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魔術士は夜明けを導く  作者: 寒月アキ
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第五章 業火の反逆者

 宵を迎えた頃、第三王女マルガレーテの生誕を祝う宴が始まった。

 広間には正装した貴族たちが集っていた。壇上の椅子には国王とマルガレーテの母親である正妃、そしてマルガレーテが着席している。ほかの兄弟も出席しているようだ。

 一方のディルクは、きらびやかな人々とは対極的に、相変わらず灰色の長衣に身を包んでいた。警備という名目上、戦闘に備えねばならず、着飾るわけにはいかない。

 歓談している国王たちを横目に、広間の隅でオスヴァルトと話す。

「余裕だよなあ。誕生日は変更できないにしてもさ」

「不用意な発言は慎んでくれ。箝口令が敷かれてるんだぞ」

「わかってるよ、それくらい」

 狩猟で起きた襲撃事件のことは伏せられていた。

 王城の警備は厚い。接近している軍隊がいるわけでもない。身近な脅威があるはずもなく、中止で不安をあおる必要はないだろう。

 話に花を咲かせる人々を漫然と眺めていると、長い銀髪が視界に入った。

 レオナを伴ったローザリンデである。

 彼女のドレスは白い肌によく映える露草色だった。普段は結っている髪は下ろされ、さらりと背中で揺れている。宝飾具は多くなく、艶やかさには欠けていたが、かえってしとやかな美しさを際立たせているかのようだ。

 平素とは異なる装いについ目を奪われていると、ローザリンデに気づかれた。

 だが互いに顔を背け、何事もなかったかのように演じてしまう。

 今宵の彼女は妙に落ち着かない気分にさせるのだ。

「どうした。早く行ってこい」

 ぐずぐずしていると、オスヴァルトに強く背中を押された。

 勢いでつんのめりそうになりながらローザリンデの前に立たされる。

「あ……えっと……」

「あんた、姫様になんのご用?」

 藤色のドレスで正装したレオナが、剣呑な表情で割って入ってきた。ディルクは一歩後ずさる。

「なんだっていいじゃないですか」

「よくないに決まってるでしょ。姫様をお守りすることがあたしの役目なんだもの」

「僕がなにしたって言うんですか」

「伸ばしすぎなのよ、鼻の下」

 レオナの指摘に、ローザリンデが頬を赤らめた。ディルクは手で鼻を覆う。

「適当なこと言わないでください! そんなわけないし!」

「鏡に答えが書いてあるわよ。ねえ、オスヴァルト様?」

 レオナはオスヴァルトに同意を求める。

 いつの間にか淑女たちに囲まれていた彼は、楽しげに談笑しており、こちらに構う様子はない。

 レオナは軽蔑するような目をした。

「まったく、男はみんないやらしいんだから」

「それくらいにして、レオナ」

 見かねたローザリンデがとうとう口を挟んだ。レオナは唇をとがらせる。

「そんな、心外ですわ。害虫退治をしてるのに」

「害虫なんてここにはいないわ。……私もディルクと話したかったの」

「姫様……」

 ローザリンデの意向を無下にはできない。レオナは渋々ながら退いた。

 ローザリンデはディルクに向かって言った。

「外に出ない? ここだと騒がしいし」

「そうですね……」

 だが勝手に持ち場を離れていいものだろうか。

 心配になってオスヴァルトを見るが、会話に夢中の彼は気づかない。

 レオナはため息をついた。

「仕方ないわね。あたしが話しておくから、早く行って早く戻ってきなさい。……姫様に変なことしたら、ただじゃおかないわよ」

「そんなことしませんよ……」

 ディルクは大蛇ににらまれたような心地で首をすくめた。

 外へ出ると、火照った頬を夜風が冷やした。方々にたいてある篝火のおかげで歩くのに不自由はない。

 ローザリンデの先導でたどりついたのは小さなバラ園であった。

 ディルクはバラの芳香を胸いっぱい吸いこんだ。これまで花に特別な関心を寄せたことはなかったが、こうして香りを味わうのは悪くなかった。篝火の明かりでは花弁の色が判然としないが、青空の下では色鮮やかに咲き誇っているのだろう。

