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幸田露伴・田村松魚 合著 「もつれ絲」現代語勝手訳(6)

 其 六


 お須磨の先ほどの話と多少は違ったようにも思える所はあるが、詳しく聞いてみれば、世にも勿体ないほどのありがたい話。お須磨を奉公に出す出さないはともかくとして、どちらを向いても鬼のような、蛇のような人ばかりの世の中に、このように親切な人情の厚いお方もいるのか。捨てる神あれば助ける神ありとはこのことか。神仏(かみほとけ)と言うけれど、形に現れれば、こういうお方を指して言うのだろうと、おこのは平九郎の話を聞く(うち)に、しみじみとありがたさが身にこたえ、胸に刻まれたので、その話が終わると同時に、先ず口を開こうとしたが、良人(おっと)の意向はどうだろうと気づき、振り返って良人の顔を見れば、思った通り、これも嬉し涙にくれた様子であった。これを見ておこのは一層気持ちが(たか)ぶり、思わず込み上げてくる涙を、初対面の人の前で見せることは失礼だとじっと堪え、両手を前について頭を下げて、

「まことに何から何までご親切なお言葉、しみじみ骨身にこたえて有り難く存じます。良人(おっと)は申すまでもなく、妻の私も厚くお礼を申し上げます」と、頭を畳に付くくらいまで、何度もお辞儀を重ねると、平九郎は少し鷹揚(おうよう)に手を上げて、

「マ、マそう礼を仰られてはお恥ずかしい次第。世は相身互いと申します通りで、どうかしますと、また逆に私がご厄介にならないとも限りません。マア、そういう堅苦しいご挨拶はお互いに後にしまして、どうでございましょう、今お話しした話は。私も実は家の方にも差し当たっての用事がございますので、明日は必ずこちらを()たねばなりません。なるべくならこのお返事も早くお決めいただければ私もそれだけ面倒が少ないというもの。そこでご主人のお考えはいかがでございましょう。ご内儀様、あなた様はどうお考えでございましょう。金銭(ぜにかね)のことを申しますと、何かおかしいようでございますが、ご相談さえ整えば、直ぐにでも前借金をお手渡しできる都合はついております」と、一刻でも早くこの相談をまとめたいような口振り。

 おこのはそれと察して、

「それはもう、ごもっともなことでございます。わざわざこの村までお運び下さいましたのでも大抵なことではございませんのに、ご親切なお言葉に甘えまして、この上のお世話を願いまして、娘をそちらへ(つか)わしたいのは山々でございますが、私の一存ではもとより参りかねますし、良人はこの通りの大病でございますので、今すぐお答えを申し上げるだけの元気もございません。それに娘の腹も一応は聞いてみなければなりません。その他色々と込み入った内情(わけ)もございますので、本当に勝手がましい言い分ではございますが、このお返事は明朝(みょうちょう)早くいたしたいと思いますが、いかがなものでございましょう」と、平九郎に向かって話し、側にいる良人の方に向いて、

「もし、あなた、そういうことにお願い申しておきまして、後でお須磨が帰って参りましてから、あなたもよくお考え下さったら、明朝(あした)は早くお返事も出来るというものでございますが」と言って、良人の顔と平九郎の顔とを交互に見やれば、榮吉は微かな声も苦しげに、

「この通りの病気でご挨拶もいたしかねまして本当に失礼でございますが、承れば色々のご親切、有り難うございます」と、頭を(もた)げて平九郎に挨拶をし、更に一息苦しげに()いて、

「そう願えるようならそうしていただきたいものだが」と、言いも終わらないうちにもひとしきり咳き込んだ。

 おこのは良人の意を受けて、更に言葉を丁寧にしてその旨を語れば、平九郎は大層満足な顔に笑みを浮かべ、

「それはごもっともなお言葉。では、私はこれからどこかに宿を求めて、明朝再び伺いに来ますので、それまでにどうなされるかお話を決めておいてくださいませ。なお、念のために申しておきますが、その奉公先の扇面亭という料理屋が馬鹿に堅い所ということと、それに前借金は三年の年期で三十円、六年でそれの先ず倍増しというようなこと、もっとも話が決まれば、その金額(かね)は今すぐにでもお手私をいたします。イヤ、どうも初めて伺いまして長居をいたしました。それではこれで失礼いたします。さようなら、明朝伺います」と言えば、おこのが

「お愛想も出来ませず、失礼を」と繰り返す言葉を聞き流して立ち去り、まだ十間(じゅっけん)とは歩かない(うち)に、

「もう〆(しめ)たものだ」と言いながら、舌をペロリと出したけれど、宵闇なのでそれも見えず、人がいないので、その言葉を聞く人もなかった。


 平九郎が帰った後、榮吉夫婦は更に新しい苦労の種子(たね)を造った。

 人の暖かい情けに飢え、(かっ)した身には、今の平九郎の言葉をしみじみと嬉しく感じ、何か目の前に一つの希望(のぞみ)が出て来たような思いはしたが、流石恩愛の情けにほだされて、年端(としは)もいかない可愛い可愛いお須磨を見ず知らずの人手に渡し、娘が泣く涙の一雫、汗や(あぶら)のそれから得る若干(いくばく)かの金銭を、絶体絶命の大病の身の、貧に迫った辛酸苦艱(しんさんくげん)の果てのこととは言いながらも、どうして一日とて、半日とて、それを自分達のために用立てられるというのか。しかし、そうは言っても、思えば恐ろしい今日の宗安めの無理催促、残忍酷薄の所業のありたけを尽くしてもまだ飽き足らず、また四、五日後に来ると言い残して帰ったことを思い出せば、身も心も亀縮(ちぢま)る。

「ああ、どうすれば好いのか」と、榮吉もおこのも互いに言葉は交わさないけれど、胸は同じ思いに悩みながら苦しんでいる所へ、幼く若い美しい声がして、何かを睦まし()に語らう声と、小刻みの草履(ぞうり)のバタバタという音が乱れ合って戸外(おもて)の方から聞こえてきた。


つづく

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