幸田露伴・田村松魚 合著 「もつれ絲」現代語勝手訳(16)
其 十六
何日のことだったか、火事で村の学校が焼けた時、その建築費用のための寄付金を募ったところ、小百姓の権兵衛、八兵衛でさえ二十、三十と纏まった額を出したので、稲村あたりはそれの五層倍、十層倍の百、二百というところだなと、寄付金帳に予算案を立てた村長殿だったが、『これはどういうこと!』とばかりに眼を丸くして吃驚した金額。
「これではいくら何でもご名誉にもかかわりましょう」と話をしたが、隠居殿は空吹く風と嘯いて、
「それで悪ければお止めなされ」と一言の下に撥ね付けた程で、評判はますます高まったと言うくらい公共心とやらにかけては全く関心が無い隠居殿。しかし、婦人と見ては、眼も鼻も無くして、後生より先に金の功徳を願うという強の者であるから、お須磨を前に座らせての眼付き口付きも大方想像出来るというものである。
お須磨は自分の祖父とも見える白髪頭の爺様が酒に酔い痴れ、歌を歌い、手を拍ち、足を躍らせ、談話と言えば婦人のことばかりで、噂と言っても色里のことしかしないので不思議に思うばかりであったが、孫とも見える自分を、
「お須磨よ、お須磨よ、姉様よ、姉様よ、美しい顔じゃ、好い縹緻じゃ。この俺がどうにかしてやるが、嬉しくはないか。こうもしてやるが喜ばしくはないか。芝居も見せてやろうぞ。寄席にも連れて行ってやろうぞ。食べたいものがあるなら何でも言え、衣物もそんな不美い双子織や瓦斯織の布子ではないぴかぴか光った艶のある見事なのを買ってやろ。帯も頭のものも下駄も傘もついでだから皆一緒に背負いきれない程買ってやろ。嬉しいか。有り難いか。嬉しければこのお爺さんの言うことを聞け、有り難ければこの俺の言う通りにしろ」と、お須磨の手を握って膝の上に引きつけるまでにして、くどくどと、口説き立てる有り様。余りといえば言いようもない挙動。嫌らしいと言うよりも怖いと言うよりも、呆れ果てた振る舞いに、何の返答も出来ず、小雀が大鷹に捕らえられたよりもなお哀れに身を縮め、手足を縮めて、
「どうか、お客様、私が悪うございます故、堪忍して下さいませ」と唇を震わせ、顔の色も青ざめながら詫びると、隠居は持て余し、
「これよ、お須磨ッ子、どうしたものじゃ。お前は今年幾つになる。十六歳にもなって、そんな戯けたことを言う奴があるか。分からんにも程がある。サァ、よく物を聞き分けて俺の言うことを聞け。お前の返事次第で、ここのお主婦も喜ばせてやる。またお前も喜ばせてやる。サァ、どうじゃ」と言う。
「あの、お客様、私は何も分かりませんので、どうぞお許し下さいませ。悪いことがありましたのなら……」と最後まで言わせもさせず、
「ハハヽヽヽヽァ、面白い面白い、これでこそこの俺様が迷うだけの値打ちがあるというものじゃ。正札付きの生娘がざらに転がっている世界ではないのに、こいつは不思議じゃ。有り難いじゃ」と隠居は何か頷きながら握ったお須磨の手を放って、お主婦をここへ招べと命じた。
お須磨はホッと一息ついて、跳ね起きながら、慌ただしく下室へ降り、帳場に座っていたお主婦の前に平伏しながら、
「あのお客様は怖いお客様でございます。私は何も悪いことはいたしておりませんが、言うことを聞けと仰って、無理に私を引き寄せて手籠めにもなさりかねないようなことをなされます。私には何だか分かりません。どうかお主婦さまあなた様からお詫びを申し上げて下さいませ。私では分かりませんので。お主婦様を呼んでこいと仰っております」と息を切って、はらりと下がった後れ毛を恥ずかしく思ったのか、やや紅色をした頬のあたりに乱れ掛けさせ、声もおろおろと訴えれば、お主婦はしたり顔で、口尻に皺を寄せて笑いながら、
