幸田露伴・田村松魚 合著 「もつれ絲」現代語勝手訳(13)
其 十三
お須磨は気が張っていたので、一夜をまんじりともしない中、早くも一番鶏、二番鶏の声を聞き、障子に白く薄明かりがさした頃から、他人より遅れてはと起き出した。仕事着の上に細帯を締め、姉様被りで頭髪を包み、昨夜お主婦から命令られた通り、二階の座敷の掃除に取りかかり、二室ばかりを掃き終えたところに他の婦も起きてやって来たので、
「皆さま、おはようございます」と、手拭いを取って挨拶をすれば、
「おはよう…………、ほんとにお前さんは早起きだねえ。オヤ、もうこっちの方の掃除は済んだの? じゃあ、あの室もついでに掃いていておくれ」と、眠たげな眼を擦り、生欠伸をしながら、お牧、お豊などが下に降りて行き、やがてバケツに水を運んで来て、床の間、縁側と雑巾掛けなどをしていると、今度はその中に立ち交じって、人一倍に働き、額に少し汗の滲むほどになった頃、ようやく朝の仕事を終えた。主人もお主婦もお須磨が歳にも似ず、甲斐々々しくも、要領よく立ち動いているのを見て、心の中で『好い婦を抱えたぞ、あの平九郎の働きにしては近頃にはない大出来だ』と、密かに私語いた。
昼は客足も少ないので、さして忙しくはない。東京辺りから行楽などに出かけてきた洋服の二人連れの書生風の男が昼餉を済ませて帰った後、片付けなどが終わり、お須磨は一人廊下の欄干に凭れ、庭木が木の葉をハラハラと風に舞い落ちるのをじっと眺めていた時、向こうの縁側の日の当たる好い所にお豊、お牧などが客布団を敷いて、べったりと坐り、男の噂か、芝居の話か、何か分からないがひそひそと語っては素っ頓狂な声で笑いさざめき合っていたが、お豊というのが振り返って、
「お須磨さん、こっちへ来て皆とお話し。一人ぼっちじゃ淋しかろう」と、親切に声を掛けてくれたので、
「ハイ、ありがとうございます」と、そちらに行けば、
「マアこっちへお座り。お前さんの頭髪はいつ結ったの? ほんとに好い髪だこと。で、お前さんは浦和という所から来たんだって? 何なの、情夫とでもいうのがいて、その男のために苦労をする覚悟で来たんだろう? 十六にしちゃぁ、お前さんも随分意気がった真似をするじゃないか。ちっとお惚気でも話しておくれよ」と、笑いながら言う。
お須磨は心の中で、思いも寄らない問だと驚きながら、
「あの、私はそんな男のためだのというようなことでこちら様へ奉公に参ったのではございません」と言うと、
「そんなにしらばっくれなくても好いじゃないかね。お前さんのような美しい顔をしていちゃァ近所の男が大騒ぎをやったろう」
「オホヽヽヽ、あんな真面目な顔をして、この娘はまだ初心だよ」と言うのを、一人が、
「何ァに猫を被ってるのさ。十六にもなって、お前、こんな所へ来て稼ごうというんじゃないか。ねえ、お須磨さん、ちっとは惚気てみてさ」と言う言葉を、お須磨はよく理解出来なかったけれど、話している意味は大方受け取られ、自分は淫行が原因でここに来たもののように思われているのかと思うと、非常に口惜しく、
「あの、私は悲しい訳がありまして、父様や母様のためにここへ参ったのでございます。父様は長のご病気、母様はそれをご心配なされて……」と話し掛けるのを、
「何だね、オホヽヽヽヽ、イヤに哀れっぽくなって来たじゃないか。そんならお前さんは親のためにここへ来たの? オヤ、マァ、それはお気の毒ね」と、話しをしている中に二人の客があって、今回はお須磨の番だったので、と座を立った。
白っぽい半纏着に三尺帯を締めた男と、無地紺の腹掛け股引きに手拭いを肩にした男で、いずれも意気がったつもりの格好は小塚原あたりの妓夫(*遊女屋で働く男)とか、その仲働きとかいう者だろう。お牧というのが知った顔と見えて、
「オヤ、千ちゃん、初ちゃん、お揃いだねぇ」と声を掛けながら、そちらの方へ行けば、
「今日は引番だから来たんだが、美味もんはあるか?」と言いながらドッカと大胡座をするところへ、お須磨は煙草盆などを運んで、
「いらっしゃいませ」と言う。
千というのが、ジロリと見て、
「ヤア、初公見ねぇ」と、指をさす。
「オヤ、とんでもねぇ綺麗首の新子だぞ。こいつは吃驚だぜ」と、両人は同じようにジロジロとお須磨の顔を見詰めれば、お須磨は恥ずかしげに俯きながら、
「あのう、お誂えはいかがなされます」と言う。
