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魔術士は夜明けを導く  作者: 寒月アキ
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第四章 母の秘密

 目を開けると、ここ半月でなじんできた天井が視界に入った。

 自室で寝かされていたようだ。

「そっか。あのあと眠くなって……」

 怪我をした前腕は丁寧に手当てされていた。窓の外を見ると、暮れなずむ夕日が地上を赤く染めている。

 動く気になれずぼんやりしていると、小さな音を立てて扉が開いた。オスヴァルト、あるいはレオナかヨハンだろうか。

 そんな当たりをつけつつのろのろと上体を起こすと、予想に反して長い銀髪が視界に飛びこんだ。

 ディルクがぎょっとしたのと同様に、ローザリンデもまた驚いていた。

「勝手にごめんなさい。まだ眠ってると思って様子を見に……」

「あ、いえ、その、別に構いませんが……」

 それきりふたりで沈黙した。次に続ける言葉を探してディルクは視線をさまよわせる。

 ローザリンデは遠慮がちに口を開いた。

「お邪魔してもいい?」

「あ、そ、そうですよね。すみません、立たせたままで。どうぞ」

「ありがとう」

 ローザリンデは寝台の横に椅子を引き寄せ、腰かけた。それから心配そうにディルクの顔をのぞきこむ。

「気分はどう? 丸一日眠ってたのよ」

「えっ? ってことは……」

「狩猟があったのは昨日。今日ももうすぐ終わるわ」

 ディルクは唖然とした。まさかそんなに眠っていたとは。

「どうりで体の節々が痛いわけだ。寝すぎだな……」

「……それだけ? 無理してない?」

「無理なんかしてません。すみません、ご心配おかけして……」

「気にしないで。診てくれたのはゴルトベルク卿だし」

 そういえば、とてつもなく苦い丸薬を飲まされたのだった。

「あの薬が効いたんでしょうか」

「きっとそうだと思う。魔術に関して彼の右に出る者はいないもの」

 そこで彼女は言葉を切り、なにかを思い悩むように沈思した。

「どうかしましたか?」

 気になって尋ねると、彼女は少し間を置いてから答えた。

「彼、あなたに話があるって」

「……そうですよね」

 あんなことがあったのだ。宮廷魔術士として放置できないだろう。どんな取り調べが待ち受けているのかと思うと気が重い。

 とはいえ、ローザリンデが来た理由はその知らせだけではないだろう。

「ところで、ご用件は?」

「……責任、感じたから」

「責任?」

「軽い任務だからと誘ったくせに、こんな目に遭わせてしまって」

 ローザリンデは柳眉を寄せる。視線の先にあるのはディルクの怪我した前腕だ。

「痛みはない?」

「平気です、これくらい」

 証明するため、軽く腕を動かす。しっかり手当てされているため一見重症に見えるが、そんなことはないのだ。

「大げさなんですよ、この手当て」

「……やったの、私だけど」

 ローザリンデはばつが悪そうに身じろいだ。ディルクはうろたえる。

「そんな、あなたみたいな人を煩わせるようなことでは」

「いいのよ。慣れてるから。……怪我ならいつか治る。でも取り返しのつかないことになるところだった」

 彼女は必要以上に自分を責めているらしい。だがディルクにそんなつもりはない。

「これは僕が選んだ道です。結果の責任を誰かに負わせる気はありません」

「……そうだとしても、もしものことがあったら、私……」

 彼女の態度は弱々しい。剣で戦っている時の敢然とした強さは雲隠れしたかのようだ。

「あの、どうかしましたか……?」

 ローザリンデは答えず、衣嚢から取りだしたものをディルクに手渡した。

 手のひらに転がったのは翡翠の首飾りであった。

「ヨハンが探してくれたの。それでレオナが調べたわ。勝手だったとは思うけど」

「いえ、いいんです」

 こうなってしまった以上、この首飾りに秘められた力をディルクも知りたかった。

 ローザリンデは居住まいを正した。

