幸田露伴・田村松魚 合著 「もつれ絲」現代語勝手訳(15)
其 十五
世間が不景気になるにつれ、扇面亭の門にも客足は伸びず、大橋はあちらとこちら、南と北のどちらもあるが、千住の遊廓と呼ばれていて、紅い裲襠(*打掛)に色香を競い、吸い付け煙草(*下部の注参照)の愛嬌で道行く人をも呼び止めるとなれば、たまに一夕の夢を買おうという者がいたとして、大方の男はそちらに足を向けるのが普通である。となれば、はるばる千住に遊ぼうと来た人も、橋詰の稲荷寿司で腹ごしらえをして、鮒の雀焼を手土産にするくらいのもので、料理屋の看板だけを上げて客を呼ぶのは並のことではとても追いつくものではないとか。
お須磨は三日、四日とほとんど同じような毎日を過ごす中、主人やお主婦の店の切り回し方もほぼ分かり、同僚の誰彼の気心も大方は飲み込むようになった。それとともに、かつて平九郎が話していたことはほとんど一つとして真実のことはなく、根拠もない虚言だったということを悟った。しかし、そうであっても、どうして平九郎がそんな虚言を言ったのか。義侠心が止み難くて、自分を世話するのだと言った言葉には似もつかない事実との相違、これには何か仔細があることだろう。何時か平九郎に会った時にはそれとなく事情を聞いてみよう。母様には何事もご心配されませんようにと申し上げて、詳しいことはこの前の手紙にも書いたが、一昨日の夜のこと、あの意地悪のお牧が、かねてからの馴染み客とやらと一緒に、普通の家にしては見たこともない床の間や窓などの怪しげな一室に入ったこと。昨夜、お豊が同じくその室に入って、明け方までいつも寝ている室に帰って来なかったことなど、どんな事情があったのかはっきりとは分からないけれど、怪しい挙動がその中に絶対無いとは言えない。もし、自分の身にもこんな怪しいことが降りかかってきた時には、自分はその時どう気持ちを決めるべきか。いや、今更恐れることではない。かねて覚悟もした身は、あくまでも自分は自分の心の操を正しくして、婦女としての身の品行に恥ずかしくないような振る舞いを取る他はないと、お須磨は目に触れ、耳に聞く毎日のあれこれが、どれもこれもどこか怪しいことばかりであることからそう心に決めた。
お須磨が扇面亭に来て五日目の夜のことであった。今夜も客の入りが少ないと、例のごとくお主婦の額が物難しそうに見え、お豊を始め、いつもの居眠りなどを始めたところへ、何時になくお主婦自身の案内で、のっさのっさと上がってきた一人の客人、どこで飲んできたのか、お牧などに言わせれば『金太郎の火事見舞い』みたいな顔をして、熟柿臭い息をフフフと吐きながら、ずっと床柱を背にして胡座を組み、
「これ、お主婦、どこからのお帰りなどと野暮を言うな。草加村の稲村のご隠居様がただの所からお帰りと思うか。一昨昨日の晩から今夜の今まで、三日三晩というものを流連して、嫌という程可愛がられてのお帰りじゃ。サァ、そうことが分かったら、そのように気を利かしてお口に合うようなものを持って来い。これ、お主婦、何がおかしい。ご機嫌が好いのは当然じゃ。ハハヽヽヽァ、マァ、そこへ座れ、ちっと聞きたいことがあるじゃ。イヤ、言うまい。今に分かればそれで好いじゃ。お主婦、イヤと言う程可愛がられてきた今夜じゃぞ。シンコの美味のが…………あるか。酒の肴はシンコじゃ、シンコじゃ。ハハヽヽヽァ」と一人で大口を聞いての太平楽。歳は六十の坂にも手の届くべき年輩であるが、脂ぎった顔はテカテカと照り輝き、デップリと肥え太った身体は見るからに物凄いけれども、どこか福々しい隠居姿。草加在の大金持ちと自分から名乗る稲村の隠居様。若い時は肥料桶を肩に、霜の朝の都大路を間抜けな声で呼び歩いていた者が、六十の今日はどうした幸運の巡り合わせか、三戸前、四戸前の土蔵を構えて、五本の指にも数えられる身代。