幸田露伴・田村松魚 合著 「もつれ絲」現代語勝手訳(14)
其 十四
怖そうな目つきをした主人も、意地悪そうな口元をしたお主婦も、その顔の情深くは無さそうなのには似ず、お須磨、お須磨と優しい言葉を掛けてくれ、同僚のお牧というのは何かにつけて自分を邪見にするけれど、お豊というのは少しは自分に贔屓して、可愛がってくれそうである。
客も難しそうな者はおらず、先刻の両人伴の人は、余りに自分だけを褒め立てて、気の毒がってくれたので、劫ってお牧さんの気を悪くさせてしまったけれど、それは自分が悪い訳ではないので、もしお牧さんが自分に小言を言ったなら、その事情をお豊さんに話して詫びをしてもらおうなどと、小さい胸に取り越し苦労をしながらも、暮れ行く空や忙しい大路の景色を眺めていた。しかし、ぼんやりしていて叱られてはと、そこを離れれば、早くも店も二階も洋燈の光りが花やかに輝いて、夜客の来るのを待つように、切火(*火打ち石と火打ち金とを打ち合わせて起こす火)などを打つ音が賑やかに聞こえ、四方が景気づいたようであった。
今夜はどうしたのか、まだ誰も来ないじゃないかと、お主婦が長火鉢の傍で煙管を叩く音がすると、それと同時に「いらっしゃいませ」という声につれて、ドカドカと上がってきたのは、少し時節遅れではあるが、鴻之台辺りに紅葉見物へ行った帰りだとも思える、紅葉の枝に小瓢箪を付けたものを肩に掛けた人など、皆立派ないでたちの四人同伴。面白いこと、おかしいことばかりを言い合って、酒を夥しく飲み、歌などは歌わず、詩を吟じる人、歌の真似のようなことを声高く唸る人、いずれも他愛なく笑い、お豊にも、お牧にも、お須磨にも同じようにわざとらしくないお世辞も言い、嬉しがらせなどもして、ひとしきり騒ぎ、これから何楼とかへ繰り出すのだと、大意気込みで帰った後は、一人のしみったれた客もあっただけで夜は次第に更けて行った。
お豊もお牧も、こくりこくりと居眠りを始めたので、お須磨はその間に床の間にあった硯を引き寄せて、紙を取り出し、両人の眼を盗みながら私かに両親への手紙を書こうと禿筆の先を白歯で噛んだ。
お手紙を書き送らせて戴きます。
お父上様、ご病気の具合はいかがでございましょう。お気遣い申し上げます。お医者様は倉田先生にお掛かりのことだと思っております。母上様にはお変わりもないことと安心いたしております。
さて、私はお別れしてから、その夜は浦和に泊まり、その朝早く発ちまして、昼過ぎ頃に、千住という所へ着きました。それから、あの平九郎さまの所へ参りましたところ、平九郎さまの家は思ったよりも小さい家で、母上様に申し上げておりましたような好い暮らしをされているとは、私には思えません。けれども、おかみさまも親切に色々とお世話をして下さり、それからは平九郎さまにつれられ、扇面亭へ参りましたが、ここも思ったよりは小さい料理屋でございました。千住一番の家ではないと思われます。ご主人様もおかみさまも、先ずは好い方で、可愛がって下さいます。昨夜は早くやすみ、今朝からお客様の前にも出るようになりました。勤めは少しも難しいことはありませんのでご安心下さい。どんな辛いことがあったとしても、覚悟の上でお別れしたことなので、立派に年期だけはお勤め申しますので、これもご安心下さいますように。
同僚の人などは、平九郎さまは行儀作法などしっかり心得ているようにお話しておりましたけれども、そのような人は見当たらず、不思議な思いでおります。しかし、悪い人ではなく、私を可愛がって下さっておりますので、これまたご安心下さいますように。お客様も余り沢山はおらず、まだ分かりませんが、お客扱いはそんなに難しくはないように思われます。
