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魔術士は夜明けを導く  作者: 寒月アキ
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第六章 望郷の内通者

 王城襲撃事件から三日が過ぎた。

 襲撃事件でのレオナの消耗が大きかったため、修業は中断されていた。ディルクは自主的に魔術書に目を通してみたが、まったく身が入らない。

 仕方なく寝台に寝転がり、窓からどんよりした曇り空を眺めてみる。

 だがなにをしていても脳裏をちらつくのは、炎を操る魔術士の顔だった。

(父さんの仇……)

 犯人を見つけたいという願いはかなった。真相も明らかになった。だが自力で突きとめたわけでも、この手で仇討ちができたわけでもない。

(なんか、あっけなかったな……)

 いまだ不明のままの内通者はオスヴァルトが探しているようだ。しかしもはや自分には関係がないことのように思えた。

 その時、部屋の扉をたたく音がした。

「ディルク、いる?」

 ローザリンデの声に心臓が跳ねた。慌てて寝台から降り、扉を開ける。

 まず気になったのは彼女の腕だった。

「怪我、大丈夫ですか?」

 一瞬きょとんとした彼女は、すぐに元気よく腕を振ってみせた。

「平気よ、これくらい。慣れてるもの」

 なんでもないことのように、さらりと言う。

 たったそれだけのことだが、自分との差異を見せつけられたように感じられた。ディルクは顔を背け、本題を促す。

「あの、ご用件は?」

「……この前の続き、伝えておきたくて。今、大丈夫?」

「ええ、構いませんが……」

 彼女はディルクの服装に目をとめ、悲しそうに苦笑した。

「服、初めて会った時のものね」

「そうですが、なにか……?」

「……いいえ、なんでもないの。ねえ、場所はまたバラ園でいいかしら」

 同意を示すと、彼女はくるりと背を向け、歩きだした。

 城館を出ると湿った風が頬をなでた。服が風で揺れるのを感じて、ふと思い至る。そういえばこの三日間、術衣に袖を通していない。壊れた杖も放置したままだ。

(結局、僕はこの程度だったのか)

 あらゆるものがディルクを気鬱にさせる。


 生憎の曇天ではあるが、バラ園は夜とは雰囲気の異なる美しさでディルクたちを迎えた。

 とりとめもなくバラの花弁に触れながら、ローザリンデは話し始めた。

「この前の続きね。……実は私、前々から知ってたの」

「なにをですか?」

「あなたのこと」

「へ? どうして……?」

「……ルドルフよ。彼、子煩悩でしょう? あなたの自慢、すごくしてた」

「……あのくそ親父、無断で人のこと話すなよ」

 ディルクは赤面した。ローザリンデはくすくすと笑みこぼす。

「許してあげて。きっと嬉しかったのよ。私、喜んで聞いてたから」

「どうせ大した話じゃないでしょう」

「そんなことないわ。とても楽しかったもの」

 そうだろうか。他人に興味を持たれるような特別な人生を歩んできた覚えはないのだが。

 ローザリンデはどこか緊張した様子でディルクを見た。

「あのね、お母様の故郷はザルデルンだったの。だから何回か行ったことがあって」

 驚いた。ディルクが生まれた町に彼女が訪れていただなんて。

「奇遇ですね。僕も二年前まで住んでたんです」

「……知ってるわ」

「ああ、それも父から聞いたんですか? ……そうか。だからシュネーバルを知ってたんですね。以前、師匠経由でいただきました。お礼が遅れてすみません。ありがとうございます。とてもおいしかったです」

「……それはよかったわ」

 彼女はどこか寂しそうに瞳を伏せた。

「……ルドルフはいろんな話をしてくれたわ。あなたのことだけじゃなく、旅先で見聞きしたこととかも。行く先々で出会った人たち、生活、文化……王城にいるだけでは忘れてしまう外の世界。私は彼の話を宝物みたいに思ってたから……あなたに会えて本当に嬉しかった」

