幸田露伴・田村松魚 合著 「もつれ絲」現代語勝手訳(17)
其 十七
年齢はまだ今年十六であっても、そして、田舎育ちで世間には馴れていないとはいっても、辛いこと苦しいことの限りを尽くし、父の教え、母の訓えは身に染みている。気立てはどこまでも大層優しいけれど、心は男より鍛えられているお須磨は、これまでこの善美しい性質を露ほどにも汚させることはなかった。
『道理に暗い婦でも意志が固ければ、その志は誰も動かすことは出来ない』という。(*論語の<匹夫も志を奪うべからずから>)
かねてから目にも触れ、耳にも聞いて、心で疑っていることが、もしも自分の身に降りかかる日がある時には、その厄難がどれほど我が身を苦しめようと、どうして婦女の操を汚し、教えを破る行いなどできようかと、眠られぬ夜半の心静まる折節に固く心に誓っていたのである。神以外誰がそんなお須磨の気持ちを翻すことなど出来よう。
稲村の隠居が白髪頭を振り立てて、様々に言葉を尽くし、手を尽くしたけれど、その甲斐もなく、お主婦が金切り声を絞って威嚇したり宥めたりしたけれど、それでもお須磨の心を動かすことは出来なかった。
その夜は隠居もお主婦も大手こずりに手こずって、呆れかえり、驚き入って夜は明けた。
お須磨は一ト夜を泣き明かして、死ぬ程に悲しかったが、いつもの通り、朝の仕事も昼の仕事もやり終えた。やがて日が暮れる頃ともなれば、あの隠居が早くもやって来て、一ト室に入ったのを見ると、お須磨の顔は思わず蒼白となった。
六十の今日になって小女一人を持て余していると言われては、草加の大金持ちの面目にかかると言うのが隠居自前の勝手な理屈で、こうなれば意地になってもと、薬缶頭に湯気を立てた。また、何年もこういう商売をしながら、大事なお得意客から前金までとって引き受けたことを、たかが一人の奉公人風情に手こずったとあっては、第一扇面亭という家号の名折れだと、愚かにも恐ろしく額に青筋を立てた亭主とお主婦、
「どうあってもお言葉に従わせます」とこちらが言えば、
「どうあっても自由にせずにおくものか」と相手も言い、色と慾との二つ道から、今夜も世にも恐ろしい責めを受ける運命が今まさに、お須磨の目前にまで迫って来た。
いつもは頼りにしない人でも、自分の身に悲しいことが多く降りかかってくる瀬戸際となれば、人恋しく思うのが世間の常であるから、お豊、お牧達の中に入って、自分の辛い思いを少しでも話すなどするのかと見れば、それもせず、お須磨はただ一人、人のいない所で正しく座って頭を垂れ、眼を閉じ、口を結び、両の手を膝の上に組み合わすようにして、心の中でかつて弟の榮太郎と一緒にお百度を踏んだあの鎮守の八幡の御名を唱えながら、
「八幡様、八幡様、恐ろしい家に迷い入りましたこの身を守らせたまえ。また父上も母様も自分を守らせたまえ。須磨のこの身を哀れとお思いなら、願わくばこの厄難を逃れさせたまえ」と、ただ一心にそれだけを祈念していた。
しかし、そんな折にも、
「お須磨、お須磨」と、荒々しい声を振り立ててお主婦の呼ぶ声がする。お須磨はその声が耳に入るや否や、思わずハッと眼を開いたが、答えはしないものの、悪びれもせず、直ちに立ち上がって声のする方に行けば、そこには隠居とお主婦がいた。
「サァ、お須磨、ここへお座り」と、お主婦は今度は大層やさしい声で言い、怪しく光る眼に笑みを見せて、