 バラ園の中央でローザリンデは立ち止まり、そろりと振り返った。

「……昼間はごめんなさい。つい感情的になってしまって……」

 先に彼女に謝らせてしまったのは失敗だった。ディルクは慌てる。

「僕のほうこそ、すみません。無神経でした」

「いいの。間違ってないから、あなたが言ったこと。きっと私たちがおかしいだけ。……よくわからないの。普通の家族がどんなものか」

 ディルクはかける言葉に迷い、無言になる。昼間のこともあり慎重になっていた。

 ローザリンデは懐かしむように目を細める。

「バラはお母様が好きだったの。花をめでるような趣味を持つ人ではなかったのに、バラだけは特別で。ここはお母様のバラ園。……お父様の贈り物よ」

「国王の……?」

 驚いたように言うと、ローザリンデはくすりと笑った。

「意外よね。本当に」

 彼女は手近な花弁を愛撫するように弄ぶ。

「庭師が手入れしてくれるから、今でも、いつ行っても、このバラ園だけは昔のまま。……だから、ここにだけはある気がするの」

「……なにが?」

「家族の愛情、みたいなもの」

 一瞬浮かんだ笑みははかなく消失し、彼女はうつむく。

「でもお母様はもういない……。私にはもうお父様しかいないの。だからお父様の期待にはこたえたい」

「そんなことは……師匠とかオスヴァルトとか、あとヨハンもいるじゃないですか」

 仲間はいると伝えたかったのだが、彼女は自嘲めいた表情をする。

「みんなの忠誠は陛下のものよ。今は陛下の命令でそばにいるだけ。別の任務ができたら去っていくわ」

 ディルクはかぶりを振った。そんなことはない。それは間違っている。

「僕は違います」

「え……」

 彼女はディルクを見た。揺れる瞳を、ディルクは真正面から受け止める。

「僕は国王の命令で動いたりしません。全部僕の意志です」

「……そうね、今は。……だけど、わからないわ。これからのことは」

 ローザリンデは目をそらす。ディルクは口をつぐんだ。

(先のことなんて誰にもわからない。……僕のほうこそ教えてほしいくらいだ)

 未来の保証なんてどこにもない。語れるのは今の気持ちだけだ。それでは無価値なのだろうか? ――そんなことはないはずだ。

「それでも今の僕は魔術士です。間違いなく、あなたの。そう、あなたも言いました」

 ローザリンデの細い肩がぴくりと震えた。ディルクは言葉を重ねる。

「僕は両親を亡くしました。……あの時ああしてたらって後悔だらけです。同じ轍は踏まないよう、できることはなんでもしたい」

 ローザリンデはなにも言わない。それでもディルクは続ける。

「言いましたよね。力になってほしいって。僕もそうしたいと思ってます」

「……知らないくせに。私のことなんて、なにも……」

「知りようがありません。話してもらえなければ、いつまでも」

「……生意気……」

 かすれた声はそこで途切れた。

 しばらく待っても、続きは返ってこない。

 今の自分には彼女の心を動かすことはできないのだと消沈した。

「……僕の話は以上です。聞いてくれてありがとうございました」

 広間に戻ろうと踵を返す。

 数歩歩きだしたところで、背後で動く気配がした。

「……怖いの……」

 足を止め、振り返る。

「怖いの、なにもかも……」

 彼女は幼子のように膝を抱えていた。

「本当は戦いたくない。戦うのが怖い。死ぬのが怖い。この手で命を奪うのが怖い。私の命令で誰かが死ぬのが怖い……!」

 堰を切ったように、次から次へと感情があふれでる。

「私はルードヴィングの剣だから。みんなに期待されてるから。戦わなくちゃならない。逃げられない。逃げるのは怖い。……逃げてお父様に失望されるのが怖い……!」

 彼女は両膝に顔をうずめて表情を隠す。

「私には大義なんてないの。ただ自分のために戦ってるだけなの。言えるわけないじゃない。私はこんなに情けないんだって。知られるわけにいかないじゃない。みんな命を懸けてこの国を守ろうとしてるのに。こんな私に命を預けてくれてるのに!」

