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幸田露伴・田村松魚 合著 「もつれ絲」現代語勝手訳(8)

 其 八


 お須磨はあのことだろうと思って紡車(くるま)を片方に寄せた。榮太郎は母がどんなことを言い出すのだろうと座敷に上がってきた。榮吉は閉じていた眼を開いて皆の方をキッと見た。おこのは三人の顔を代わる代わる眺めて、やがて口を開いた。

「お須磨や、今日お前が話していたあの千住(せんじゅ)の平九郎とかいうお(ひと)が、お前たちの帰ってくる少し前に見えられて、詳しい話を父様も私も聞きました。先ず、概略(あらまし)はあのお人がお前に話したことと違いはありませんが、あまりに話が急なので、どう決めたものかと、実はまだ父様も私もしっかりとした考えもないのです。お前はどうお思いか。あの人が世話をしようという(うち)はお前も聞いて知っている通り、千住で名高い扇面亭という料理屋。そこは一風変わった所で、主人が大の物堅い人で、従来(ありきたり)の料理屋とは違って大分上品な所なのだそう。そこに使われる女中なども行儀作法は一通りきちんとしていて、好い具合に仕立ている所だという。それはそうと、そこへいよいよ奉公をするには、三年とかまたは四年とか、年期を決めなければならないということらしい。そうすると先ずそこへ奉公をすれば、その年期の(うち)はそちらの人になったようなもので、ちょっと帰って父様や母様に会いたいと言っても、それも自分の自由にはマァなるまいと思わなければならない。それで、奉公をするにはその年期を入れなければ前借金というものが直ぐにこちらの手には渡らないというような訳なのだそうだが、それはマァともかくとして、お須磨、お前はどうお思いか。行ってみようという気があるか。それともやっぱりこうして皆で一緒に苦労を共にした方が好いとお思いか。苦労と言えば、それはお前が見ず知らずの人中へ出て、色々と気を遣う上に、特に料理屋というような客商売をする所だから、それは骨の折れようも一通りではなかろうと思う。先ずお前の気持ちはどちらの方に傾いているのか、それを聞くのが第一。しっかりと心を静めて、思った通りをちゃんと話してみておくれ」と言って、後は言いよどんだ。

 お須磨は膝の上に両手を置いて、やや伏し目がちに、長い睫毛も愛らしく、白く丸い(あご)がメリンスの紅い襟に触れんばかりに、しっとりと静かに母の言葉を聞いていたが、気の廻る(たち)で母の気持ちをも、それと察して悪びれず、僅かに面を上げて、

母様(かあさま)、こうして皆さまと一緒に居たいのは山々でございますが、あの平九郎という人の話を聞いてみれば、三年の年期とやらを入れて、あちらへ奉公に出ますと、その前借金とやらと申して沢山のお金が父様や母様の方へ渡るそうでございます。それから奉公をしてしまえば、月々にこの村の学校の先生ほどの給料が必ず取れると申します。もしもその話が虚言(うそ)でなければ、すなわち、そうしたお金がもらえるのであれば、そのお金で、あの意地の悪い厭な厭な勇造の叔父さんや、宗安という悪人の方へ差し当たっての払いをお済ませになって、それから父様も、もっともっと上手な上手なお医者様にお掛かりになれば好いかと思いますので、父様(とうさま)母様(かあさま)とお別れするのは厭でございますけれども、私は奉公に行ってみたいと思っています。母様、どうか私をそこへ()って下さいませ。そうすれば、父様のご病気も治り、母様のご心配もなくなり、榮も毎日辛い仕事をしなくてもよくなります。私はどんな難儀も(いと)いませんので、どうぞ奉公に遣って下さいませ」と、声は(むせ)ぶように聞こえたが、キッと決心した顔面(おもて)の色は冴々(さえざえ)として、一点の曇りもなく、輝く眼元に張りを見せた。

 おこのはじっと娘の顔を見詰めて、しばらくは言葉も出せずにいたが、視線を()らして良人(おっと)を見やった時には、眼は早やくも涙で溢れるばかりになっており、物を言うにも、今はただ泣くしかできない状況ではあったが、泣くのは甲斐なく不甲斐ないと心を強く、鬼にした。このまま日を過ごせば、たちまち死ぬよりも恐ろしい運命が良人(おっと)と自分の目前に迫り、両人(ふたり)の子の身の上まで絶体絶命の状態に陥る。一家のため、良人(おっと)のため、その厄難を逃れて、一時の急場を救うには、愛しいけれど、この可憐(いたいけ)な自分の娘を犠牲にして、差し迫った場面に備えるより他はないと一度(ひとたび)心に決めた。


 浮世のあらゆる辛いこと、悲しいことの数々に胸もつぶれ、身も切られる思いをさせつつしつつした後、話はここにようやく終わりを告げ、兎に角お須磨は奉公に行くべき身となった。

 お須磨の大人も及ばないしっかりとした分別、小さい胸にも道理をわきまえた物の言い様、心の据え方に今更ながら驚きもし、安堵もし、たとえこの身はこのまま飢え死んで、野山の隅で鳥獣(とりけもの)の餌食になっても、この殊勝な我が子を手放しはしないと思い詰めていた気持ちだったが、今は動かし難いお須磨の決心がおこのにそう決断させたのだった。


 それを見た榮太郎は幼心(おさなごころ)意地(いじ)(わる)く、

「どうあっても姉様を千住とやらへ遣ることはイヤ、イヤ。私がどんな苦労をしてでも父様のお薬代、お米代も、(まき)代もどうにかいたします。ですから、姉様だけは遣らずに置いてくださいませ。お願いでございます。榮の一生のお願い、父様、母様、榮が可哀想だとお思いなら、どうかこのことだけはお止めくださいませ。姉様、千住へお()でになってはイヤでございます。あの平九郎という奴もやっぱり悪党かも分かりませんのに、そんなうかうかとした話にお乗りになっては、またお困りの種でございます。イヤ、イヤ、姉様を遣るのはイヤ」とばかりに泣きつ叫びつして、説けど話せど聞き入れず、困り果てる目も当てられない一幕の悲劇。

 やがて一同涙を払って頭を上げたその時、折も折、連なり行く雁の声が(はらわた)(えぐ)るように鳴き渡った。


つづく

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