「それには装備者の魔力を制御する力があるそうよ。あなたの魔力は強すぎるから抑制が必要だったんじゃないかって、レオナが」

「……そんな実感ありません」

 ディルクは手のひらに乗った翡翠を見つめた。こうしているだけではなんの変哲もない首飾りである。

 身に着けている間は魔力を安定させてくれる。だがその制御を失うとたちまち危うくなる。そういうことなのか。

「でも今はなにも感じません。こうして外してるのに」

「きっかけはほかにもあるのかも。例えば危険が迫ってるとか」

 心当たりはあった。父に落石が迫っていた時。ローザリンデが襲われていた時。誰かが危機に瀕すると心が騒ぎ、我を忘れそうになる。

 一回目と二回目は首飾りをしていたから小事で済んだ。だが三回目はそうはいかなかった。

 そう、あれは暴走だった。あんな惨状はとても正常とは言えない。

 狼たちの死屍が脳裏によみがえり、ぞっとした。今回は狼だけ狙えたからよかったものの、今後はどうだろう。味方を傷つけないと言い切れるだろうか。

「だから父は首飾りを付けさせたんですね。周囲に害を及ぼすから」

「それは違う。ルドルフはあなたを守りたくて」

「どうしてそう断言できるんですか!」

 膨れ上がった不安から、かみつくような言い方になる。

 そんな感情を全て受け止めるように、ローザリンデは真摯な目でディルクを見つめた。

「二年、あなたのお父様と一緒にいたから」

「たった二年じゃないですか」

「それならあなたが信じてあげて」

 彼女の声に力がこもる。揺らぐことのない紫の瞳に吸いこまれそうになる。

「思い出すのよ。あなたが見てきたお父様がどんな人か。そして信じてあげて」

 ディルクは泣きそうな感情をこらえた。

 そんなことは言われなくてもわかっている。

 なぜ自分にこのような力があるのか。

 そこまで考えて、重要なことに思い至った。

 この首飾りは最初から自分のものだったわけではない。

「これは母の形見なんです。もともとは母が身に付けてたもので……」

 生前の母を思い返す。思い出の中の彼女は片時もこの翡翠を離さなかった。

 それが意味する事実に愕然とする。

「……きっと母も魔術士だったんです……」

 しかも魔術具での制御を必要とするほどの力ある魔術士だ。

 なにも知らずにいた自分が恨めしかった。

 もしも、と考える。巨大だというこの魔力をもっと早くから使いこなせていたら、母も父も救えたのではないのか。

「どうしてなにも言ってくれなかったんだよ、父さん、母さん……!」

 つい力のこもったこぶしにローザリンデがそっと手を重ねてきた。

 温かな感触にささくれだった心が静まっていく。

「ゴルトベルク卿が答えをくれるかもしれないわ」

 深緑の長衣をまとった男を思い返す。

 彼が語る言葉に謎の解はあるのだろうか。

「あなたの体調さえよければ、明日にでも時間を設けるけど」

「問題ありません。お願いします」

 力強くうなずくと、ローザリンデはディルクから手を離した。名残惜しい気がしたが、そのぬくもりを追うことはできなかった。

「……そういえば、その後なにか判明しましたか?」

 事件から一日経過したのなら、なにかしらの進捗が期待できるのではないか。そう考えたのだが、彼女はゆるくかぶりを振った。

「残念だけど、なにも」

「そうですか……」

「そもそも今回の狩猟は内々に行ったものよ。私だって聞いたのは前日だわ。それなのにどこから情報が漏れたのか……」

 ディルクは唾を飲みこんだ。『裏切り者は案外近くにいるかもしれないんだ』――オスヴァルトの言葉を心の中で反芻する。

 ローザリンデもその可能性に思いを巡らせているようだった。

「その、心当たりは?」

 思い切って質問すると、彼女は物憂げなため息をこぼした。

「……今のルードヴィングは陛下が武力で治める国よ」

 ルードヴィングは諸侯の力が強く、衝突することが多い国だった。

 それを武力でまとめたのが現国王である。その功績により争いは減り、国内は安定した。

 しかしそれは国王に権力が集中することを意味しており、不満を持つ者が現れてもおかしくなかった。