 少女の痛切な叫びは、押し殺したような声量ではあったが、ディルクの耳にはしっかりと届いた。

 抱きしめることも可能な距離で立つと、彼女はそろそろと顔を上げた。紫の瞳が不安そうにディルクを見上げ、すぐに逃げる。

「……幻滅したよね。だからあなたがゴルトベルク卿を選んでも、私は……」

「いえ、むしろ安心しました」

「……え?」

「ずっと引け目に感じてたんです。同い年なのに全然違うって。だけど実際はそんなに違わなかったみたいです」

 彼女と目線を合わせるため、ディルクは腰を落とす。

「僕にも大義はありません。この国を守りたいわけでも、国王の力になりたいわけでもありません。ただ自分のためにここにいます。同じ……ですよね?」

 どんなに気丈に振る舞っていても、彼女は十六歳の少女に過ぎない。そんな当たり前の事実にようやく実感が伴っていた。

 笑顔のディルクを、ローザリンデはぼんやりと見つめる。

「……確信したわ」

「なにを?」

「あなたがほかの人と違う理由」

 ディルクは面食らった。

「えっ? 違いますか?」

「違うわ」

「……利他的でないとかですか? 確かに崇高な目的はありませんが……」

「そうじゃなくて」

「じゃあ、どこが?」

「……秘密」

 なんだそれはと口にしかけた文句は形になる前に霧散した。

 無窮な夜空を仰ぎ見るローザリンデの立ち姿の可憐さに、心が吸いこまれたからだ。

 彼女は微笑した。喜びと、ほんのわずかな哀愁をにじませて。

「どうかあなたは、ずっとそのままでいて」

 星空の下でバラに囲まれたローザリンデは、永遠に心に残りそうなほど美しかった。

「実はね、私、あなたのこと……」

 言い差して、彼女は表情を変えた。

「伏せて!」

「へ?」

 状況を理解する前に押し倒された。肌の柔らかさを感じると同時に、頭上で刃が空を切る音がする。

「な……!」

 ディルクは愕然とした。

 剣で攻撃を仕かけてきた黒衣の男は、どう見ても不審者だった。

「はっ!」

 ローザリンデは男の足にすばやく蹴りをくらわせた。男が体勢を崩した隙に、ディルクの手を引っ張って距離を取る。

 よろめく男の背後から、同じ格好の男が新たに二名現れた。

「侵入者よ! 誰かいないの?」

 ローザリンデが声を張り上げるが、衛兵が集まってくる気配はない。

 それどころか戦闘音さえ聞こえてくるではないか。

 ローザリンデは丸腰だ。ここは自分が戦うしかない。

(くそ、落ち着け……)

 緊張する自分をなだめながら短めの呪文を唱える。

 剣士と魔術士との戦いで勝敗を決める大きな要因は速さだ。詠唱にはそれなりの時間がかかるため、剣で切ったほうが圧倒的に速い。だからこういう局面ではいかに不利な状況を打破するかが肝要になる。

 威力が弱くても目くらましになればいい――そう狙った魔術は、賊が攻撃するより早く発動した。小さな炎の玉が彼らの目前で弾ける。

「今のうちに!」

 ディルクはローザリンデの腕をつかんだ。魔術の炎は簡単には消えないため、少しは時間かせぎできるだろう。その間にひとまず広間へ戻るべきだ。そこにはオスヴァルトやレオナがいるはずだから。

 ところがローザリンデが小さな悲鳴を上げた。

「こんな時に……!」

 見ると、ドレスの長い裾が茨に引っかかっていた。力任せに引っ張っても取れそうにない。

「すみません、失礼します!」

 ディルクは腰に差していた短剣でドレスの裾を裂く。

 彼女を美しく演出していたドレスはもはや見る影もなかった。土に汚れ、所々破れ、単なる重荷に成り果てている。丹念にくしけずった銀の髪もすっかり乱れ、髪飾りも落としてしまっていた。