 彼女はディルクに背を向けた。

 息を吸い、吐いてから、小さく声を発する。

「……憧れてた」

 その一言は雅な音色のごとく心に響いた。

 だが、その意味を深く考える間を与えないような速さで、彼女は話題を変えた。

「あなたはフランツェンへ帰って」

 突然のことに、ディルクは面食らった。

 ――いや、面食らったふりをして、少しほっとしていた。

 しかしそんな心中を気取られたくなかった。心外そうな面持ちで尋ねる。

「どうしてですか?」

「今なら引き返せるもの。ここに留まる理由もないでしょう?」

「ですが、内通者は」

「あなたが望むなら、結果は手紙で知らせてもいいわ」

 ローザリンデはディルクと目を合わせようとしない。

「あなたの手はまだきれいだもの。今なら普通の生活に戻れる。ルドルフみたいな商人になれる」

「父は結局、普通の商人ではなかったじゃありませんか」

「それでも彼は、本当は真っ当な商人として生きたがってたわ。あなたにも普通の人生を歩んでほしいって言ってたし」

 オスヴァルトから再三聞かされた言葉を彼女も口にする。

 なぜか妙にいらいらした。

「父の夢は父のものです。……僕のじゃない」

 言いながら、自分でも不思議だった。

 父は人生の模範だった。決めていたのだ。将来は父のような商人になると。

 たったひと月前のことだ。たったひと月前まで、それは揺るぎない目標だったのだ。

 そんな自分が、こんな言葉を口にするようになるなんて。

(……だって、君に出会ったから)