親に似ぬ堅物の息子殿に一切を任せて、自分はこの世の極楽に苦のない生活。四十を過ぎてからの道楽に止む時は無く、この歳になっても若い者の先を越した女買いの達者もの。千住の北から南まで、草加の大金持ちと言えば、ムゥ、あの稲村の隠居か、稲村の隠居と言えば、成程草加の大金持ちかとまで有名となれば、自分もその気になって大金持ち風を吹かせ、鳥のいない里に蝙蝠の羽翼を広々と広げたような面構え。金銭がそうさせるのだろうが不思議なものではある。
その稲村の大金持ちの酒の上の一言も、商売に抜け目のないお主婦は早くもそれと見て取ったか、どこを押せばそんな音が出るかと思うくらいのやさしい声で、
「オホヽヽヽ、ご隠居様の、マァ何とご機嫌の好いこと。三日三晩も可愛がられ通しでお出でなされては、それはそれは、もうもう、女の子にもお飽きなされて、その上、可愛らしい顔でもご覧なされば、それこそご頭痛をなされることでございましょう。では、私共では、その心得で、ハイ、さらさらとお茶漬けのあっさりしたところを。オホヽヽヽ、お誂えのシンコの美味しいところを差し上げるというような寸法にでもいたしましょうか。オホヽヽヽヽ、それにしてもマァ、お耳の早いこと。どうしてご隠居様のお耳に入りましたか。いずれこちらからお知らせいたしましょうと思っておりましたところへ、やっぱりご縁がありましたと見えまして、お立ち寄り下さいましたように思えます。オホヽヽヽ、蛇の道はヘビと申しますが、恐れ入りました。オホヽヽヽ」と、お世辞笑いも大袈裟に、相手の気持ちを受け入れ、この煽動に乗ると見て取ったか、急にまた声を低め、真面目顔して、
「こりゃ、あの、お須磨や、お須磨や」と呼ぶ声に、
「ハイ」と答えて、お須磨はやって来た。
「イヨ、こりゃ、お主婦、驚かせるぞ、驚かせるぞ、隣村の遊び友達の七兵衛の話では、俺が馴染みの玉琴も扇面亭のに比べては鳳凰の傍へ鶏を持っていったようなものじゃと言いおったが、成程、これァおっ魂消たぞ」と、底光りのする眼の尻を下げて、じろりじろりとお須磨を見やり、
「どうもこりゃァ、お主婦、大したものを掘り出したな。黄金の茶釜、黄金の茶釜。よしよし、稲村の隠居の眼に留まった上は、磨きを掛けてズンと値打ちを出してやるべい。あの、これよ、姉様よ。お前の名前は何と言うかよ。可愛らしい顔をして、そんなにツンとするもんじゃない。何? 恥ずかしいのじゃと? これ、お主婦はもう用がない。サッサとあっちへ行って、お手が鳴ったらお伺いに来るだ。ハハハハハァ、現金だ? 何が現金だ。現金でも前勘定でもそんなことはどうでも好い。草加の大金持ち様じゃ。安心して亭主殿を喜ばしてやれ」と、隠居は無性に悦に入りながら、
「姉様や、これよ、姉様は名は何と言うかよ」と、舌ったるいような声で頭を左右に振って訊く。
「ハイ、私は須磨と申します」と、お須磨は微かに答えて、差し俯く。
「何じゃ? 須磨じゃ? それじゃァお須磨さんという名か。好い名じゃ。好い名じゃ。歳は幾つじゃ?」
「ハイ、十六歳になります」
「何じゃ? 十六じゃ? 好い年齢じゃ、好い年齢じゃ。父親はいるか?」
「ハイ、父親はおります」
「おるか、好い親父じゃ、好い親父じゃ。お袋はおるか?」
「ハイ」
「おるか、おるか、好いお袋じゃ、好いお袋じゃ。兄弟は?」
「ハイ、弟がおります」
「おるか、おるか。好い弟がおるの。それで亭主は? …………やァ、こりゃ失敗った。亭主が現れてたまるものかよ」
注:「吸い付け煙草」……遊女が店の前で顔見せをして、前を通る男を見ている中、気に入った男がいると、その男に対して、自分が咥えている煙管を差し向けて、引き入れようとする行為。
つづく