 だが惜しんでいる余裕はない。もう一度彼女の手を取ろうとして、はっと顔を上げる。

 賊のひとりが追いつき、剣を振りかぶったのだ。

「しまった……!」

 魔術では間に合わない。短剣で抵抗できる技量もない。

 無我夢中で杖を掲げ、盾代わりに剣を受け止める。

 凶刃は杖の持ち手に当たる太い部分に食いこんだ。賊は舌打ちし、強引に剣を引き抜く。

 切り口からは亀裂が生じ、ぴきぴきと音を立てて広がり始めた。

「げっ!」

 食い止めようもなく、杖は真っ二つに折れた。

 頭が真っ白になった。これではもう戦えないではないか。

 賊が再び剣を繰りだす。ディルクたちはそれぞれ逆方向に身を翻してよけた。

 だがそれはローザリンデと離れる要因にもなった。ローザリンデに狙いを定めた賊は彼女のほうに向き直る。

 ディルクは咄嗟に短剣を放った。

「これを!」

「ありがとう!」

 ローザリンデは受け取りざまに短剣を構え、賊の攻撃を受け流す。

 そうこうしているうちに残るふたりもやってきた。

 これではもうお手上げである。ローザリンデの息はすでに荒い。ドレスが動きを妨げ、余計に体力を奪っているのだ。

 賊は攻撃の手を緩めず、ローザリンデの左上腕に裂傷を作る。

 逆転の手を打たねばと、ディルクは胸元で翡翠の感触を確かめた。

 それに気づいたローザリンデが叫ぶ。

「やめて、ディルク!」

 なぜ制止しようとするのかわからない。

 構わず首飾りを外そうとした時、見知った後ろ姿が賊のひとりを切り伏せた。

「姫、ご無事ですか!」

 オスヴァルトであった。彼はすばやく地面を蹴って残りの賊と間合いを詰めると、横凪ぎに剣を払ってまずひとりを仕留めた。間髪入れずに最後のひとりが横合いから襲いかかる。それを剣で押し返し、体勢を崩した賊の胸に刃を埋めこむ。

 強力な助っ人の登場に、ローザリンデは安堵の息をついた。

「助かりました……」

「肝を冷やしましたよ。間に合って幸いでした」

「心配かけてごめんなさい。……あと、止血を手伝ってくれませんか?」

 差しだされた露草色の布切れをローザリンデの上腕に巻きながら、オスヴァルトは表情を曇らせた。

「お召し物を裂いたのですか」

「仕方ありません。これでは修繕も難しいでしょう」

 ぼろぼろのドレスに、ローザリンデは苦笑する。

 そのドレスを裂いたひとりであることを棚に上げて、ディルクも残念に思った。あんなに似合っていたのに。

 止血を終えたローザリンデはディルクに短剣を返した。その瞳は心なしか潤んでいる。

「無事でよかった……」

「そんな、大袈裟です」

 ディルクは戸惑った。むしろ危なかったのは彼女のほうではないか。

 しかし危機が去ったと考えるのは早計である。

「姫、賊はこれだけではありません。現在、城内の各所で交戦中です」

 オスヴァルトは真顔で言った。ディルクとローザリンデは息をのむ。

「賊は総じて百にも満たないようですが、魔術士もおり、こちらに死傷者も出ています。目撃情報は城内の数か所。ですがこれらは陽動でしょう。主力は広間を襲撃、現在交戦中です」

