幸田露伴・田村松魚 合著 「もつれ絲」現代語勝手訳(12)
其 十二
千住切っての有名の料理屋と言えば、家の構えもさぞかし立派だろうと、お須磨は平九郎の後ろに従っていたが、ここがその扇面亭だと言われて首を上げれば、低い家並みと軒を並べての二階作り。間口だけは少し広いけれど、焼杉板で外囲いをして、松、槇などの植え込みも疎らな中に、骨細な家造りのひょろひょろとしたのが建っていて、色硝子を嵌めた障子は浦和辺りにでもよく目にした小料理屋風の店先であった。自ずとその家の土台も危ぶまれる程で、硝子に『御料理』と読ませた瓦斯燈まがいの小さい行燈が門の上に掛かっているが、夕暮れも近い頃となっているので、火が灯されて薄い光を僅かに放っている様は何となく物淋しく見える。客もいないようで、人の声も聞こえず、人の出入りもない様子。お須磨が少し訝しく思っていると、早くも主人が現れる運びとなり、平九郎に伴われて、ある一間の中に入れば、顔色黒く、眼だけがやけに光り、でっぷりと肥った身体を重たげに腹を突き出した四十くらいの男、どこやら厭な厭なあの勇造に似た顔付き。これがご主人様だと聞かされて、お須磨は恭しく頭を下げたところ、主人はじっとお須磨を打ち見て、顔付きとは打って変わった物の言い振りで、猫撫で声とでも言えるような、いかにも優しく聞こえる調子でもって、さまざまなことを親切しそうな言葉で語る。お須磨はただ、
「ハイ、ハイ」と応えて、しばらくは顔も上げられずにいると、主人は平九郎と両人して、今までお須磨に向かって話していた声とはまた似ても似つかぬ太い底響きする大声で話す。これも何だか今一つ解せない感じであった。やがて主人は平九郎と二人して別室に行き、しばらくの間何事かを話し合っているようだったが、その後、平九郎が再びお須磨の横に来て、
「お須磨様、それではもう、お前様はこちらの人になったのでございますから、そのつもりで、何事もご主人様やお主婦さまの命令に背かないよう注意てお勤めなされ。それでは私はこれで帰ります。何かまたご用事がありましたら言って下さい。荷物は後で直ぐに届けてあげます。さようなら」とだけ言って立ち去ろうとする。
「アレ、平九郎様、あなたはもうお帰りでございますか。色々ご厄介になりました。お礼も碌に申しませず失礼ばかりいたしました。それではこれで」と言ったが、僅か二日三日の馴染みであったけれど、女心には懐かしく、今まで頼るべき人はこの人だけだと思い寄せていた人が去ってしまえば、この後誰を頼って相談すればいいのだろうと、色々不安に思っている中、平九郎は早くもそこを出て行ってしまった。
一室に取り残されたお須磨はしばらくそこにいて、様々な思いに耽っていた。自分から夢見るような気持ちになって、茫然としていた時、
「お須磨、お須磨」と呼ぶ声。ハッと気づいて頭を上げれば、ここの主人であった。
「こっちに来なさい」と、言われるままに恐る恐るその後に従って行けば、お主婦の前に出て、ここの女中がするべき勤務の数々、
第一、客扱いを好くすること。
第二、客の機嫌を取って嫌と思うことでも金消費いの好い人には無理をしてでも従うこと。
第三、宵寝朝寝は絶対禁物のこと。
第四、同僚衆と折り合いを悪くしないようにすること。
第五、主人の命令には絶対に背かないこと。言うまでもないが、主人から非道な難題を持ち出すことなどはないから、その点を心得て我が儘を張ることがないように注意すること。何事についても、片意地な根性を起こせば、その身にとって不利になること。
第六、勝手気ままに外出などは決してしないこと。
第七、たとえどんな急用などが起こっても主人の許可を経ずに国許などに立ち帰らないこと。
第八、もしこれらの家法を犯せば、それぞれ直ちに罪則がその身に及び、少なからぬ難儀を負うことになること。
第九、客人の取り扱い等が上手にして、忠々しく立ち働けば、自ずと幸運が身のまわりに浮かんでくること。それは以前、ここの女中頭を勤めていたお萬という婦がいたが、容貌は十人並であるにもかかわらず、客の取り扱いが大層上手いと言われるほどの腕前で、遂には草加在の豪家の女房様と成り上がり、ここを出る時は、それは華々しかったことなどを言い聞かされた。