「オホヽヽヽヽ、何もお前、そんなに怖ながることはない。あんまりお前が可愛らしいから、お客様がおからかいなさるのだ。お前のためにああいう方はまたとない人だから、大事に大事にして、あのお方の仰ることは何でもハイハイとお言葉に従わなくてはならない。お前は知らないだろうが、あのお方は草加というところの大金持ちで、この辺では名の通ったご隠居様だから、そのつもりでご機嫌を取らなくちゃいけない。ちっとも怖ないことがあるものか。あんな親切しい情けの深いお方がお前の面倒を見てやろうと仰るのだ。沢山と甘えて、お爺様、お爺様とお膝の上にでも乗っかって頤のお髭でも毟っておあげ」と、こともなげに言えば、
「でも、お主婦様、何を仰るのやら、私にはよく分かりません。お主婦さまを招んで来いと仰いましたので、あなた様がお出でになって下さいませ」と、前髪を震わせながらやや眼の色を輝かせた。
「どれ、そらなら私が行ってあげようか。いずれこうなることになるとは思ったが、余りに気が早すぎるようだ」と言いながら立ち上がり、広袖の着物に三尺帯、横になりながら講談本を読んでいた亭主を振り返り、
「もし、お前さん、もうあっちから切り出してきたようだよ。パッと見でもよほど思し召しがあるようだから、絞れるだけ絞ってやろうと思うけれど、どうだろうね。ああいう手合いにやぁこちらもその気で掛からなくっちゃァ馬鹿を見るから」と、小声で言う。
「ムゥ、それもそうだが、いい加減に見切りをつけるところは付けねぇと飛んだヘマをすることにもなるぜ。だが、最初にやァちっと大きく出る方が好い」と、言いながら本を伏せて、女房の耳に口を寄せた。
お主婦は何度も頷きながら、隠居の前に出て行った。隠居は目を斜めにして、お主婦に向かい合った。酷く酔っていたと思っていた隠居がにわかに真面目な顔になって、お須磨の身の上の概略を尋ね、それからはそろそろと言葉の方向を変えて、自分の言うことに従わさせろということを、先刻までは後先も弁えないように馬鹿の一つ覚えのように繰り返していた口ではあったが、今度は大層巧く持ちかけた。
お主婦は『おいでなすったな』と、臍の緒を固め、こちらも少し真面目な顔になって、
「実は今お話しいたしました通りのあの子の身の上、こちらの奉公人とはいうものの、少しは他の女どもとは訳の違う謂わば預かり物のような娘でございますので、少し話しが難しゅうございますが」とまで言って、ひとまず言葉を切り、煙草を合いの手という風に、ここで先方の顔色を見抜いて、次に吐くべき言葉を用意し、
「さて」という一言を掛け声に、
「それはまたお話し次第でどうともなりましょうが、ご覧の通り、あの容色であの歳、生無垢の上玉と来ているのでございますから、そこのところのお話合によりまして」と、正々堂々たる陣立て。
「イヤ、それはもう言うだけ野暮じゃが、どうじゃ、善は急げで俺の方もお前の方も手っ取り早く相談を決めた方がよかろう。そこでお主婦、これではどうじゃ」と指を出す。
「ヘエ、あなた、もし、ご隠居様、ご冗談を…………」と、空笑い。
「折角の思し召しではございますが、どうもそれだけで預かり物の生娘を疵にする程の因業も出来ません」と、強く出る。隠居の方も弱みにつけ込まれてはと手を引かない気合いを見せる。引かれてはと乗って出ながらも足元を見透かされまいと、双方しばし睨みあっていたが、隠居の方から再び打って出て、
「それならこれと」不承不承、指の数を多くする。
「イヤ、それでもと」お主婦が突っ込む。
両人の談話はややしばらく続いたが、やがてこの辺が見切り時だと思ってか、お主婦と隠居の話しはとりあえず折り合った。
お主婦は下に降りてきて、お須磨を前に招びつけ、
「あのお客の言うことはどんなことでも背いてはならないよ。背かなければお前には、少なからず得があるだろう」などと言葉巧みに言い含めて、再びお須磨を二階に行かせた。
つづく