 その懸念が顕在化したのが二年前の内戦だった。国内でもとりわけ大きな権力を有していたダールベルク侯爵がザイデルの協力を得て反旗を翻したのである。

「王を殺して権力を奪い返す。……結局はそれが目的だとしたら、心当たりなんていくらでも……。……早く見つけないといけないわね」

 暗に内通者の存在を肯定しつつ、彼女は立ち上がった。

「ゴルトベルク卿には私から話を通しておくわ」

「あ……」

 なにか言わなければ、とディルクは焦った。

 理由はわからない。だが彼女をひとりで行かせてはいけないような思いに駆られた。

「……あ、あの」

「なに?」

 ローザリンデと目が合った途端、心臓が大きく跳ねた。急いで話題を探す。

「あの……手当て、ありがとうございました」

 彼女はほほえんだ。

 それなのに泣き顔に見えたのは気のせいだろうか。

「目を覚ましてくれて、本当によかった」

 それ以上の追求を避けるように、彼女は部屋から出ていった。


 翌日は午前中のうちにゴルトベルクを訪ねることとなった。

 指定された面会場所は王宮だった。王族の私的な居住空間である王宮は、ディルクが普段生活している城館からは隔てられており、足を踏み入れるのは初めてである。

 過剰な装飾のない王宮は、豪傑な国王の気質を体現したかのようだった。略式の武装のローザリンデを先頭に長い廊下を歩きながら、ふと思う。

 王宮には王家に連なる者たちが住んでいる。国王のふたりの妃はもちろん、王子や王女たちも。

 ところがローザリンデはよそで支度を整えてきた様子だった。彼女はここに住んでいないのだろうか。

「着いたわ」

 ローザリンデの声に、はっと我に返る。

 来客の訪れに、衛兵が物々しく樫の扉を開けた。

 中ではゴルトベルクと国王が待っていた。国王の私的な客間のようである。瀟洒な調度でしつらえられた部屋で、国王は悠然と椅子に腰かけている。

「公式な場ではないのだ。楽にして構わん。そなたも堅苦しいこと言うなよ」

「……そもそも陛下にご同席いただかなくても結構なのですが。これは多分に私情を含んでおりますゆえ」

「側近の事情は余の事情でもある。いいから続けたまえ」

 ゴルトベルクが遠回しに退室を勧めるが、国王は意に介さない。

 ゴルトベルクはあきらめた様子でディルクに向き直った。

「時間が惜しい。面倒な前置きは省く。母親の名は?」

「その、ジルケです」

 命令口調にたじろぎつつ答えると、ゴルトベルクがまとう空気が少し和らいだ。

「……懐かしい呼び名だな」

 彼はおもむろに頭巾を脱いだ。顔が表に出たことで、三十代後半くらいの男だったのだと判明する。左頬に大きな切創の跡があり、目つきは鋭く、近寄りがたい雰囲気は頭巾を脱ぐ前と変わらない。

 だがその怜悧な光を宿す瞳は榛色だった。その短い髪は鳶色。

 ディルクと同じだ。ディルクはその色を母から譲り受けた。

 同じ色を持つ者同士が向かい合う。

「ジルケはツェツィーリエの愛称だった」

「ツェツィーリエ?」

「私の姉だ」

 榛色の瞳でディルクを見据える。

「おまえの母親の本当の名前はツェツィーリエ。ゴルトベルク一族先代の長女。そして次代の当主と目されていた魔術士だ」

 ローザリンデが目を丸くした。国王はおもしろいものを見つけたように片頬笑む。

 ディルクは呆然とつぶやいた。

「母さんが宮廷魔術士……」

 魔術士であったことは想定の範囲内だが、まさかゴルトベルク一族の出身で、しかも当主候補だったなんて。

「ツェツィーリエが失踪したため、結局は私が当主の座に就いたが。よもやこんな形で消息が知れようとはな」

「どうして母はそんな……」

 手がかりを求めて思い出を手繰り寄せようとしたディルクの脳裏に、母の歌声がよみがえった。

 幼い頃に幾度となく聞かされた子守歌だ。言葉にできない不思議な旋律が好きでよくせがんだものである。

 あの旋律は、今思えば睡眠魔術に似ていた。魔術を使っていたわけではないだろうが、その片鱗が現れていたのかもしれない。

(母さんは本当に魔術士だったんだ)