 ローザリンデは片手で顔を覆った。

「わからないわ。どこから侵入したというの?」

「まだ特定できていないようです。まるで突然湧いたかのようですが……」

 確かに奇妙な話だとディルクも思う。大人数の通過を見過ごす出入口など普通はない。

 束の間、沈黙が下りたが、立ち止まっている場合ではなかった。

「広間へ戻ります。ふたりとも付いてきて!」

 ローザリンデはドレスの裾を持ち上げ、走りだした。ディルクたちも続く。

 彼女は走りながらオスヴァルトに尋ねた。

「宴の出席者は?」

「殿下たちやご来場の皆様は避難されました。残っているのは戦闘要員だけです」

「陛下は?」

「広間にとどまっておいででした」

「……陛下は逃げたりしないでしょうね」

「あのお方は誰よりもお強い。それにゴルトベルク卿もおられます。過剰な心配は無用でしょうが……」

 やがて広間に到着した。きらびやかに装った参列者たちは姿を消し、代わりに無骨な兵士が増えている。

 華やかだった祝宴の場は凄惨な戦場へと変わり果てていた。床も壁も血に汚れ、その持ち主と思われる者たちが至るところに倒れている。

「姫様!」

 ローザリンデに気づいたレオナが小さく歓声を上げた。ローザリンデも喜色を浮かべる。

「よかった、無事だったのね」

「それは私の台詞ですわ。もう死ぬほど心配したんですから!」

 ローザリンデに抱きつく彼女の手には見慣れた杖があった。宴に持ちこんでいただろうかとディルクが首をかしげると、察したレオナが答えた。

「ヨハンが持ってきてくれたのよ。バカ弟子もたまには気を利かせるのね」

「彼もここに?」

「いいえ、陽動の対処に……」

 ふと柳眉を寄せた彼女は、ディルクの空いた両手を凝視した。

「杖は?」

「あ、いえ、その……折れました」

 決まり悪く打ち明けると、彼女はあからさまに顔をしかめた。

「はあ? 折ったですって?」

「いえ、折れたんです。抜き差しならない事情で……」

 歯切れ悪く釈明すると、レオナは心底あきれたようにため息をついた。

「魔術士失格もいいところよ。物理的な防御に杖使って、あまつさえ折るなんて!」

「弁解の余地もありません……」

「戦力外は出ていきなさいよ! 邪魔!」

「ま、待ってください……!」

 強引に追いだそうとするレオナを押しとどめつつ、ディルクは広間の中心に注目した。

 そこには国王とゴルトベルク、そして賊が一名立っていた。それ以外の者たちは遠巻きに成り行きを見守っている。

「貴様のような下賤、招待した覚えはないのだがな」

 国王は不敵な笑みを浮かべている。その手に提げた長剣は真っ赤だ。

 彼と対峙するのは黒い短髪の男だった。年齢は二十代半ばほどだろうか。ほかの者は倒されたのか、この場の賊は彼ひとりしか見当たらない。

 彼はその出で立ちから魔術士であると推察された。その顔や露出した腕には赤い刺青が彫られている。それはまがまがしい紋様のようで、異様な雰囲気を醸していた。

 刺青のある魔術士――それはオスヴァルトが犯人だと考えていた者の特徴だった。

「まさかダールベルク侯爵の……?」

 ディルクがつぶやくと、レオナは意外そうな顔をした。

「よく知ってるわね。……そう、おそらく彼は侯爵お抱えの魔術士一族ヴィンクラーね。彼らは全身に魔術陣を彫ってるの。魔術を強化する秘術よ」

「一族諸共討ち死にしたと聞いていたが、よもや生き残りがいたとはな」

 国王は余裕ぶった調子で剣を振り、血を払う。

 ヴィンクラーと呼ばれた男は蛇蝎を見るように国王をにらみつけた。

「貴様への恨み、一日たりとて忘れたことはない!」

「笑止! ダールベルク侯こそ、このルードヴィングを混乱の渦に陥れた元凶ではないか。余は民を守ったにすぎぬ」

「よくもぬけぬけと! 侯爵様は国を想って立ち上がられたのだ。貴様の専横ぶりを正す、同志の先導役として!」

「だが結局裏切られた。哀れだな」

「……貴様……!」

 激昂するヴィンクラ―に、国王はあざ笑うような目を向ける。

「余の前ではそなたが悪だ。ゆえにそなたの戯言に価値はない」

 紫の瞳に剣呑な光が宿り、声は凄みを増す。

「狩場での襲撃はそなたらの仕業か?」

「…………」

「だんまりか。では力づくで吐かせてやろう!」

 国王は剣の切っ先をヴィンクラ―へ向けた。

「ゆめゆめ殺すなよ。生きたまま捕らえよ!」

「御意!」

 兵士たちはいっせいにヴィンクラ―に切りかかる。

 ゴルトベルクの背後では、消耗した様子の魔術士たちがよろよろと立ち上がった。

「我々も戦います」

「いや、あとは私に任せるがいい」

「しかし、おひとりでは……」

「奴はおまえたちの手に余る。犬死にされては目覚めが悪い」

 ゴルトベルクは冷然と言い捨て、ヴィンクラ―の様子をうかがう。

 ヴィンクラ―は防御魔術で兵士らの攻撃を阻んだ。しかしそれも一時しのぎに過ぎない。防御を解かねば反撃できないからだ。それはヴィンクラ―を仕留める好機になりうる。

 ところが彼は別の呪文を唱え始めた。防御魔術で剣を防ぎながらである。

 それを見たゴルトベルクはすぐさま詠唱の準備に入る。

 ディルクは肌があわだつのを感じた。

 巨大な力がヴィンクラ―のもとに寄り集まっている。まるでうなりを上げるようだ。

「姫様、離れてください!」

 レオナはローザリンデを壁際に引き寄せた。ディルクとオスヴァルトもそれに倣う。

 間髪入れずにふたつの魔術が発動した。体温を奪われるような冷気を覚えた直後、肌をひりつかせる熱風に襲われる。

 冷気はゴルトベルク、熱風はヴィンクラ―が生みだしたものだった。

 巨大な氷の壁がヴィンクラーの熱風を遮り、国王や兵士、ディルクたちを守る。それでも安心はできなかった。視界を赤く染めるほどの熱風は治まる気配がない。ゴルトベルクの魔術は広範囲に及んでいたが、外れにいた兵士は熱風による火傷を負ってしまったようだ。

 熱風にひるんでいる隙に、ヴィンクラーは駆けた。その先にいるのは国王だ。

 通常、魔術の効果を持続させながら、集中力を損なう激しい動きはできない。現にゴルトベルクは氷の壁の維持で手一杯の様子である。

 ヴィンクラ―の赤い刺青が淡く光る。

「死ね、フェリクス!」

「陛下をお守りせよ!」

 兵士たちが立ちはだかったが、ヴィンクラーが放った炎の玉が直撃し、苦悶の叫びを上げた。左右から切りかかった兵士たちは魔力の風圧で吹きとばされる。遠くから弓を射った者もいたが、熱風に阻まれた矢は力なく床に落ちた。