 彼女に必要とされたかった。そうすることで、このひと月近くの意味と、将来の価値を見出したかった。

 そうと察してくれない彼女に、八つ当たりのように怒りをぶつける。

「それに、僕を魔術士にしたのはあなたじゃないですか。こんな、今になって……」

 そこで口をつぐむ。みっともない責任転嫁に反吐が出そうだ。自分でも納得し、望んで選んだ道ではなかったのか。

 彼女はディルクの矜持を満たすために安直な慰めを述べる人ではなかった。

「ごめんなさい。甘く考えてたの。私の責任よ」

 謝罪が欲しいわけではないのに、彼女はディルクの望みに反することをする。

「私のそばにいたら、いつかあなたは死んでしまう」

「そんなことは……」

 咄嗟の反駁は尻すぼみになった。彼女は弱った小動物のように身を縮める。

「私は、いつかあなたを殺してしまう。……そんなの耐えられない」

 湿度を含んだ風がふたりの間を吹き抜ける。

 沸きあがる感情が怒りなのか悲しみなのか判別できない。ただ彼女にそう思わせてしまった自分を責めた。

「……でも、オスヴァルトや師匠、ヨハンだって、あなたとともに戦ってるのに」

 なおも食い下がる。彼女と過ごした時間を無意味なものにしたくなくて。

 彼女は言葉を探すように視線を揺らしたが、やがて意を決したようにディルクに焦点を合わせた。

「……覚悟」

 ただ一言、簡潔に彼女は言った。

 理解するにはそれで十分だった。見抜かれていた羞恥で、一気に顔が熱くなる。

 当たり前だ。自分はもはや魔術士ではない。魔術士の証たるものを、なにひとつ身に付けていないのだから。覚悟もなく必要とされたいなんて、おこがましいにも程がある。

 ローザリンデはゆるくかぶりを振った。

「気を悪くしないで。あなたは普通だから。普通でないことを私たちが求めてるだけだから」

 彼女は自分に言い聞かせるように続ける。

「手放すの。手遅れになる前に。……たとえ夜明けが遠くても、夢を見なければ苦しくないもの……」

 なにも言えなかった。なにかを言う資格はないと思った。

 雨が降りそうだ。まったく関係がないことを頭の片隅でぼんやりと考える。

 ローザリンデはためらいがちに踵を返した。

「今まで本当にありがとう。……さようなら」

 湿った風がバラを揺らす。

 バラ園の中央で、ディルクはしばらく立ち尽くしていた。

 どれだけの時間、そこに立っていたのだろう。

 雲はどんどん厚くなり、やがてぽつぽつと雫をこぼし始めた。水気を吸った服が次第に重くなっていくが、それでも動く気にはなれなかった。

 これが正解だと言い聞かせる自分。決めたくない覚悟から逃げることを肯定する自分。ローザリンデの意向に沿うのだと正当化する自分。

 心の中で、彼らはあらゆる言葉を尽くす。それらに耳を傾けていれば、いつか気持ちは晴れるのだろうか。

 まるで視界が曇ったかのように、進むべき道がよく見えない。


 王都とフランツェンを結ぶ街道を、ディルクは馬車で移動していた。

 ローザリンデが手配した馬車は、往路とは比べものにならないくらい快適な旅路を約束してくれそうな立派なものだった。

 杖もなく、術衣もなく。魔術士であった証は一切持たず、ディルクは王都を出た。手元に残そうと思ったのは、形見の首飾りと短剣だけだ。

 馬車に揺られながら、指先でぼんやりと短剣を弄ぶ。

「……おい」

 険を含んだ声が正面から投げかけられた。

 横柄にふんぞり返ったヨハンである。

「おまえ、いつまでそんな調子でいるつもりだよ」

「……別に」

「澄ました顔で答えてんじゃねえよ。こっちの身にもなってみろよ。腑抜けたおまえに付き合わされて、息が詰まって死ぬっつーの」

 ディルクはむっとした。あんまりな言いようではないか。

「僕が頼んだんじゃない。ヨハンは師匠のお使いじゃないか」

「そうなんだよ、畜生! ったく、あのバカ師匠、またこき使いやがって!」

 ヨハンはわなわなと震える。レオナはついでとばかりにフランツェンでの用事をヨハンに言いつけ、ディルクに同行させたのだ。

 なんだかんだ言っても、彼はレオナに逆らわない。不平不満を垂れ流しながらも、こうして同じ馬車に揺られているのだった。

「だいたいさ、帰るの決めたの自分だろ? なにが嫌でそんな不細工な面してんだよ」

「……別に。いつもどおりだけど」

「じゃねえから、こっちはいらつくんだっつの。ルドルフの店、継ぐんだろ? いいじゃん、それで。まあ、俺だったら天下の宮廷魔術士になれる好機は絶対逃さねえけど」

 それから、ぼそりと付け足す。

「……奴ら管理の魔術書、こっそり回させる予定がパアだぜ」

 彼らしい発言にディルクは失笑した。

 少し和んだ心持ちで窓の外に視線を向け、懐かしいフランツェンを想う。

 およそ一か月、潮の香りをかいでいない。あの香りを胸いっぱいに吸いこんだら、平穏で幸福な時間に心が戻るだろうか。後ろ髪を引かれるのも今だけで、すぐに本当に大切なものを理解する。そして王城での出来事は思い出に変わる。

(……でも、以前と完全に違うことがひとつだけある)

