幸田露伴・田村松魚 合著 「もつれ絲」現代語勝手訳(4)
其 四
仮初めにも、医者と名のつく宗安が無慈悲極まる振る舞いを敢えてするのも、その黒幕の中に勇造という悪魔が糸を操っているからだと、榮吉もおこのも知っているはずである。宗安は思うままに毒舌を吐き、悪態をつき、男女が悲嘆に沈むのを他所に見て、四、五日待って欲しいと言う向こうの言い分を、それならその言葉をこの次の悪事の種にしてやろうと、のさばりながら帰って行った。
榮吉と、おこのは今更に浮世の辛さ、悲しさに正体もなく泣き崩れ、こうなってはもう、ただこのまま、明日明後日を暮らす手立てもないと思うものの、と言って好い思案が浮かぶはずもなく、ハタと当惑の思いに胸は乱れ、言葉もなかった。
秋の日脚は大層短く、榮が植えた鶏頭花と須磨が植えた白粉花とが露に乱れ、霜に枯れて、小籬の下に雑然としているその辺りに、夕陽の影が黒く射し、鎮守の森の梢に夕鴉の鳴き声が悲しく、早くも夕暮れの色が蒼然と四方を籠めて、物寂しさが一層深くなってきたその時、戸外の松の木陰に人の影があった。
それでなくても世を恐れ、人を怖れる身は、駒下駄の音にも胸を騒がせ、咳の声にも胆を冷やし、またしても自分に辛く当たる人が来たのではないかと心配で、そっと盗み見るその眼の先に、
「ごめんなされ」と出て来た男があった。
「初めてお目にかかりますが、私は千住の平九郎と申す者。先ほど、お萱婆さんの所で、こちらの娘御のお須磨殿というのにお目にかかり、ちょっとお言伝をしておきました者ですが」と、小腰を屈めて丁寧な言葉遣い。
さては、お須磨が話していた人だったかと、ようやく胸をなで下ろした。一応直接会って、詳しい話を聞いてみるのもいいだろうと思い、こちらに招けば、平九郎はキョトキョトと家の中を見廻しながら座り込んだ。
おこのは榮吉に、この人が尋ねてきた訳の概略を先ず話し、改めて平九郎の方に向き直れば、平九郎はわざとらしく渋茶を啜りながら、先ず世間全般に不景気だということや、この村あたりの秋の取り入れの善し悪しのことなどを語りもし、問いもするなどして、言葉巧みに喋ると、
「さて」と、少し膝を前に進め、
「時に」という前置きをして、ポンと煙管と叩くと同時に本題に取りかかった。
「概略はお娘御からお聞き取りいただいたでしょうが、実は私、少々所用があって、浦和まで参りまして、早速所用を済ませ、明日出発というその前夜のことでございました。フトしたことからこの白幡村に評判の孝行娘が居るということを夕食の給仕に出た宿屋の婢から聞きましたのがそもそもの始まり。それからぐびりぐびりと一本の銚子が音がしなくなるまでの間、種々とその娘の話を聞いておりましたが、聞けば聞くほど、今時の世の中には感心な心掛け、歳もやっと十五とか六とかいうまだほんの物心も付くか付かないかという年齢なのに、本当に見上げた気立てだとぞっこんそこに惚れ込んでしまいました。根がそういう話を聞くと妙に力瘤を入れたがる性質で、気の毒なものじゃ、不憫いそうなものじゃという考えで胸一杯になってきまして、その晩もそのことばかりが気に掛かって、どうにも眠られず、何とかしてそういう世に得難い孝行な娘を助けてやりたいものだという謂わば一片の義侠心が、マァ、この私の胸に浮かんだと思って下さいませ。ところで、丁度好いことに、千住切っての料理屋に扇面亭というのがございます。そこの主人と私とは極く心安い仲で、常に往き来をしておりますが、これが大の変物で、派手な商売をしている割には似合わない地味な考えを持った男。店で使う大勢の女中衆にも一々行儀作法を教えて、万事が極く物堅く、例えば『いらっしゃい』というところも、『いらっしゃいませ』、『お帰りなさい』というところも『お帰り遊ばせ』というように、至極堅気を主とした商売の仕方を自分でも大層好いことだと信じてやっているという風でございます。人気というものは妙なもので、その偏屈な、正直な、古風な、頑固な所がお客様達の気に叶って、非常に繁昌。そこで、主人もこの主義をどこまでも売り、お客様はまたその気性を買ってやるという具合で、ますます景気もよく、今では千住で五本の指にも数えられるほどの身代になっております。さて、万事がそういう堅苦しい風のやり方でございますので、客扱いをするその婢には、丸出しのお百姓が生ませた泥臭い女でも困り、長屋の嬶左衛門が教育た洟垂らしのおちゃっぴいでも弱ります。と言って少し気の利いた小綺麗なのはどいつもこいつも方々を流れ歩いた渡り者のすれっ枯らし。行儀作法は横に置いて、口ばかり達者で、おっとりした所などはまったくなく、怠惰ることと、男の噂をすることと、祝儀の一つも余計にせしめようというような事の外は何一つ女らしい点のないあばずればかりで、頭から此所の家風に合うようなものもいないという次第でございます。どうもその女中衆に好いのがなく、それには主人もほとほと困り切っておりますが、その中にも、極く温和しい怜悧な、皆な元はしかるべき家庭に育った者で、世が世ならお嬢様とも言われるような由緒付きの娘が、十四、五から二十二、三を上にしてかれこれ六、七人もおりますので、これが万事客の取り扱いをいたしているのですが、何しろ今申し上げた通りの大家の事、これくらいではなかなかもって手が足りかねると言うことから、実はこの私も主人から女中衆の雇い入れのことを頼まれているという訳。それも懇意の間柄なので、格別こちらの利益になるということでもないのですが、丁度今のお話しの通り、何とかしてその孝行娘を助けたいものだという義侠心を出した矢先に、自分がこういう事を頼まれていたことを思い出して、これは好都合だ、縁があったからこそ、こうしてフトしたことで身に染みて気の毒にも思い、可哀想にも思い、助けてまでやろうと決心したのだから、これは一つその娘というのを尋ねて会って、話をした上でのことにしようと、実はその明くる朝早く、宿屋を発って、わざわざこの白幡村まで出かけてきたのでございます」と、話をしている中にも日はとっぷりと暮れ果てて、一室の中にいる人の顔さえ見分けられないくらいになった。おこのは、
「少しお待ちを」と、会釈して立ち、二分芯の洋燈に火を灯していたが、その間に平九郎は茶を飲み、煙草をのんで、次の話に移ろうと待ち構えた。
つづく