幸田露伴・田村松魚 合著 「もつれ絲」現代語勝手訳(2)
其 二
色は褪せているが、紺の鯉口(*袖口が小さい筒袖の上っ張り)に細帯をキリリと締めた甲斐々々しさ、すらりとした姿は、十六歳にしては大人びて見える。母が結った髪は銀杏髷で、丈長をあしらっているなど、装いは今風ではないが、未だ磨かれていない玉の光沢は、自ずと現れて、起居動作はしとやかで、身のこなしもきちんとしている。母のおこのの若かった時の面影を写して、眉のかかり具合、眼の冴え、口元に溢れるほどの愛嬌を具えているが、これも憂き目の数々に自ずと閉じた色深く、花なら深山の桜が人知れず雨風を嫌って咲き誇らずにいる風情を止めているような、そんなお須磨が、今ここに「ただ今帰りました」と、声を掛けたので、
「オオ、お須磨、今お帰りか。今日は平生よりも早いようだが、榮坊も帰ってか? さあ、ご飯にするからあちらへ」と言うのは、自分の涙を悟られまいとするためである。
賢いお須磨は早くもそれと察し、もしや父の身に何か変わったことが起こったのではないかと、胸轟かし、そっと父の傍に寄り添いながら、
「お父様、ご気分はどうでございます」と問えば、その声が耳に入ったのか、閉じた眼を力無げに開いて、
「オオ、お須磨か」とばかりじっと瞳を凝らして見ていたが、後の言葉も継げず、震える唇が青ざめるだけであった。
おこのは、傍らから、
「別にご気分にお変わりはないから、心配しなくてもいい。今日はお萱婆さんのところも大層忙しいということだったが、さぞお腹が空いたことだろう。どれ、今お茶を沸かしてあげましょう」と立ちかかると、
「あれ、お母様、お茶は私が沸かしますから、お母様はここにいらっしゃって下さい。お父様のご用が済んでお手が空きましたら、ちょっとお話しをしたいことがありますので」と、声小さく言って、そこを立ち、土間に降り、さしくべた松葉が竈の内外に雑然と乱れて火の気もなくなったのを掻き集め、手際よくこんもりと下を透かして、燐寸を擦るよりも早くパチパチと音を立てて燃え上がらせるのは、誰に教えられた訳でもないが、貧しさの中で覚えた手業に賢さが覗え、それが劫って余所目からは痛々しく見える。
おこのは茶釜の蓋の上にある茶袋に、真っ黒な色をした怪しげな葉茶を信楽焼の壺からつまみ出して入れながら、娘の方に向かって、
「お須磨や、話というのはどんなこと。榮がまだ帰って来ないけれど、何か間違いでもあったのではないか」と、気遣わしそうに訊けば、
「いえいえ、榮はあちらで午飯を済ませて、すぐに仕事にかかるのだそうでございます。私も仕事が沢山ありましたけれど、母様にお話しをしなくてはならないことがありましたので、帰って来たのでございます」と言う。
「オオ、そうでしたか。で、その今の、私への話というのは?」
「ハイ、マアお聞きくださいませ。あの、今朝ほどのこと、この村あたりではつい見かけたことのない人ですが、何やらあの博打漢の権次郎様に似たような顔付きの、それよりはもっと着ている衣も小綺麗で、物の言い方も温和しい四十ばかりの人がお萱婆さんの所へ尋ねて参りまして、この村に奉公に出そうというような娘はいないか。あれば、好い口があるので世話をしてやりたいと思い、わざわざここまで探しに来た。心当たりはあるまいかと言う話から、お萱婆さんが私のことをそれとなく話してみますと、その人が、それは見込みがありそうだ。その娘に会ってみたい、と申したそうで、お萱婆さんが私をその人の前へ連れて出たのでございます。すると母様、その人が大層私を褒めまして、良い縹緻じゃの、大人しいのと、しばらく私を見上げたり、見下ろしたりしていましたが、成程、村一番の縹緻好しで、村一番の孝行娘で、村一番の不幸者だと浦和の宿屋で聞いたのはこの娘のことか。思ったよりも好い縹緻じゃと、気味の悪い眼付きをして、私をなおも見ながら、歳はいくつ、名は何と言う、両親は、兄弟はと、そんなことまで種々と訊きますので、これこれでございますと、私に代わってお萱婆さんが受け答えをしますと、成程々々、それならその奉公口には打ってつけだから、是非とも世話してみたい、いずれ両親にはしっかりと相談しなければならないが、先ずその奉公先というのを一応聞かせておこうと、それから母様、その人の長い間の話をかいつまんで言いますと、その奉公口というのは千住とかいうこの村からは六、七里も離れたところにある大きな料理屋で、店の名前は『扇面亭』とやら言うところだそうでございます。土地の客人はもとより、東京へも遠くないところなので、わざわざここまで遊びに来る客人も沢山あり、土地切って繁昌する店のため、従って月々の給料も尋常の店よりは四層倍も五層倍も余計に出す上に、前借とか言って奉公に出る前に巨額お金を渡してくれるそうでございます。それにまた、奉公をした上では、主人からの褒美やら、客人からの心付けやらというものが種々ありますそうで、すべてこの上もない好い口だとのことでございます。何も初めて会って、見ず知らずの人の言う言葉を皆まで真に受けて聞きはいたしませんが、父様のご病気やら、母様のご心配やらを考えてみますと、そのような好い奉公口があれば世話をしてもらいたいと思う気持ちにもなりましたので、私からも一つ二つ聞き質しても見ますと、あちらも大層乗り気になっているような口振り。いずれ詳しいことは後ほどお前の家へ出かけて話をつけるが、その前にお前がちょっと一走りして、父様なり母様になり、コレコレの話を持ってきた男がいて、後ほど尋ねて行くと言うことをお前の口から話しておいてくれと申します。そんな話を聞いたので、お萱婆さんも、それは至極結構な話だから、早く帰って母様に話してみるのがいいだろう。お前の方での話の決着が遅くなるようなら、また他の娘を連れて行くという急な話で、少しでも早廻りをしておくのが好いだろうと、平生から私や榮を可愛がってくれるあの人が親切に口を添えてもくれましたので、決して悪いことはないだろうと思い、仕事を半分にして、急いで帰って参りました。詳しいことはいずれその人がやって来るでしょうから、母様が直接にお会いになって下さいませ」と、父の方には気を遣ってか、物陰でひそひそと話すのを一部始終聞いて、おこのは娘の顔をじっと見た。
つづく