幸田露伴・田村松魚 合著 「もつれ絲」現代語勝手訳(3)
其 三
お萱婆様の家の仕事が忙しいのでと、話を語り終えると、直ぐにお須磨は出て行った。その後、おこのは無量の思いを胸に湧かせて、あれやこれやと思案に暮れていたところへ、一人の男がツカツカと入って来た。さては、先刻娘が話していた人かと頭を上げればそうではなく、藪医者の宗安という虎狼に等しい人でなしであった。おこのはハッと驚きながらも声を掛け、
「これは宗安様、よくお出で下さいました。マアこちらへ」というのも待たず、
「ハヽヽヽァ、相変わらずおこの殿のお世辞は旨いものだが、その手は喰わんぞ。この宗安、今日はよくお出で下さいませんからそのつもりで世辞も追従も加減をしてもらいたい。医者が病人の家の敷居を跨げば、診察に来たかとでも思うだろうが、いくら歳はとっても今から善行を施して来世の極楽浄土を願うような宗安ではないので、安心してもらいたい」と喚きながら、ジロリとおこのの顔を見てせせら笑い、ずっと上に上がって胡座を組み、白髪交じりの短い毛髪がすくすくと生えた赤入道の頭を振り立てながら、胸が悪くなるような臭いのする細巻きの巻煙草をけばけばしい彩色をした箱から捻り出して、これ見よがしに燻らせながら、
「サア、おこの殿、初めからこう色気も素っ気もなく切り出したら、大概どんな用事でこの宗安がわざわざ来たのかは分かるだろう。そこに臥ている病人の亭主殿にはチト気の毒な次第だが、そんなことに遠慮をしておっては喋るこの頤に支障が来るのでやむを得ん。サア、この前の約束通り、今日は否が応でももらうだけの金銭をもらって行く、イヤ、もらって行こうというと、物もらいのように聞こえて、こちらに一割の損が行く。立派に取るだけの物を取って帰るから、綺麗にこの目玉の前に耳を揃えてもらおうかい。これ、おこの殿、何をまごまごしてござる。何だと? もっと静かに物を言えだと? ヘン、お気の毒様だが、病人の目を覚ますのを気遣うような親切者ではございませんわ。サア、ぐずぐずしないで、五ヶ月分の薬代、積もって十円と六十二銭五厘、たった今払ってもらう」と、頑張り返って動かない。おこのはこうなるとは覚悟の上ながらも困り果て、身を縮めて宗安の前に這い出て、
「もし、宗安様、本当に何とお詫びのいたしようもございませんが、ご覧の通りの不幸福、今日明日の生活にさえも困って、年端もいかない両人の子にも日雇い人足の真似をさせて、その日その日を心細くして暮らしておりますような情けない身の上、十両(*十円と同じ)はおろか、一銭二銭の端銭にさえ困るような有り様でございますので、とても何と仰られても今日の中にお支払い出来るとは申せません。有るものを無いと逃げ言葉を申すのではないことは、この果敢ない哀れな生計をご覧になってもお分かりになりましょう。どうぞ、今しばらくの所をご勘弁くださいませ」とは、最後まで言わせもさせず、
「イヤならん、ならんならん、金輪際勘弁はならん。この宗安がならんと言ったら、ここにいる餓鬼を見るような榮吉殿が、あの勇造殿のような頑丈造りの身体になるようなことがあっても勘弁ならん。これ、よく聞かっしゃれ、おこの殿、この間何と言って期限を決めた。東京の方へしっかりした当てがあるので、今日二十九日の正午までには必ず綺麗にお払いしますと、その可愛らしい、イヤサ、苦労はしても綺麗な好い地質は争えないその美しい唇で旨いことを喋った言葉はちゃんとこの宗安様のお耳の底に残っておるわい。それを何じゃ、無いものは無いから支払いができないで済まし返った返答振り、あんまり人を甘く見ていい加減な口先で逃げようと思っても、そんな手に乗るお人好しじゃない。よく考えてものを言うもんだ。これが勇造旦那への借金のように、四十、五十と纏まった大金ならともかく、たった十両若干の端金、しかもあんたが最愛しいとか可愛とか思っている恋男の榮吉殿に服ませた薬代じゃ、それをも払わないというような不義理をして、それで済むと思わっしゃるか。よしよし、どうしても払わないというなら、そこにある茶釜でも鍋釜でも、病人に着せた夜着でも引剥いで提げていこう。この通り、博奕に負けて着たきり雀の宗安様が差し当たって入り用の資本に持って行くんだ、さ、それでも金銭は一両も出せんか。いくら貧乏をしたといっても、昔は坂本屋とも言われた大店の家付きの娘が、いかに可愛い男との共苦労といって、一文の貯えも無い身に成り下がったと言ってはあまりに外聞の好い話でもあるまい。ハハハヽヽヽァ、どうじゃおこの殿、泣いているのは悲しゅうての涙か、わしを誤魔化そうとしての空涙か。一ト雫の涙が若干の金銭になるものなら、勘弁のしようもあるが、銭一文にもならん涙をべそべそと出しくさってもテンで相談にもならんわい。これ、おこの殿、あんまり憎まれ口を叩きたくないがの、好い加減に見切りをつけてあの親切しい勇造旦那か、もしくはこの俺様かに乗り換えてはどうだ。ハハヽヽァ、怖い眼をして白眼むの、よしよし、そうしてそっちがしぶとく出るなら、こっちもこっちだ。サァ、病人の夜着を剥ぐが、それでもいいか、サ、どうじゃ」と言いながら立ち上がって、破れ屏風を蹴倒しながら、突然榮吉が臥ている床に踏み込めば、おこのは『ああ!』とばかりに驚きながら、宗安の袂に緊と取り縋り、
「アア、もし、残酷なことをなされますな。病人にどんな罪があってそのような恐ろしい、酷たらしいことをなされます。どうぞお願い、そればかりは御免なされて下さいませ」と、おろおろ声で詫びれば、あちらは鼻の先でフフンと笑い、
「残酷も糸瓜もあったものか。薬代のカタに代物を持っていくのに何が不思議だ。それが厭なら金銭を出すか、言うことを聞くか、二つに一つ、どちらかに決めれば好いと、これ程こっちは大人しく情けをかけて出ているのだ。サァ、返事を聞こう」とのさぼり返る。
「エエ、その二つの中の一つがこの私にできるくらいなら、何もこうして憂き目を見ることもございません。どうぞそこをお察しなされて、ここのところ、四、五日待って下さいませ。
「な、何だ、ここのところ四、五日待てだと? ムゥ、四、五日が聞いておかしいわ。目的もないちょっと逃れをして、この上の難儀をするよりもいい加減断念めてしまうがいい。サ、そこを放せ」と、また立ちかけるのを縋りつく。それを払って突き退ける。そうはさせまい懸命にむしゃぶりつく。そんな一幕の騒動を先ほどから見もし、聞きもして、腸が千切れる思いをしつつも、力なく歯を食いしばり、悔し涙に咽せ返る榮吉は、よろよろと半ば起き上がりながら、
「もし、宗安様、宗安様、お情けでございます」と、掌を合わせて平伏した。
つづく