 ゴルトベルクはディルクの首飾りを一瞥した。怜悧な目をさらにきつく細める。

「ツェツィーリエめ、魔術具で魔力を隠していたな」

 それを聞いて腑に落ちた。

 この翡翠で一族を欺くことで、母は普通の人としての生活を手に入れたのではないか。

「今はツェツィーリエの思惑について推理する気はない」

 ゴルトベルクはディルクを回想から引き戻すように話を進める。

「単刀直入に言おう。私のもとへ来い、ディルク。おまえはこちら側の人間だ」

「え……」

「ゴルトベルクの名はルードヴィングの魔術士として最高の誉れだ。自らをむざむざ雑種に貶めることはあるまい」

 まるで特別な引力を持っているかのような魅力が、彼の言葉にはあった。

 国王からの信頼を不動のものとするゴルトベルク一族。その圧倒的で揺るぎない力を、手を伸ばせば届くところに差しだされているのだ。

 それさえあれば父の仇探しも大きく前進するかもしれない。断る理由などないはずだ。

 ディルクは顎を引きかけ――ふと思い出された声に動きを止めた。

『今日からあなたは私の魔術士です』

 ローザリンデは不安そうな面持ちでこちらを見ている。

 ディルクは決まりの悪い思いで唇を引き結んだ。

 たとえ強くなったとしても、そこにローザリンデがいないのだとしたら。

(なんだろう。……なんか嫌だ)

「……お言葉はありがたいのですが……」

「そうか。無理か。今は」

 時が経てば心変わりすると確信するかのごとく、彼は殊更に「今」を強調した。

「やすやすと主君を変えないのは正解だ。忠義に薄い者は信用できん。おまえの返事は好意的に受け取っておこう」

「でも僕は……」

「いずれ正しい道はなにかを悟る」

 独善的な主張だった。ディルクは相いれないものを感じて口をつぐむ。

 成り行きを見守っていた国王は、意味ありげな視線をゴルトベルクに送った。

「血をつなぐのは大変なことだな、ゴルトベルクよ」

 ゴルトベルクはぴくりと眉を動かしたが、それ以上の感情は現さず、話を切り上げた。

「用件は以上だ。気が変わったらいつでも来るがいい」

 それから彼はディルクの全身を眺めやった。

「ところで、その装備はどこで調達した?」

「レオナ師匠に見立ててもらったものですが……」

 意図がわからずきょとんとすると、ゴルトベルクはあきれたようにため息をついた。

「解せないな。少なくともその師匠はやめておけ」

「え……? どうして」

「その意味を理解した時、おまえはこちら側に来るだろう」

 この場で回答を明示する気はなさそうだ。

 氷の鎧をまとったような男に、凍傷覚悟で追及を重ねる勇気はない。仕方なく辞去しようとすると、国王が口を開いた。

「ローザリンデ。今宵の宴には出席するだろうな?」

 ディルクにとっては初耳の催しだったが、ローザリンデは承知済みだったようである。

「もちろんです、陛下」

「そうか。では久々のドレス姿を楽しみにしているぞ」

「……善処します」

 彼女は複雑そうな顔で目礼し、退出した。ディルクもそれに続く。

 しばらくふたりはなにも言わずにただ廊下を歩いていた。

 前を歩くローザリンデの背中が心なしかかたくなに映る。

 先に話し始めたのはローザリンデのほうだった。

「……気にしないで」

「え?」

「私に遠慮してるなら気にしないで。私は気にしない。あなたがゴルトベルク卿を選んでも」

 ディルクはむっとした。自分は確かに未熟で、彼女の力になれているとは言いがたい。それでも取るに足らないような言い方をされると腹が立った。

「僕はあなたの衣装ですか。気まぐれに取り替えて、飽きたら捨てられるような」

「だって私のもとにいるよりいいじゃない。魔術士として生きるなら、ずっと」

「僕は魔術士になりたいんじゃありません。父を殺した犯人を見つけたいんです」

「でもこのままだとあなたは……」

 ローザリンデは立ち止まり、うつむいた。怪訝に思って顔をのぞくと、紫の瞳が泣きそうに揺れている。

「え、えっと……?」

 うろたえたディルクは、そこで複数の足音を聞いた。そばの階段から誰かが降りてくる。

 それが誰かを認めたローザリンデはさっと表情をこわばらせた。

 侍女たちを引き連れて現れたのは、ディルクよりも少し年下の少女だった。背中に落ちる豊かな金髪は丹念に巻かれ、少女に愛らしさを添えている。裾の長いドレスを難なく着こなす立ち居振る舞いから、高貴な人物だと推し量れた。