 そうして守る者がいなくなり、鬼気迫るヴィンクラーと相対することになった国王は、悠然と口の端を上げた。

「生け捕るのは骨かもしれんな」

 言うなりヴィンクラーに肉薄し、先制攻撃を仕かける。ヴィンクラーは不可視の壁でそれを防いだが、国王の強靭さに押されて間合いをとった。

「陛下、お下がりください!」

 ゴルトベルクが止めようとするが、国王は聞く耳を持たない。

「愛娘の祝宴を台なしにされたのだぞ。余興がないと溜飲を下げられん」

「お立場をお考えください! 少しは自重を……」

「さあ、存分に踊ってみせたまえ!」

 国王はゴルトベルクを無視して再び間合いを詰める。ヴィンクラ―は魔術で防御するが、重い剣戟を受け止めきれずによろめいた。

「くっ……!」

「この程度か? 口ほどにもない!」

 国王は剣に全体重を乗せる。

 次第に辺りを取り巻く熱風が弱まった。国王の猛攻により制御できなくなったのだろう。

「くそっ!」

 ヴィンクラ―はいったん後退したが、国王が猶予を与えるはずもなく、疾風のごとき速さで追い打ちをかける。その剣で左肩を貫かれたヴィンクラ―は激痛に顔をゆがめた。

「がっ……!」

 国王は刃を引き抜いた。傷口から血があふれだし、ヴィンクラ―はたまらず杖を取り落とす。

 国王は勝ち誇った笑みを浮かべた。

「観念したまえ。これ以上抗っても時間の無駄だ」

「畜生、まだだ……!」

 ヴィンクラーはなおも国王をにらみやる。

 突然、彼の足元から氷がはいのぼった。

「なっ……?」

 咄嗟のことに対処できないまま、ヴィンクラーは足から腹部まで氷漬けになった。

 彼は呪文の出所を探し、深緑の長衣の魔術士を発見した。

「陛下に気を取られるあまり、我が呪文を聞き損じたか。たわいない」

「なんだと……!」

 ヴィンクラーは屈辱で頬を紅潮させた。

 国王はやれやれとゴルトベルクを見る。

「遅いではないか」

「熱風が弱まるまでは防御に徹しておりましたゆえ。黒焦げをご所望でしたのなら、気が利かず失礼いたしました」

 ゴルトベルクの嫌味に、国王はおもしろくなさそうに唇を曲げる。

 ヴィンクラーは忌々しげに吐き捨てた。

「この、フェリクスの犬めが!」

「……貴様も同類だろうが」

 心外そうにつぶやいてから、ゴルトベルクは本題に入った。

「今度こそ白状しろ。一昨日の犯人は貴様か?」

 ヴィンクラーは答えない。ゴルトベルクは魔の言の葉を唱え、ヴィンクラーを戒める氷の層を厚くした。

「凍傷になるまで待つか? それとも肉が腐り落ちるまでか?」

 なおも黙するヴィンクラーの戒めがさらに厚みを増す。ヴィンクラーは苦悶の表情を浮かべるが、それでも口を割ろうとしないので、ゴルトベルクは再度杖を振った。氷は肩まで伸び、傷口より流れる血で赤くなる。ヴィンクラーは奥歯をかみしめながらゴルトベルクをにらみつけた。ゴルトベルクはちらりと視線を外へ向ける。