 どれだけ待っても、父はもう二度と帰ってこないのだ。

 ふとヨハンが口を開いた。

「その短剣、なんかおかしくね?」

 ディルクは短剣を触る手を止めた。

「どこが?」

「柄の、鍔に近いところ。妙なくぼみが付いてんじゃん」

 それにはディルクも気づいていたが、深く気にとめていなかった。

「そういう意匠なんじゃない?」

「そんな変な意匠、持ち手に作るかよ。握った時、違和感あるだろ」

「詳しいんだな」

「俺の実家、鍛冶屋だし。だから断言する。その短剣、絶対変だ」

「まあ、変わってるのは確かだろうけど……」

 指がはまるほど大きくはないので、使用に支障を来たしてはいなかったと思う。

 しかしこのくぼみの利点は思い浮かばなかった。装飾として映えているわけでもない。剣を持つことに慣れた人間なら、なおさら引っかかりを覚えるかもしれなかった。

「ルドルフの形見なんだろ? 元騎士のくせして、なんでそんなの選んだんだか」

 彼の指摘はもっともだった。あえてこの短剣を選ぶ理由はない気がする。

 ディルクは改めてくぼみを観察し――思い至った事実に瞠目した。

 これまで注目してこなかったことを激しく後悔する。

「父さん……」

 よくよく見ると、そのくぼみは見慣れた形をしていたのだ。

 胸元に下がる翡翠の感触を確かめる。手がかりはこんなにも身近にあったのか。

 急いで首飾りを外し、翡翠を当てはめてみる。――ぴったりだ。

 そのまま石を押しこむと、柄が剣身から外れた。驚き、ヨハンと顔を見合わせる。

「どうしてこんな細工が……?」

「見ろよ。なんか入ってるぜ」

 柄の中の空洞をヨハンが指差す。

 そこには細く丸めた羊皮紙と鍵が入っていた。それらを取りだし、まずは羊皮紙を広げる。

 描かれていたのは地図だった。「ジルケの墓」という文字も添えられている。

 ディルクは首をかしげた。地図は王都近郊のようだが、母が眠っているのはザルデルンである。

「そういえば墓参りって……」

 それは死に際の父が遺した言葉でもあった。

「ひょっとして、ここに行けってこと?」

「心当たりあるのか?」

 ディルクはヨハンに説明した。ヨハンは軽快に口笛を鳴らす。

「早速、方向転換だな」

「うん、行こう!」

 ディルクにだけ知らせたかったなにかがこの場所に隠されているに違いなかった。


          ◇     ◇     ◇


 ディルクとヨハンを乗せた馬車が城門から出ていくのを、ローザリンデは自室の窓から見ていた。

 せめて見送りに出るべきだと頭ではわかっていた。しかし気丈でいられる自信がなかったのだ。

(ディルクの言うとおりだわ。自分勝手に散々振り回した挙句、こんな……最低ね)

 それでも彼が死ぬよりは断然ましだった。

 舞い上がっていたのだ。ルドルフの息子に魔術の才能があると発覚して、そばにいてもらう口実ができたから。

 もちろん、魔術士の道を歩ませることの意味は理解していた。万一の時の覚悟もしていたつもりだった。

 だが彼の才能は想定外の大きさで、いつか訪れるかもしれない命の危機は、予想以上に近いところにあるのだと思い知った。

 途端に恐ろしくなった。

(ゴルトベルク卿になんて説明しよう)

 無断で彼を解き放したのだ。追及は免れないだろう。ディルクが連れ戻されることがないように、うまく対処しないといけない。

 まずはレオナに相談しよう。ディルクをフランツェンへ帰すという決断は、彼女と話し合った末に下したものだった。今後についても知恵を貸りたい。

 ローザリンデは机に置いていた剣を取った。レオナの部屋を訪ねたあと練兵所に寄り、鬱々とした気分を晴らそうと決める。

 そうして自室を出ると、廊下で見知った後ろ姿を見つけた。

 赤い巻き毛に、宝飾品で彩った紫の術衣。間違えようがない。レオナだ。

 彼女が向かっているのはローザリンデの部屋ではないようだ。しかしこの小さな居城でローザリンデに会う以外の用事があるとは考えにくい。

(どこへ行くんだろう……)

 声をかけるのははばかられるような雰囲気だ。ローザリンデは忍び足で彼女を付ける。

 レオナは進む。使用人も滅多に来ないような奥へ、奥へと。その足取りに迷いはない。

 レオナが廊下を曲がった。ローザリンデも続く。

 そこは突き当たりだった。

 レオナの姿はない。

(あれ……?)

 右手には書庫の入り口があった。ここに入ったのだろうかと古い扉を見つめる。

 もともとは過去の記録や書類を保管していた部屋だったと聞いている。しかし数代前の王の時代に重要なものは別の城館へ移された。今では価値のない古物が埃をかぶっているだけである。

 室内の様子を探るため、扉に耳を押し当ててみた。

 ところが、室内の物音に注目するより前に、落とした目線の先にあった床の染みに違和感を覚えた。

 赤黒く乾いたそれは、廊下の突き当たりまで点々と連なるように続いている。

 背筋に冷たいものが走った。

(血痕……?)

 状態から、ここ数日のうちに付着したものだと察せられた。

 思い当たることはヴィンクラー襲撃事件しかないが、この城館で戦闘があったとの報告はなかったはずである。それもそうだろう。守る必要のない場所に衛兵はいないし、賊が忍ぶ理由も見当たらない。

 ローザリンデは改めて周囲を観察してみた。

 一見、なんの変哲もない廊下である。突き当たりに綴織の古ぼけた壁飾りが垂れ下がってはいるが、それは城内の至るところにあるものだ。珍しくもなんともない。

 だが壁際で不自然に途切れた血の痕が気になった。

(まさか……)