とまで、書いた時、眠っていたお牧が吃驚したような声を出して頭を上げ、きょろきょろと四方を見廻したので、お須磨は驚いて手早く紙を袂の中に押し隠したが、お牧は早くもそれを見て取り、
「オヤ、オヤ、オヤ」と言いながら、立ち上がって、お須磨の傍に駈け寄り、
「お須磨さん、お前は何を書いているの。私なんかが居眠りをしていると思って、好い気になって情夫へ遣る手紙を書いているのだろう。ちょっとお見せ」と、手を延ばす。
「あれ、お牧さん、そんなものではありません。あんまり退屈でしたので、ちょっと悪戯書きをしていただけでございます」と、八ツ口(*着物の脇の下の部分が空いている所)をしっかりと押さえてさし俯く。
「オヤ、この子はしらばくれているよ。悪戯書きをしていたなんて嘘をお言い。やっぱり私が言ったように情夫をこしらえて土地にいられなくなったもんだからここに来たんだろう。それをお前さんは親のためとか何とか言って、変に澄まし込んで、温和しぶってるから癪に障るよ。サァ、お見せよ。何と書いてあるか。お手紙を差し上げます。さて、お前様はとか何とか、甘ったれたことを書いているのだろう。ちょっとお見せと言ったらお見せよ」と、意地悪くも付け寄ってくる。お須磨は見られまいと身を屈めて袂を掩いながら、
「ほんとにそんなものではありません。どうぞ堪忍して下さい」と声を震わせば、
「オヤ、堪忍も糸瓜もないじゃないか。お前さんは情夫に文を書くような度胸を持っているのに、イヤに気が弱いじゃないか。オホヽヽヽ、そんなに見られて悪いもんなら人の前で書かないのが好いさ。お前さん、字が書けるの? いろはが書けるの? いろはが書けると思って生意気にそんな真似をするから見つかるんさ。あたいなんかァ情夫に文を遣るんなら大っぴらだよ。ちっとも隠さないよ。お前さんなんぞのは、いろはばっかりだろうが、あたいなんかはこれでもたまにゃァ本字(*漢字)が入ってるよ。お豊さんの文だってあたいが書いてやるんだよ。何も字を知らないもんだと思って馬鹿におしでないよ。悪戯書きだなんて、人を馬鹿にしてらァ。悪戯書きなら見せたって好いじゃァないか。お見せよ。どれだけ書くかお見せったら」と、執念くもまた取り付こうとする。見せまいと身体を退く。見ようとつけ入る。その物音にお豊が目を覚まし、
「マァ、お前さん達は何をしてるの」と駈け寄って来た。様子を聞いて、お牧を宥め、お須磨を誡めなどしていたが、そんなところへ歳頭のお松というのが上がって来たので、この一幕は何とか静まった。
やがて夜も深くなって、皆床に就いた。お須磨はお牧等がすっかり寝静まったのを見計らい、カンテラの光りの下で、先刻の手紙を後を私々と書き続けた。
お客様は難しくはありませんが、同僚の中に一人意地の悪いのがおります。
と書き加えたが、良くないことを母様に知らせて、この上ご心配を掛けるのも心苦しいと、賢明にも思い返し、その部分を墨で黒々と消し、さらに、
何卒ご心配下さいませんよう。お父上様、ご病気くれぐれもお大切になされますようお祈りいたしております。母上様もこれからもお身体お大事になされますよう、榮もおとなしくご両親様にご孝行されるよう。
先ずは取り急ぎ。あらあらかしこ、
ご両親様御許 すまより
と書き終えて、静かに読み返せば、涙は自ずと溢れて頬を伝う。それをじっと寝衣の袖で拭いながら、所々に筆を加え、削りなどしている折しも、カンテラの油が尽き、パッと一瞬明るくなったかと思うと、たちまち火は消え、四方は黒白も分からない闇となって、耳に歯軋りの音だけが物憂く聞こえた。
つづく