「生きて捕縛された仲間もいるだろう。情けを乞うなら今のうちだぞ」

 ヴィンクラーは顔色を変えた。

 ためらう素振りのあと、苦渋の判断で口を開く。

「……拝みたかったものだぜ。狼に八つ裂きにされた貴様らをな!」

 狼による襲撃。それは襲撃した側と襲撃された側にしかわからない事実である。

 ゴルトベルクは尋問を続ける。

「異なる声をひとつの口から同時に発することはできまい。もうひとりの魔術士はどこにいる?」

「……そいつはとうに物言わぬ躯に成り果てた。転がった死体を確認するか?」

「ザイデル兵の入国も手引きしたのか?」

「もしかしたらそうかもな。あいつら、姫将軍の首を切望してるしな!」

 ヴィンクラーは嘲笑した。ローザリンデは息を詰める。

 ディルクは緊張で心臓が大きく鳴るのを感じた。

 この男が一連の事件の首謀者なのだとしたら。

「父を……ルドルフを殺したのも、おまえなのか?」

 口中が乾いているせいで声はかすれ、震えた。

 唐突に会話に割りこんだディルクに周囲の注目が集まる。

「答えろ! おまえが父さんを殺したのか!」

 ヴィンクラーは無感情にディルクを見返した。

「荷馬車にいたガキか。……あの時、見逃さなければよかったな」

 肯定だった。

 そう理解した途端、全身の毛が怒りで逆立った。

 もう戻れない過去を思うと、途方もない衝動が胸をついた。

 右手で父の形見の短剣を、左手で胸元の翡翠を握りしめる。

 このふたつさえあれば、たとえ杖がなくても仇を討てる。討つべきだ。

 実行に移すため、足を踏みだす。

 それ以上進めなかったのは、立ちふさがる者がいたからだった。

 ローザリンデは哀願するようにディルクを見た。

「お願い。やめて」

「……どいてください」

「いいえ。どかない」

 傍らでは杖で床を突く音がした。

 レオナが冷静に言葉を紡ぐ。

「姫様泣かせたら承知しないわよ」

「あいつがしたこと、わかってますか?」

 ディルクは思わずかっとなった。

 ヴィンクラーはローザリンデの命も奪おうとしたのだ。この怒りに正当性こそあれ、止められるいわれはない。

「師匠だって言ったでしょう? 家族のためになにかしたいって。だから僕は……」

「ばかね。そんなの生きていてこそでしょ。なにもないのよ。死者のためにできることは」

 彼女はすげなく一蹴する。その灰色の瞳に遠い過去を映したような顔で。

 納得できずに視線をさまよわせると、オスヴァルトと目が合った。

 オスヴァルトはゆるくかぶりを振った。彼もディルクの復讐には反対なのだ。――剣の柄をつかむ手が瞋恚をこらえるように震えているにもかかわらず。

「みんなしてなんなんだよ……!」

 行き場のない悲憤に身も心も千切れそうだ。

 レオナの言葉は頭では理解できた。ローザリンデやオスヴァルトが止める気持ちも同様だ。だがそれを受け入れたら、この胸に巣くうやるせない気持ちはどうやって解消すればいいのだろう。力を手に入れたかったのはこの瞬間のためなのに。

