幸田露伴・田村松魚 合著 「もつれ絲」現代語勝手訳(11)
其 十一
「西の空が紅いので、明日もきっと天気は好いだろう。この分なら明日早く発てば早く着くこともできるかも知れない。今夜はこれから浦和に泊まることにして、久し振りに暖かな夜着にくるまって寝めば好い」などと平九郎が独り言のようにお須磨に語りかけるのを、お須磨は黙って聞きながら、男の足が速いので、時折小走りになりながら後ろに従う。
早くも日は暮れて、目指して行く方もはっきりとは見えなくなっている。振り返れば、そこは自分の村の方に当たり、彼の鎮守の森だろうか、一ト叢黒く暮色を染めた中に、チラチラと燈の光が見える。あれは母様か榮かが献げた燈明の光りなのかも知れないと、物懐かしく後ろ髪が引かれる思いは切ないけれど、後れまい、後れまいと気持ちも急いて足を早めた。
平九郎はお須磨を伴って浦和の町外れの、とある旅宿に泊まった。そして、夜道で疲れただろうから早く寝よと言って、お須磨を寝かせ、自分はどこかへか出て行き、夜更けになってから随分酔っ払って帰って来た。お須磨は平九郎が帰って来るまで、様々な思いが胸に充ちて、眠られなかったのだが、平九郎が帰ってからも酔い痴れて歌い騒ぎするなどするので、いよいよ眠られなくなり、一夜をまんじりともせず、そうこうする中に東の空は白んできた。
人の息が白く微かに見える暁の空に、残月が弱々しく浮かんでいるのを眺め、心細くなりながらもお須磨は平九郎の後に従った。女の足では捗らなかったけれど、その日、日脚もまだ高い中に、やがて千住にある平九郎の家に着いた。
平九郎の家というのは大通りを横へ何度も曲がりに曲がった溝板も危うい九尺二間の割長屋で、ガタピシと手間の掛かる格子戸を開ければ、
「オヤ、お帰りなされたか」と、上がり口の端の二畳から顔を差し出したのは薄痘痕の四十近い女。
「イヤ、どうも色々と手間取って遅くなってしまった」と言いながら、平九郎は何かを目顔で知らせ、
「サァ、お須磨さま、こっちへお上がりなされ。さぞおくたびれになったでしょう」と平九郎が言うと、その言葉の後から、女の口も軽やかに愛想もよく、
「これはマァ、よくお出でなされた。サァ、ご遠慮なさらないで、ここへお上がり」と手を取られんばかりにされたが、思っていたよりも平九郎の家の様子が余りにも見る影も無く、狭苦しく、むさ苦しいのに、お須磨は今更ながら驚き、
「何分ともによろしくお願い申します」という言葉も口の中で小さくなった。
平九郎の妻はジロジロとお須磨の顔を見ながら、しきりにその容貌を褒めなどする中に、平九郎は例の好きな酒など、生活向きがはかばかしくもないのにも似合わず、贅沢を言い、隣にいた小女をどこかへか言いつけに遣れば、
「それなら私はお須磨さまを伴れて、銭湯に行って来ます」と立ち上がり、糠袋やら手拭いやらを揃えて、やがて女房はお須磨を伴れて出て行った。
平九郎はその後、くびりくびりと独酌の微酔機嫌。
「ヘン、嬶の奴も驚きやがっただろう。まさか、二日や三日であんな上玉を仕入れて来ようとは思ってもいめえ。扇面亭へ出すのは惜しいもんだが、早いこと話が付くだけ面倒が要らねえから、手数だけがこっちの得というもんだ。オット、前祝いにもう一本贅沢といこうか。大分好い気分になってきたぜ。それにしても女の湯は長えもんだな。早く帰って来て、お酌の一つもしてくれても好さそうなものによ」と目前の利を見ては、たちまち飲み食いの慾にありつこうとする輩の平生の慣習。平九郎が楽しく想像しながら、ほどよく酔いが廻った所に両人が帰ってきた。
平九郎の妻が附き沿って磨き上げたので、ただでさえ美しいのに、名玉の光輝はますます鮮やかになった。眉のかかり具合、眼の冴え、耳の根の雪のような白さなど、眼も覚めるほどになれば、平九郎も妻も、今更にお須磨の容色に惚れ惚れしながらも、売り物に咲かすべき花の色香をその上にも添えて、やがて扇面亭へ連れて行った。
つづく