 壁飾りの裏に手を回し、石壁をまさぐる。

 すると、いくつかの石材が押せることが判明した。

 ところが順番に決まりがあるらしく、適当に押しているだけではなにも起こらない。

「最初は一番右ですわ」

 やにわに背後で声がした。びくりと肩を揺らし、振り返る。

 そこにいたのはレオナであった。意外そうにローザリンデを見ている。

「まさか姫様でしたとは……」

「忽然と消えるから驚いたわ。どこにいたの?」

「書庫に潜んでおりました。途中で尾行に気づいたので、相手を確かめたくて。……もし内通者でしたら事ですから」

 思わせぶりな発言に、ローザリンデは身を乗りだした。

「誰だかわかったの?」

「ええ……。確証をつかむのが先だと、ご報告は控えておりましたが……」

 彼女は一瞬、迷う素振りを見せたが、意を決したように口を開いた。

「どうか心してお聞きください。……裏切り者はオスヴァルト様です」

 真っ先に頭に浮かんだのは否定の言葉だった。

「オスヴァルトに限ってそんな……」

「あたしも嘘だと思いたいですわ。ですが、間違いなくこの目で見たんです。この抜け道を、オスヴァルト様が使うのを」

「抜け道……」

 改めて壁飾りを見る。レオナは手際よく石材を押し始めた。

「記憶が正しければ、オスヴァルト様はこうしていたはず……」

 はたして思惑どおりに仕掛けは動いた。壁が引き戸のように横へ滑り、真っ暗な空洞が現れたのだ。目を凝らすと、細い階段が下へ続いていることがわかった。冷たい空気に肌をなでられ、ローザリンデは小さく身震いする。

「知らなかったわ。こんな抜け道が隠されていたなんて……」

「城の歴史は長く、増改築を繰り返してますわ。忘れられた抜け道があっても不思議ではありません」

 確かに、城にはこのような抜け道を作ることがある。敵に攻め入られた時、君主が落ち延びるためだ。この居城もかつては執務室として機能していたと聞いたことがある。だから緊急時の避難経路が必要だったのかもしれない。