「ハヽア、可愛いじゃねぇか。ものの言いようが古風で馬鹿に好いや。何でも美味いものを沢山持って来るんだ。お前のような別嬪が酌をしてくれるんだったら、酒の味も格別だろう。ナァ千公、そうじゃねぇか」と言う。
「そうとも、そうとも、こんな好い姉さんが傍についていてくれるんだ。どしどし何でも持って来ねぇ」と、にわかに威勢がよくなるので、お須磨は煙に巻かれてまごまごする。その傍らからお牧が口を出して、
「ほんとに千ちゃんも初ちゃんも気が多いよ。あのコレに言いつけてやるから」など口やかましく言う。お須磨はやがて下へと降りていった。
両人はお須磨を前に座らせて飲みながら、
「オイ、姉さん、お前の名は何と言うんだ」
「ハイ、私は須磨と申します」
「ムゥ、お須磨ちゃんか。馬鹿に好い名だな。何日此亭へ来なすった」
「昨日参りました。何にもまだ分かりませんので、よろしくお願い申します」と、思いきって言う。
「オイ、聞きねぇ、昨日来たんだとよ。ちっとも擦れていない所が嬉しいじゃねぇか。こんな所にゃァ勿体ねえ代物だ。掃き溜めに鶴たァこのことだぜ。海老屋にだって、世界楼にだって、こんな上玉はありやしねぇ」と言う。
「ほんとだ。珍しい縹緻だ。こんな所に女中などをさせておくなァ惜しいもんだ。オヤオヤ? 姉さんどうした。怒っちゃァいけないぜ。お前のことを褒めているんだ。サ、一つ差そうじゃねえか」と言いながら、千が猪口を突きつけた。お須磨はおずおずしながら身を除け、
「私は不調法でございます。それよりお酌をいたしましょう」と、銚子に手を掛けるのを抑えて、
「マァ好いやな一杯くらい好いじゃないか、姉さん。ハハヽヽヽ、そんなに恐ながらなくても好いや。オイ、初公、酌をしてやってくれぇ」と、両人で無理に酒を注ぎ、
「サァ、綺麗にあけて頂戴しよう」と、お須磨の初々しい挙動を面白がって、からかい半分に強いる。
「あの、私はどうしても戴けませんので、どうかお許しなされて下さいませ。これ程戴きましては仕事ができません」と、傍らに盃を置いて恨めしげにそれを見詰めた顔は夕陽を受けて花やかに非常に美しい。両人はそれに見入りながら、
「どうだい、初公、馬鹿に可愛いじゃねぇか。何だか妙にへんてこになって来たぜ。こんな罪のねぇ顔を見せられると、いかにお前でも手は出せめぇ。祝儀でも奢ってやんなよ。可哀想に」と、真面目顔。
「ほんとだ。少し気張ってやろうか。他の奴なら銭一文だって出す兄さんじゃねぇが。オイ、姉さん、何だかお前が気の毒だから、これを」と、鼻紙にひねったものを投げ出す。お須磨は何度も礼を言って手に取ったところへ、お牧がやって来て無作法に坐り、
「何だか今日はいやにおとなしいじゃありませんか。千ちゃん、お酌しましょう」と、銚子を揚げれば、
「オイ、オイ、打棄っといてくんねぇ。同じ酌をしてもらうんならな、正直な所、美しくって可愛らしいのが好いや。なァ初公」と言う。
「そうともそうとも、酒の味が違わァ。お牧さん、お気の毒だが他にあるとよ」と、嫌がらせを言う。
「オヤ、これは悪うござんしたね。他にあるって、例のかえ? フン、飛んだお惚気だね」と、お牧がムッとして言えば、
「ヘヘン、例のじゃねぇ、新情婦が出来たんだ」と、言い返す。
「オヤ? 新情婦が? どこにね」と言うと、
「ここにちゃんとお須磨ちゃんというのが居らァ。話しの邪魔になるから、ちっと気を利かせてもらいてぇや」と、どこまでも素っ気なく言ってお牧を弄ぶ。お牧はムゥとして膨れた頬をひときわ膨れさせ、
「お美しいお方は違ったものさ。お須磨さんが羨ましいもんだわ。何だ馬鹿馬鹿しい」と、ぷりぷりしながら畳を蹴立てて向こうの方へ行くのを両人はドッと囃して、「面白いねぇ」と笑う。
お須磨はお牧の手前、とても辛く、『どう言って詫びればいいのか。さぞ怒っていることだろう』と、気に掛けて心配顔をすれば、初はそれをも面白がって、
「千公、お前があんなことを言うもんだから、この子が心配をして居らァ」と言えば、
「だって、そうじゃないか。同じ酌をしてもらうんなら、ねぇ、オイ、姉さん、お前だって俺等に酌がしたかろう。ハハヽヽヽ」と、またどよめく中に、お須磨はただ一人取り籠められ、立とうとするのも許されなくて困り切った。
この客も去って、その日も暮れ始めた。お須磨は表二階の窓に立って、大路を見渡した。街灯が二つ、三つチラチラと灯って、行く人帰る人、下駄の音、車馬の響き、非常に忙しげではあるが、夕暮れる空は何となく物淋しく、お須磨は雲の行く手をじっと眺めていた。
つづく