 ローザリンデに気づいた少女は、口角を弓の形につり上げた。

「あら、お姉様。ご機嫌麗しゅう」

 鈴を鳴らしたような声は他者を魅了するほど可憐だったが、ローザリンデへの侮蔑を隠しきれていなかった。ディルクは不快に思ったが、残念ながら口出しできる立場にない。

 ローザリンデはよそよそしい笑みを浮かべた。

「マルガレーテ。しばらくぶりね」

「仕方ありませんわ。なにせお姉様は我が王国が誇る〈研ぎ澄ました剣〉ですもの」

 マルガレーテと呼ばれた少女は含み笑いをする。どうやらローザリンデの妹らしいが、その態度は姉への敬意には程遠い。

「ところで今宵はお姉様もご出席を?」

「ええ。ささやかながら私も誕生日を祝わせてもらうわ」

 例の宴はこの王女の生誕を祝した催しらしい。

 マルガレーテは大袈裟に手をたたく。

「まあ嬉しいですわ。……ところでお姉様、ドレスはお持ちですの? 流行遅れのドレスは嫌ですわよ。主役の私まで恥をかいてしまいますもの」

 彼女が甲高い笑い声を上げると、周囲の侍女も笑いだした。

 ディルクが込みあがる不快感を抑えるべく闘っている間にも、マルガレーテの嫌味は続く。

「古いドレスを着られるくらいなら鎧のほうがましですわ。いっそ警備に甘んじるべきではなくて? そのほうがお姉様にお似合いですわよ」

 王女の高笑いが廊下に響く。追随する侍女の笑い声もいっそうけたたましくなる。

 ――堪忍袋の緒が切れる音がした。

「……恥なんてかかせるもんか」

 小さくつぶやいたつもりであったが、思った以上に通ったらしい。ローザリンデはぎょっとし、マルガレーテは露骨に不愉快さをあらわにした。

「お姉様、飼い犬のしつけがなってないようですわ。無礼な駄犬は粗相する前に始末すべきではなくて?」

「待って!」

 事態の迅速な収拾のためか、ローザリンデは潔く頭を下げた。

「ごめんなさい。私からよく言っておくから、許してあげてくれないかしら」

「……いいですわ。今回はお姉様の顔を立ててさしあげましょう」

 マルガレーテはひとまず溜飲を下げたようだ。ドレスの裾を慣れた仕草で翻す。

「贔屓の仕立屋を紹介しますから、必要なら遠慮なく言ってくださいまし。……間に合うかどうかは知りませんけど」

 鼻につく態度は最後まで変わらなかったが、とりあえず難は去った。

 彼女たちの姿が見えなくなってすぐ、ディルクはローザリンデに謝罪した。

「すみません。余計なこと言いました」

「いいえ。……ありがとう」

 彼女の謝辞は嬉しくもあったが、納得がいかなかった。

「もっと怒っていいんじゃないですか? 妹なんですよね?」

 あのように言われて黙っている筋合いはない。ディルクはそう思うのだが、ローザリンデは苦笑いでごまかそうとする。

「実はね、母親が違うの。マルガレーテは正妃の娘だけど……私はそうじゃないから」

 彼女はそこで会話を打ち切った。足早に王宮を出て、悪い空気を吸ったかのように息を吐きだす。

 その浮かない顔に戸惑ったディルクは、とりあえず思いついたことを口にした。

「事情はよく知りませんが、でも家族なんですし」

 ローザリンデの表情がこわばった。

(まずい)