 レオナは呪文を唱え、杖に明かりをともした。抜け道の内部を照らすと、血痕は奥へ続いていた。

「ここのこと、陛下もご存じないのかしら」

「きっとそうですわ。でなければ、こんなあからさまな証拠、放置するはずありませんもの。オスヴァルト様はなにかの拍子に発見したのでしょうね」

「でも、彼がどうして……」

 受け入れがたい事実に、ローザリンデは動揺を隠せない。

「ヴィンクラーはルドルフを殺したのよ? 友人を殺した男に味方してたなんて、そんなこと……!」

 なによりディルクを想うと居たたまれなかった。オスヴァルトがルドルフ殺害に加担していたのだとしたら、とんでもない裏切り行為ではないか。

 レオナは沈痛な面持ちになる。

「証拠がない以上、姫様を困らせるだけなのは承知しております。今のあたしには『信じて』としか申し上げられませんが……」

 惑う瞳をとらえるように、レオナはまっすぐ見つめてくる。

「あたしは真相を突きとめねばなりません。姫様をお守りするためにも」

 ローザリンデは瞳を伏せた。

 オスヴァルトを信じたい。しかしレオナを疑う理由もできない。

 レオナは先の見えない暗闇に足を向けた。

「オスヴァルト様はちょうど城を出ておられます。今を逃す手はありません。姫様はどうか安全な場所で」

「いいえ。ひとりじゃ危険よ。私も行くわ」

 オスヴァルトの嫌疑を晴らすものが見つかればいいと、心の中で願う。

「……仕方のない姫様」

 レオナはローザリンデの同行を認めた。


          ◇     ◇     ◇


 地図上で「ジルケの墓」とされていたのは、街道から少し外れた小高い丘だった。

 整備された道もない丘陵である。馬車で上るのは厳しいので、御者には麓で待ってもらい、歩くことにした。

 ほかに人の気配はなかった。特になにかがあるわけでもない丘なので、用がある者などいないのだろう。そして用がなければわざわざ来る場所でもない。

 ヨハンは手の甲で額の汗をぬぐった。

「ここ、少なくとも墓地じゃねえよな」

「そうだね。父さんはいったいなにを……」

 地図に従って進むと、やがて森に至った。太陽の位置を確認しながら先を急ぐ。

 そうして、ついに印の場所に到着した。

 朽ちかけた掘っ立て小屋が一軒、ぽつりとある。

 歩き疲れか、肩で息をしながらヨハンは言った。

「この辺は昔、狩り場だったはずだぜ。王家の狩猟場に近いってことで、先代か先々代の王が禁止するまではな。そん時のじゃねえか?」

 ヨハンは小屋の壁にもたれて呼吸を整えている。勉強のしすぎで体力が低下しているのではないかと密かに思いながら、ディルクは小屋に入った。

 痛んだ木材に、雨漏りの痕跡を残す屋根。乱雑に置かれた最低限の家具は、長らく使用された形跡がない。

 ディルクは布で覆われた長持に目を止めた。ほかの家具と比べて埃の層が薄い。

 長持には鍵がかかっていた。ディルクは短剣の柄に隠されていた鍵を取り出し、鍵穴へ差しこむ。

 はたして長持は開いた。ヨハンがごくりと喉を鳴らす。

 鼓動が早まるのを感じながら蓋を開けると、まず杖が目に付いた。魔術用のものだろう。白木の杖の先端には瑠璃色の宝玉が埋めこまれており、凛とした美しさを漂わせている。

 ヨハンの興味もまず杖に行ったらしい。

「それ、けっこうな業物じゃねえか」

「業物?」

「刃物と一緒で、杖にも質の高低があるんだぜ。いい杖は術者の力を最大限に引きだすんだ。まあ、相性も大事だけどな」

 彼が興味深げに杖に触っている間に、ディルクはほかの品物に目を移した。

 残りは一振りの長剣と使いこまれた日記であった。

 日記の装丁には覚えがある。生前の父が持ち歩いていたものだ。

 急いで手に取り、頁をめくる。確かに父の筆跡だった。懐かしさで視界が潤む。

 そこには諜報活動の記録がつづられていた。どこへ行き、なにがあったのか、簡単にまとめてある。

 夢中で頁をめくっていると、ひらりとなにかが床に落ちた。

 手紙だった。拾い上げて確かめると、宛名はディルクになっていた。

 日記はいったん置いて、もどかしい思いで封緘を解く。

『この手紙を読む頃、もしかしたらおまえは、この杖と剣の意味がわかるようになっているかもしれないな』

 手紙を持つ手が震えた。

『杖はジルケが、剣は私がかつて使っていたものだ。私とジルケは、これまで大切にしてきたものをここに置き去ることで、全てを一からやり直そうとしたのだ。――けれども、少なくとも私は、完全には捨てきれなかったようだ。結局こうして戻ってきてしまった』

 インクのにじみから、ためらいながらつづる父の姿が想像された。

『これらはおまえの好きにするといい。打ち捨てても、持ち帰っても、自由だ。――確かに私たちは、私たちとは異なる人生を息子に与えたいと願った。それでも、おまえの人生はおまえのものだ。おまえが選んだ道を、私たちは応援する』