 動けずにいるディルクを、ヴィンクラーは嘲った。

「結局、ただの腰抜けってわけか。仇討ちの気概さえねえとはな」

「黙れ!」

 ディルクはまなじりをつり上げた。ヴィンクラーは高らかに笑う。

「オレは違う。侯爵様の仇は必ず討つ!」

 次の瞬間、彼は炎に包まれた。自らに魔術を放ったのだ。

「まだ抵抗する気か!」

 ゴルトベルクの声に、いらだちや焦りといった感情がのぞく。

 魔術の炎で氷の束縛から逃れたヴィンクラーは、無傷の右手で杖を拾い上げると、目にも止まらぬ速さで国王に火の玉を複数放った。

「陛下!」

 ゴルトベルクは即席で形成した水流で対抗する。だが急いだ分、効力は劣るのだろう。完全に鎮火することはできず、いくつかが国王に命中した。

「お父様!」

 ローザリンデは悲鳴を上げた。駆け寄ろうとした彼女をレオナが阻む。

「危険ですわ! お下がりください!」

「離して! お父様が……!」

「ここはあたしにお任せくださいませ」

「レオナ……?」

 ローザリンデは不安げにレオナを見つめる。

 ゴルトベルクは倒れた国王を抱き起こした。

「陛下!」

「騒ぐな。大した怪我ではない……」

 国王は荒い呼吸で胸を上下させながら上体を起こした。豪奢な衣服はあちこちが焼け落ち、火傷も少なからず負っていたが、命に別状はないようだ。

 ゴルトベルクは怒りをあらわに立ち上がった。

「死に損ないが! 絶対に許さん!」

 滔々と詠唱を始めるゴルトベルクに対抗して、ヴィンクラーも杖を構える。すると再び熱風が吹き荒れた。ディルクは両腕で眼前を覆う。まともに目も開けられない。

 ふたつの強大な魔力を前に、誰も身動き取れないでいる。

 その時、強すぎる風のせいか、広間の照明が落ちた。

 唐突に訪れた暗闇でざわつく中、熱風が治まっていく。

「明かりだ! 早く明かりをつけろ!」

 オスヴァルトが声を張り上げた。松明や蝋燭を用意するより早いからと、魔術士たちが魔力の光を杖にともす。

 そうして十分な光量を確保できたあと、居合わせた者たちが目にしたのは、声もなくくずおれるヴィンクラーの姿だった。

 彼の背後には赤毛の女魔術士――レオナが血濡れた懐剣を手に立っている。

 広間は水を打ったように静まり返った。

 呪文を中断したゴルトベルクがレオナに怪訝な視線を送る。

 ローザリンデは戸惑うように前へ出た。

「レオナ……?」

「来てはなりません!」

 その切迫した様子に何事かと問う間もなく、答えは明らかになった。

 突然ヴィンクラーの体が発火したのだ。

 ディルクは絶句した。

「なっ……?」

「彼らの秘術は炎系。死ぬと体が焼かれるの。門外不出の秘術を暴かれないために」

「そんな……」

 非業な運命の痛ましさに目を背ける。

 ゴルトベルクが呪文を唱えると、ヴィンクラーを包む炎が瞬く間に消えた。

 燃えていた時間は短かったが、躯はすでに性別さえ判別不能になっていた。

 ゴルトベルクはわずかに考えこむ素振りを見せたあと、レオナに話しかけた。

「勝手なことをしてくれたな」

「恐れながら、強力な魔力が衝突すればその余波が周囲に及ぶことは必至。そのためわたくしなりに尽力した次第です。わたくしのお役目はローザリンデ様をお守りすることですから」

 レオナは深々と頭を垂れる。ゴルトベルクの語気が鋭さを増した。

「おまえは魔術士だろう。なぜ懐剣で?」

「従者のたしなみでございます。ゴルトベルク様もご存じのとおり、一刻を争う事態では剣のほうが有利ですから」

 それに、と彼女は声の調子を落とした。

「お気づきだったのではありませんか? ……この男は長くないと」

 ゴルトベルクは押し黙る。

 国王も力の入らない足取りでそばにやってきた。

「己が命であがなう禁忌の秘術か。おぞましいものだな」

「陛下、そんなお体で動いては……」

「これしきのことで取り乱すな。昔を忘れたんじゃあるまいな」

 歴戦の覇王は、自らの血で体を汚していても、苦痛など感じさせない顔で笑う。

 ゴルトベルクはかすかに安堵の表情を浮かべたあと、改めてレオナに向き直った。

「先がなければ、今殺しても同じだと?」

「いいえ。罰は受ける覚悟です」

「お待ちください!」

 見かねたローザリンデが国王の前で膝をついた。

「部下の咎は私の咎でもあります。私も罰を受けますので、どうかご容赦を……」

「ローザリンデ、面を上げよ」

 国王に促され、彼女は恐る恐る顔を上げる。

 国王は鷹揚な笑みを口の端に刻んだ。

「生け捕りに失敗したのは口惜しいが、やむをえまい。有能な魔術士を処罰できるほど人手が余っているわけではないからな」

 ローザリンデは心底ほっとしたように息をついた。

「ご慈悲に感謝いたします、陛下」

「礼には及ばぬ、我が娘よ」

 その時、外から慌ただしく兵士がやってきた。

「ご報告申し上げます! 賊を手引きした厩番を捕らえました!」

 国王は一瞬、探るような目をしたが、すぐに平素の不敵な表情に戻った。

「ご苦労。では釈明を聞きに行くとするか」

「お待ちください。まずは手当てを!」

 歩きだす国王を、ゴルトベルクが急いで追いかける。

 遠ざかるふたつの背を、ディルクはぼんやりと眺めた。

(終わった……?)

 緊張の糸が切れると同時に猛烈な疲労感に襲われていると、ヨハンが姿を見せた。

「くたばってはいねえようだな」

「心配してくれたんだ?」

「はあ? んなわけねえだろ! おまえが死んだら、俺ひとりでバカ師匠の面倒見なきゃなんねえだろ。そんなのやってられっか!」

 気色ばんでそっぽを向く彼は相変わらずで、ディルクは思わず笑ってしまう。

 オスヴァルトもやってきて、肩の力を抜くように言った。

「一難去ったな」

「そうだね……」

(そうだ。父さんの仇は死んだんだ)

 なんとなく心が晴れないまま、ローザリンデを見る。

 彼女はレオナと何事かを話していた。レオナがお咎めなしで嬉しいのだろう。笑顔だ。

 少なくとも彼女が泣くような事態にならなくてよかったと、それだけは強く思った。

 王都ベルンシュタインの長い夜は、まだ明けそうにないまま更けていった。

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