長火鉢に「き」の字のような膝を作って坐り、長煙管を取ってすぱすぱと煙草を燻らせているそのお主婦は三十前後の、身丈のある、それほどまでに醜いとは言わないが、どことなく意地悪そうな大年増であった。小さくない三日月型の痣が見える剃りたての眉を上げたり下げたりしながら、口を歪め、目を見張ったりなどしてほだてつ、威嚇つしての弁舌を、お須磨は小一時間も聞かされた。
「ハイ、ハイ」と、顔も上げられずに聞き入った後に、また女中頭とやらの二十六、七の口の極めて大きなお松というのをはじめとして、お豊、お梅、お牧などという呼び名はいずれも愛らしいけれど、顔だちはいずれも一ト山いくらと札の付きそうな女中に引き合わされ、
「皆さま初めまして、どうぞよろしくお願い申します」と丁寧に手をつき、頭を下げれば、相手方もよろしくと、同じように言葉は返しながらも、碌に頭も下げず、互いに目を引き合い、袖を引き合って、何やらひそひそと私語きながら、
「くっ、くっ」と笑って、ジロジロとお須磨の顔を眺め、冷ややかな色を眼の中に浮かべる者もあれば、口元に軽蔑の意を表す者もいる。聞こえよがしに、
「イヤに温和しぶって悪丁寧なお辞儀をするじゃァないか。こちらを何だと思ってるんだい。人を馬鹿にしているよ」などとはしたなく言うのもいて、いずれもバラバラとそこを立ち去り、聞くのさえ胸悪くなる節の流行歌をさもさも得意げに声も高らかに歌いながら、バタバタと廊下を走っていくなど、お須磨の目には、大層怪しく映った。
その夜は、旅の疲れもあることだろうし、今夜は早く寝んで、改めて明朝から早く起きて働くがよいとのお主婦の命令に、
「それなら、お主婦様、今夜はお先に寝んでもよろしゅうございますか。ハイ、では寝ませていただきます。皆さま、お先にごめんくださいませ」と、日頃父母に向かって挨拶するよりもなお丁寧にお辞儀をして、あちらがあなたの寝る場所だと教えられた梯子段の下の四畳の女中部屋に入り、カンテラの薄暗い光を頼りに、夜具棚から湿り気のある襟が油臭くて固く、薄い夜具を取り下ろして、片隅に小さく敷き、さて、枕は? と捜すけれど見当たらず、手探りで棚の上を探れば、木枕にしたたか膏汚がついたのが一つ手先に触れた。気味悪く思いながらも、帯の間から紙を取り出して、それを掩いなどして、先ほど平九郎が家から届けてくれた自分の荷物を解き、寝衣に着替え、しかし、寝もせずに敷布団の上にきちんと坐り、身をやや丸くして俯いた。
父様、母様とお別れをしたからには、覚悟の上ではあるけれど、今更ながら心弱く、取り乱しそうな自分である。思えば、夢の中にいるような身の上は本当に心細い。平九郎という人の親切な話しから、自ら進んでここに来てみたものの、聞いていたのと見たのとはすべてに渡って物事に違いがある。何だかとても怪しいと思われるのはどうしてなのだろう。第一に、あの平九郎という人が、父様母様等の前での大層優しく温和しい物の言い方に似ず、昨夜夜更けて酔い痴れて帰って来た時、宿の男と何か言い争っていた時の言葉遣いの下司っぽさ、まるで車夫や人夫などとさして変わりもなく、本当に生まれつきの賤しい人の性質を表したような挙動も一つ、二つと見えて来て、その人の家というところに来てみれば、思いがけないほどみすぼらしい住居。それはともあれ、あれ程立派だ、有名だと言っていたこの扇面亭もただのありふれた小料理屋とさして変わりがない。物堅い人、分かった人と褒めちぎっていた主人も、気のせいかも知れないけれど、どことなく腹黒い人のようにも思われる。その顔構えは勇造に似ているのでそう思えるのかも知れない。そのお主婦さまという女は、心優しく情深い性質の人とは思われず、なおそれよりも不思議なのは、物堅い家の家風とやらで使われている女中の誰もが、行儀作法を心得て、しとやかに優しげな者だけ六、七人いると聞いていたが、そんな風情はまったくありもしないのみか、いずれも言葉遣いさえも賤しく、起居振る舞いさえもひどく荒々しいなど、噂の影も形も止めないのが一層訝しい。