 片手で口元を覆う。ヨハンの目がなかったら、むせび泣いていたかもしれない。

『ディルク、おまえは私たちの誇りだ。そのことを、どうか忘れないでほしい』

ディルクは瞳を閉じた。

 父を失ってから様々なことがあった。その過程で彼らの秘密を知った。両親との思い出が偽物のように感じられた時もある。

 それでも確信する。ふたりの息子でよかったと。自分にとっても両親は誇りだ。

 そんな感慨を打ち破ったのは、表から聞こえた馬のいななきだった。潤んだ瞳を慌てて指でこすり、外に注意を向ける。誰かがやってきたらしい。

 ヨハンが警戒心をあらわにささやいた。

「こんな場所に誰だ?」

 ふたりは息を潜めた。下馬した来訪者が小屋へ向かう足音がする。

 ヨハンが呪文を唱え始めた。ディルクは長持に入っていた杖に手を伸ばす。

 来訪者は小屋の前でいったん足を止めた。

「……ディルク、それにヨハンか?」

 よく聞き知った男の声に、一気に緊張が解けた。

「オスヴァルト」

 呼びかけると、戸口からオスヴァルトが顔をのぞかせた。彼ひとりであることを確認したヨハンは詠唱を中断する。

 オスヴァルトは降参の意を表明するように両手を上げた。

「先に声かけて正解だったな。魔術で先制されたらかなわない」

「どうしてここに?」

「それは俺の台詞だ。数刻前に見送ったのはフランツェン行きの馬車で、乗ってたのは君たちだった気がするんだけどな」

 彼は怒った様子で中に入ってきた。

「王家の紋入り馬車は目立つんだ。あんな場所で待機させたら怪しまれて当然だろう。城下では行商人たちの噂になってたぞ」

 しまったと思いながら、ヨハンと顔を見合わせた。短い間だけ待ってもらう程度の感覚だったが、麓からこの小屋までそれなりに距離があり、すでに少しとは言えない時間が経過している。

「見過ごすわけにもいかず確認しに行ったら、君たちを乗せていたはずの馬車が停まってるんだ。まったく驚いたよ」

 叱るような目でオスヴァルトににらまれる。

 ディルクは申し訳ない気持ちになったが、ヨハンが殊勝になることはない。

「いちいち城に戻れって? 冗談じゃねえ、ぐずぐずしてられっか」

「せめて人づてでも報告するようにしてくれ。なにかあってからでは遅いんだぞ」

「それくらいわかってる。でも今回はそんな心配いらねえだろ」

「甘いな。その判断がいつか命取りになるぞ」

「いいや、適切だ。現に危ないことなんてねえじゃんか」

 ヨハンは素直に耳を傾けない。

 よくあるやり取りなのか、オスヴァルトはあきらめたように嘆息した。

 それにしても、とディルクは首をかしげた。

「オスヴァルト、よくここがわかったね」

 御者には目的地の詳細を伝えていなかった。当てずっぽうでたどりつく場所でもない。

 ためらうような間を置いてから、オスヴァルトは口を開いた。

「昔、ルドルフが使っていたのを思い出してな。むしろ君たちがいることのほうが不思議なんだが」

「それは、父さんの短剣が……」

 経緯を説明すると、合点がいったようだ。オスヴァルトは小屋の中を見回し、開いた長持に目を止めた。

「見つけたんだな」

「知ってたの?」

「短剣の細工は初耳だぞ。ただ、その剣と杖は……」

 静かに瞑目し、独言する。

「……ルドルフ、ジルケ。そろそろ逆らうのがばからしくなってきたよ。……これでよかったのかもしれないな」

 束の間、過去を懐かしむような目をしたあと、彼はディルクへ向き直った。

「ほかには、なにかあったか?」

「ああ、そうだ。父さんの日記が……」

「……ディルク」

 硬い声でヨハンに呼ばれた。ディルクがオスヴァルトと話している間、彼は日記を読んでいたらしい。

「これ、この頁」

 日記の後半の頁を指し示された。「ヴィンクラー」と記されている。

 なおかつ、不可解なことに、父はヴィンクラーを「彼女」と表現していた。

「おかしくね? ヴィンクラーは『彼』だろ」

「……もしや全身刺青とは限らないのか? だとしたら、いくらでも隠せる……」

 オスヴァルトのつぶやきは、特定の誰かを想定して発せられているようだった。

(そうだ。いまだに不明の内通者)

