自分でも感じたのか、思い出したようにしゃちほこばるのも滑稽であった。


 その日の正午(ひる)過ぎ頃に証文のやり取り、前借金の払い渡しなども、平九郎は馴れた段取りで素早く済ませた。榮吉とおこのは余りにも運びが急なので、驚き惑いながら、お須磨へ数々の教訓、心構えを語り、それも落ち着いて充分とは言えなかったけれど、せめて乱れた髪の一つも結い直してやろうと、母は室の隅にある鏡台を前にして座った娘の後ろに廻った。そして、鋏を取り上げて髪を(ほど)こうとした手を止めて、

「お須磨や、もうこうして私がお前の髪を結ってあげるのもしばらくは出来ないだろうから、今日は私ができる限り気持ちをこめて結ってあげようと思う。けれど、夕方までには此地(ここ)出発(たとう)という急な事だから、上手くは出来ないが我慢をしておくれ。結っているうち気に入らない所があれば、ちっとも遠慮は()らないからどんなことでも具合の悪い所は言っておくれよ」と言いながら、プッツリと元結(もとゆい)(*髪の根元を結い束ねる紐)を切り放てば、(まげ)はハラリと下に垂れる。お須磨は膝の上に両手を置いて、鏡に向かって母の言葉を聞いていたが、思えば本当にこれから(はは)(さま)に髪を結って欲しいと願う事もできなくなるのか、この髪が結い上げられれば、その時がお別離(わかれ)となるのか。してみれば、この髪が何時までも何時までも結い上げられずにいて欲しい。一時でも父様(とうさま)(はは)(さま)のお側を離れたくないもの」と、今更に自分でも気づかなかった心細い思いが胸に充ちてくるが、それとは表さず、

「母様、もうどんな風にしてもらってもいいですから、ちょいと結んで置いてくださいませ。私はこれからちょっとお萱婆さんの所だけへなりとお(いとま)乞いに行ってこようと思いますので」と言う。

「オオ、それも好いでしょう。それなら大急ぎで掛かりましょう」と言いながら、()(ほど)く、雲脂(ふけ)を払う、()く、癖直しをする、油を付ける、また梳く、と両手の先が動くと共に射し入った日影が鏡の面に映ってぎらぎらと光るのが次第に消えて行く心細さ。今日に限って取り分け日が短いようなと、恨みを言うのも別離(わかれ)たくない気持ちが胸に充ちて来るからである。

 やがて前髪を取って、鬢を取って、髷をこしらえて、さて前髪の格好、鬢の映りよう、これで好いかと鏡を見れば、そこに映った娘の顔、生際(はえぎわ)も、眉の形も、目元の涼しさ、口元の愛くるしさ、どれも非の打ち所もない容色(きりょう)。我が子ながらも惚れ惚れと見とれて、毛筋櫛(けすじ)を持つ手が自然と緩み、バッタリ取り落とし、ハッと我に返って、

「オオ、余りに気が急いて」と、言い紛らわすのもおろおろ声。思わず込み上げてくる涙をじっと(こら)える。

 お須磨も悲しさが溢れて泣くまい泣くまいと()えるけれど、生憎(あいにく)落ちる一ト雫、鏡の(おもて)(うれ)いの雲に(とざ)された。


 やがて美しく髪が結い上げられた所へ、噂を聞いてお萱婆もやって来た。浦和の町に買い物に出かけていた榮太郎も帰ってくれば、先ほどからとやかく世話を焼いていた平九郎は煙管を筒に仕舞って腰に差し、

「サァ、ご用意が好ければ、そろそろ出かけるといたしましょう」と。


つづく

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