平九郎という人は、嘘くさい空事を語って母様や自分等を欺いたのか。また、あの人は本当にこの家をそのような家だと思い、そのような主人だとも思い、そのような女中とも思い誤って言ったのか。もし、嘘をついたのであれば、平九郎という人も、心から自分等を可哀想だと思ってはいないのだろう。もし、また思い誤っているのだとしたら、余りにも浅はかな考えの持ち主だと言わねばなるまい。何れにしても、自分には嬉しくないこの家の有り様だと、お須磨が娘心にも早くもそれと見て取った此所の風俗。どちらにしても明日からはすべての疑念が晴れて行く日もあるのだろうけれど、今の我が身に思わぬことが起こらないで欲しいと心に祈り、しばらく眼を閉じていたが、何となく我が身の行く末に希望の光明は少なく、暗黒汚濁の境に沈んでしまうような思いが胸に迫って来て、非常に心細くなり、昨日のこと、一昨日のこと、父様母様にお別離をした時のこと、榮が泣いて自分が行くのを止めたこと、それを母様が泣いて慰め下さったこと、父様がご病気に悩まれた塩嗄た声で、自分に様々なことを諭して下さったこと、家の様子、庭の様子、さては六三爺、お萱婆さま、仲好しだったお作の顔までありありと閉じた瞼に浮かんで来るようになった。
ああ懐かしい故郷、懐かしい父様母様、今夜あたりはどうしておられるのか。榮がくりくりとした可愛い顔で誠の色を溢れさせて、父様のご看護やら母様のお手伝いやらと、忠々しく立ち働いていることだろう。母様は紡車を取っておられるか、父様は薬に咽せておられるのではないかと、次から次へと思いは千々に湧いてきて、心細さ、悲しさ、懐かしさの思いは果てしなく、小さな胸を駆け巡った。
やがてお須磨は寝衣の襟をかき合わせ、細帯を締め直して、静かに身体を横たえたが、その時ちょうど客がやって来た様で、廊下にバタバタと足音がして、
「お久しぶり」とか、「お珍しい」とか、「お待ち申しておりました」とか、
「お世辞が上手いの」、「お愛想だの」、「その気にさせるなよ」などと言う、どれもこれも甘ったれた言葉の、男の声と女の声とが乱れ合い、それからは酒を呼ぶ声、手を拍つ音などがして、客の人数も四、五人はいるように聞こえた。次第に騒がしくなって行き、濁声を張り上げて、ますます賤しく、品のない俗謡を歌うにつれて、一同がやんやと囃し立てなどすることひとしきり。やがて女がキャッキャッと金切り声を振り立てて逃げ回る音、それを追いかけて捕らえたのか、背中を叩く音なども聞こえ、「誰それは別嬪だの」、「その眼付きにほだされたわ」、「イヤ、その心意気に惚れましたの」と、おかしげな田舎言葉の中に、折々難しい言葉など交えて語らうのは、いずれこの辺りの百姓の道楽息子共のお遊びであろう。
お須磨はこの物音に、ますます目も冴え、耳も鳴り、それでなくても眠れぬ夜を物苦しく思っていたのに、物堅い家と言うのも、女中どもに行儀作法など心得ているものがいると言うのも、皆平九郎の嘘言だったと分かり、明日から自分はこんな家に長く足をとどめ、こんな仲間に交って、あんな風に悪騒ぎをする客人の機嫌を取らなければならないのかと思うに付けても、心細さはひとしおであった。
夜更けまでの騒ぎもようやく静まって、客が帰った後、女中共は後片付けなどをしながら、客の噂をワイワイと、
「あの権さんとかいう人の鼻は胡座をかいて天井を見ている」
「八っつぁんの眼はパッチリとしているが、眉が八の字だ。それで名前が八さんと言うのだろう」などと、勝手な口を叩いて、好いたの好かないのと大騒ぎ。
ようよう火を落として、四方が静まった頃、ドヤドヤとお須磨が寝ている一室にやって来て、
「オオ、くたびれた」
「馬鹿々々しい」と言いながら、手荒く夜着を引きずり下ろし、我先にと広い所を争って、
「お前さん、もっとそっちへお寄り。私はこれじゃ寝る所がない。オヤ、こっちの隅に誰か寝ているよ。オホヽヽヽ、誰かと思ったら、今日来たあのイヤに美しい顔をした悪丁寧にお辞儀ばかりする娘だ。オホヽヽヽ、ご覧よ、生意気な顔をして寝ているじゃないか。鼻でもつまんでやろうか」と、一人が言う。
「およしよ、およしよ、可哀想に。お前さんがここに初めて来た時は泣いていたじゃないか。その時のことを思って堪忍しておやり。オヤオヤ、私の枕がない。誰が持っていったんだろう」と、捜すが見当たらないので、ブツブツ言いながら、
「ほんとに仕方がない、人の枕を誰が持っていきやがったんだ。オヤ? この娘がしているのぁ私のだよ。何だ、人の物を黙って持って行って。オイ、こりゃぁ私の枕だよ」と言いながらお須磨がしていたのを突然引ったくり、お須磨が驚いて頭を落としたのを見て、皆はドッと笑った。
つづく