 ディルクはヨハンから奪うように日記を受け取り、急いで頁をめくった。

 ローザリンデの周辺事情をよく知る人物で、女となれば、真っ先に思い浮かぶのはただひとりだ。ヨハンも同じことを考えているのだろう。色を失っている。

 父も、最初は疑惑の域を出ていなかったらしい。見聞きした情報と、それを確かめるための行動、そしてその結果が、断片的に書き連ねてある。

 最後に、彼が確信を持って書いたであろう一文を見て、ディルクは言葉を失った。

『――裏切り者は、レオナ』

 それ以降は、白紙の頁がむなしく残っているだけだった。


          ◇     ◇     ◇


 足元さえおぼつかない暗闇の中を、レオナがともす明かりを頼りにローザリンデは進んでいた。

 階段は地下一階ほどまで下りたところで終わった。その先は平坦な細い通路が伸びており、今はひたすらそこを歩いている。

 血痕はまだ続いていた。おそらく先日の襲撃で負傷した者がここから逃げ延びたのだ。厩番の手引きに見せかけただけで、本当の侵入経路はここだったのかもしれない。

 肌に触れる空気は冷たいが、握った手の内側はじとりと汗ばんでいた。

 しばらく歩いた気がするが、まだ出口は見えない。

「いったいどこまで……」

 つぶやくと、先導するレオナが口を開いた。

「そろそろですわね」

 レオナが杖を振るうと、ほの明るい光が複数出現した。点在する照明に光がともったのだ。暗闇に慣れた目にも優しい光源で、周囲の状況を把握するのに支障はない。

 ローザリンデは目をぱちくりさせた。

「どうして突然……」

「魔術具の一種ですわ。魔力で照明がつくようになっているのです」

 答えるレオナの声が、どこか硬質に聞こえる。

 点灯により、いつの間にか開けた空間に出ていたのだと判明した。自分たちが通ってきた道のほかにも、いくつかの通路とつながっているようだ。

「ここは中継地点のようなものです。出口はひとつではなく、複数箇所に出られる設計なのですわ」

 レオナの説明はよどみない。

 身の内で、違和感が警鐘のように鳴り響いた。

 気づかない振りをしていたい。目を背けたい。逃げだしたい。

 それでも、言わないという選択肢を取ることはできなかった。

 レオナとの間に距離を取る。喉の奥から、声を絞りだす。

「ねえ……ここに来るの、何度目なの?」

「……さすがですわね」

 感情豊かだと思っていた彼女の灰色の瞳が、無機物のように冷えていく。

「あの時、油断してしまったのです。姫様が北方国境城塞へ行かれた、あの時。ヨハンは姫様に同行、オスヴァルト様とルドルフ様は外出。留守番はあたしだけでしたから、つい注意を怠り……予定より早く戻られたルドルフ様に気取られてしまったのです」

「それって……」

「排除するのは一苦労でしたわ。城内で事に及ぶわけにもいきませんし」

「レオナ!」

 ローザリンデはたまらず叫んだ。

 造作も声も覚えがあるのに、まるで別人である。

 初めて目にする表情で、初めて耳にする声音で、現実を突きつけてくる。

 レオナは紅をはいた唇をつり上げた。

「それに比べて助かりますわ。姫様のお耳には、魔術の言の葉が届かないのですから」

 次の瞬間、ローザリンデは全身の力が抜け落ちるのを感じた。

 魔術を使われたのだと瞬時に理解する。

「どうやって……?」

 確かに自分は魔術士の耳を持っていない。だが魔術の発動には動作が伴う。例えば唇の動きや杖の構えなどから推察できるものなのだ。

 しかしレオナにそのような動きはなかった。もちろん話をしていた彼女が呪文を唱えられるはずもない。

 レオナはしたり顔で言った。

「姫様はお強いですから、注意をそらしておかないと」

 脱力したローザリンデの体を何者かが支えた。感触から女ではないと判断する。

 気力を振り絞って顔を上げ、その正体を確認し、絶句した。

「おまえは……!」

 熾火のごとき熱をはらんだ灰色の瞳に見覚えがある。間違いなくヴィンクラーだ。

 襲撃に失敗し、死んだはずの。

 レオナが殺したはずの。

「なぜ生きてる? それにその髪……」

 ヴィンクラーは黒髪だったはずだ。しかし目の前の男は赤い髪をしている。

 レオナは声を立てて笑った。

「だって、さすがに気づかれるかもしれませんもの。髪くらい染めますわ」

 レオナはヴィンクラーの隣に立った。ふたつの顔が並ぶと、その共通点がよくわかる。ふたりの髪色は赤、その瞳は灰色。年齢も近いのだろう。どこか面影が似ている。

「姫様、紹介いたしますわ」

(だめよ。目を閉じてはだめ)

 意思に反して重たい瞼が下りる。暗闇の中、常に傍らにあった声を聞く。

「彼はヴィンクラー一族の当主。そして私の、掛け替えのない、大切な兄ですわ」

(レオナ……!)

 己が身を敵に預ける屈辱に震えたのも、寸時のこと。

 ローザリンデは意識を閉ざした。

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