「お前、ご隠居様にお礼をお言い。こういう結構な品物を下さったんだよ。お前が可哀想だとお思いになったからこそ、これご覧、こんなマァ美しい結構な結構な」と、箱の蓋を取って中を自分も覗きながらお須磨の眼の前に置く。お須磨はそれには見向きもせず、伏し目になって、言葉もなし。お主婦は携えた煙管の雁首でお須磨の膝をちょいと衝き、
「これ、お須磨、お前はマァ何と言う物の分からない娘だね。人様から結構な品物を頂戴して、お礼も申し上げないのかね。これ、サ、お礼をお言い」と、七つ八つくらいの小児を宥めるような口振り。お須磨はなおも黙然と一言も発せず、真っ白い半顔を洋燈の光に照らせ、やや眩しげに横を向いてじっと眼を閉じた。
この時まで床柱に凭りかかって、じろりじろりとお須磨の顔を凝視めていた隠居は、耐えかねたように口を開き、
「お須磨、お前は其品を欲しくないか。浅草の仲見世まで俺がわざわざ買いに行って、いろいろと柄をよってその中で一番品の好いお前に似合いそうな、飛びきりの舶来というのを大枚叩いて買って来たのじゃ。欲しくはないか。よ、いらないか。よ、欲しくなけりゃ、お豊かお牧にくれてやるが好いか? よ、好いか?」と口はぱっくり開けて、目は糸よりも細い面をする。
それにもお須磨は答えもせずに、眼は元のまま閉じたきりであった。隠居とお主婦は顔を見合わせて苦笑いをしながら、小憎そうにお須磨を見て、
「これ、お須磨、しぶといにも程があるぞ。ご隠居様があれ程にやさしく仰って下さるのに、ご返事をしないという法があるか。あんまり剛情を張るとまた昨夜のようにするが、それでいいか。それを承知で張る剛情か。あんまり人を馬鹿にすると、今度こそ許さないぞ。サァ、ご隠居様の方を向いて、温和しくお礼を申し上げてお酌をおし」と言いながら、今度はグイと力を籠めて煙管の尖で一衝きすれば、よろりとしながらも再び正しく坐り、パッチリとした長い睫毛の眼を見開き、顰めた眉を少し揚げて、お主婦の顔をキッと見やり、
「お主婦様、あの、ご親切は有り難く思いますけれども、私は何も要りませんので、どうぞお豊さまへなり、お牧さまへなりとお上げ下さいませと、お主婦様からそう申して下さいませ」と言い切って隠居の方へは一目もくれず、澄ますというでもないが、自ずとツンと強めた様子は、寒梅一枝の花よりもなお清く、再び元のように顔をそむけて眼を閉じた。
「フフン、いやにきいた風なことをやりおるぞ。芝居でする昔の華魁の真似でもやりおるか。なるほど、仕草は豪えようにも見えるが、俺の眼から見ると、年齢が年齢じゃと慾気が無えところがどうも可愛くてならんわい。そこへ草加の大金持ちが惚れ込みもし、打ち込みもし、六十の歳をして血道を上げておるのじゃが。どうじゃ、ちっとはこっちの気にもなってみてくれんか。お須磨や、お須磨ッ子や、何でお前はそんな美しい可愛い顔をして、心の中が剛情だ。意地の勝ったのは悪くはないが、剛情張りの執拗い女郎はどこの在所でもよくは言わねぇぞよ。いい加減にこっちを向いて、笑うてみや。ナァ、花が咲かにゃァ酒も飲まれねえ」と、愚痴の交じった言い草も老人だけに気長に口説き立てるが、お主婦は聞いていられないと思ってか、急に立ち上がろうとしたのを、
「マァ待て、まだ夜は長い。これもまた面白かんべい。急いてはものを仕損じる。三年経てば石の上でも温うなると言うじゃ。今夜は一つ根比べをしてみようかい。お主婦、注いでくれ。手酌もへんてこなものだ」と、この老爺、どこまでも気が長いのは、思うに前世は牛だったのだろう。
つづく




