幸田露伴・田村松魚 合著 「もつれ絲」現代語勝手訳(18)
其 十八
「オラが家の新宅の軒に熊蜂が巣を懸けて、今年四歳になる孫の安坊の右の耳朶を、その蜂奴が刺しおった。不届きな奴だと、兄貴野郎が腹ァ立てて、天秤棒で蜂の巣を叩き落とそうと巣口を揺ったと思わっしゃい。すると、蜂奴はわれが悪いのは言わねぇで、ブンブンいうて怒りくさって、また兄貴野郎を刺そうとする。で、負けん気の餓鬼じゃで、天秤棒を振り回して巣を突っつき壊したと思わっしゃれ。するとお前、何十万匹という蜂奴がワーッというて群がり立って、そこいら一面蜂だらけ。真ん中の餓鬼も刺されりゃァ、末っ子も刺される。オラの嬶の婆殿も皺だらけの頬ペタを刺されて腰ぃ抜かしたという大騒ぎだ。分かったかお主婦。これを比喩に取るでは無ぇが、どうしても物はあんまり最初っから荒立てては駄目じゃ。お須磨ッ子も丁度蜂の巣のようなもんで、あんまり手荒なことをすると劫っていじくれて、なおのこと聞き分けがなくなるようなもんだ。それでも、どうしても手に負えねぇとみたら、そりゃァまたどんな手立てでも出来るじゃ。可愛さ余って憎さが百倍と言うから、常日頃温和しい者が怒ったが最後の助。そりゃァもう許容っこは無ぇが、マアじりじりと責め立てたり、甘口で誑したりしてみるのが好かろう」という道理に適ったような言葉を、お主婦もそれももっとも至極だと肯いて、それからは悪びれた口調をひねくって、随分と念入りに、
「ご隠居様の言うことに従えば、お前の出世は言うまでもなく、国許の病気の父、貧しい母をも楽々と暮らさせることも出来るぞ」と、利をもって説き、恩を売って誘い、口が酸っぱくなるほど言い聞かせたが、蜂の巣の比喩もここにはまったく当てはまらず、針で刺したほどの効能もなく、であれば、いよいよこの上は非常手段とやらを施そうとお主婦は眼の色を変えて立ち上がった。
「オイ、お須磨、これ程事を分けてお前のためを思ってやっても、それでもそんなに剛情を張るんだな」と言いざまにお主婦は煙管を右の手に固く握りしめて振り上げ、逆さに吊り上げた眼で白眼みつけ、
「サァ、どうじゃ、どうしても嫌か。言うことが聞けぬか」と、じりじりと詰め寄せる。この時お須磨はキッとお主婦の方を振り向いて、
「何と仰っても嫌でございます。お擲ちなされても、お蹴りなされても、お言葉に従うのは嫌でございます」と、はっきりと答えて、凜としたその眼元、引き締まった口元に雄々しい決断の色を表し、大層恨めしげにお主婦の顔を凝視た時、
「何を小生意気な口を叩く。こっちから優しゅうしてやれば付け上がって、言いたいことを言いくさる奴。その頬桁がどっちへ曲がるか見やがれ」と言いざまに、ヒュゥとばかり風鳴りして擲ち下ろす煙管の笞は、お須磨の肩先に当たった。
「アレーッ」と悲鳴を上げると思いの外、ハラハラと両の眼から涙を落とすばかりで、キリキリと歯を噛み鳴らし、眼尻の揚がった眼をパッチリと見張りながら、蒼白になった顔色で、恐ろしい程お主婦を白眼み上げたその面は、優しい小女の面影とも見えなかった。
お主婦は、
「おのれ」と、猛り叫んで、なおビシビシと肩と言わず腰と云わず力を籠めて擲ち続けたが、そうやっても逃げ惑って援助を呼んだり、泣き叫ぶなどは少しもせず、身を悶えて「ヒィー、ヒィー」と息を切り、その都度の耐えられない苦しさの音だけを微かに立てるだけであった。
「おのれ、どこまでも太々しい女郎だ」と、お主婦は亭主を呼び、一緒になって細紐でひしびしと縛り上げ、今から思い知るまで折檻してやるぞと、鬼と蛇が右左から牙を鳴らし、眼を怒らせながら、擲く、蹴るなどを繰り返せば、いかに心が雄々しくても五体痺れる苦しさに耐えかねて、お須磨は身を藻掻きながら悶絶した。
それを小気味よしと言わんばかりに隠居は見やって、
「どれ、これを肴に一杯飲うか。アア、とんだ修羅場で眼が覚めたぞ」と、この隠居、どこまでも憎々しく出来た因業爺の死に損ないである。
つづく