 どうにかして風向きを変えなければと、ディルクは焦って言葉を重ねる。

「家族なんだから、きちんと話せば仲良く……」

「違う。あの人たちは家族なんかじゃない」

 明確な拒絶だった。いつにない剣幕で、彼女は柳眉を逆立てる。

「私の家族は死んだお母様だけよ。……お父様だって私のことなんか……!」

かける言葉を誤ったと悟るが遅きに失した。挽回すべく慌てて別の言葉を探す。

「そ、そんなことはないんじゃ……」

 中途半端な慰めは意味を持たないと理解していた。それなのについ口をついた言葉は案の定火に油を注いだ。

「勝手なこと言わないでよ! なにも知らないくせに!」

「あ……」

 取り付く島もなく去っていく背中を呆然と見送っていると、突然肩をたたかれた。

「こんな目につくところで喧嘩とは感心しないな。口さがない連中に妙な噂を立てられるぞ」

「オスヴァルト……」

 オスヴァルトはディルクの肩に腕を回し、ささやく。

「姫となにがあった?」

「……別になにも……」

「本当に?」

 疑わしげな目をしながらも、オスヴァルトはディルクを解放した。

「そもそもどうして王宮の前に?」

「会ってきたから」

「誰に?」

「ゴルトベルク」

 オスヴァルトは虚をつかれたように動きを止めた。周囲に人がいないことを確かめ、小声で続きを促す。

「それで?」

「聞いたことある? ゴルトベルクの姉が失踪したって話」

「ああ、もちろん。当時は大騒ぎだったからな」

「それが母さんだった」

 オスヴァルトは続ける言葉に迷う素振りを見せた。ディルクは横目で小さくにらむ。

「とっくに知ってたって顔してる」

「まさか、驚いただけだよ。ルドルフの奥方が宮廷魔術士だったなんてな」

「……やっぱり驚くことなんだ?」

「普通じゃないな」

「どうして?」

「彼らが重視するのは血統だ。多少魔術を使えるだけの一兵卒じゃ嫁にもらえない。しかも相手は当主候補だろう? 陛下の盾を奪うようなものだ。認めてもらえるわけがない」

「……だから駆け落ちしたんだ」

 オスヴァルトは否定も肯定もしない。ディルクはあきれた。

「いつまではぐらかすつもり?」

 恨みがましい視線を送ると、オスヴァルトは片手で顔を覆った。

「……なにが最善か決めかねてるんだ。俺の思惑なんてお構いなしに、事態はどんどん動いてく。俺が知ってることなんてもはや単なる思い出話さ。わかってはいるんだ。隠す意味なんて今やほとんど残っちゃいないってことは」

 ディルクは苦笑いした。最初からきちんと説明してほしかったとは思うが、ディルクを慮ってこそだと理解しているので責める気はなかった。

「もういいよ。……ところで一昨日の襲撃犯は見つかった?」

 オスヴァルトはかぶりを振った。結局、収穫なしらしい。

「いったいどうやって姿くらましたんだか」

「……内通者がかくまってる、とか?」

 核心に触れようとすると、オスヴァルトは言い渋る様子を見せた。ディルクを巻きこみたくないという見地は相変わらずらしい。

「姫将軍の前で言ったよね。腹くくるって」

「……本当にルドルフを彷彿とさせられるよ。その、一度決めたら曲げない性格」

 彼は手振りで降参の意を示すと、覚悟を決めたように話しだした。

「俺は先の内戦が関係してるとにらんでる。ダールベルク侯爵は王家に次ぐ権力者だったが、内戦で陛下に敗れた。その記憶が薄れるまで、ほかの反乱因子が表立つ可能性は低いだろう。では、誰なら無謀な賭けに出る? ――侯爵一派の残党ならありえないか?」

 それは確かに説得力のある考察に思えた。

 だが侯爵に連なる者の多くは戦死している。辛うじて生き残った者も侯爵を筆頭に処刑されたという話だ。運よく生き延びた者がいてもおかしくはないが、これだけでは根拠に乏しい。

 そんな考えを表情から悟ったらしい。そのとおり、とオスヴァルトは言った。

「現時点では推測の域を出ないよ。だがザイデルの動きも怪しいし、侯爵と協力関係にあったことを考慮すれば、あながち的外れではないと思ってる。あとは内通者だが……」

「目星はついてるの?」

「……いいや。……刺青がないからな」

 オスヴァルトは目線を落とした。ディルクは首をかしげる。

「刺青って?」

「……侯爵が従えていた魔術士一族は、顔に刺青をしていたという話でな。それが目印になりそうなんだが……」

「それならレオナ師匠に聞いてみようか? なにか知ってるかも」

「そうだな。……まずは俺から探りを入れよう。今の話、誰にも言うなよ。どこに敵の目があるか知れないからな」

「わかった。そうする」

 オスヴァルトの意見はもっともだと思ったので、ディルクは素直に同意した。

 オスヴァルトは緊張の糸をほぐすように口の端を上げた。

「今宵は宴の警備がある。動くのは明日だな」

「ひょっとして姫将軍の妹の?」

「よく知ってるな」

「さっき流れでちょっと」

 先程の会話を思い返していると、ローザリンデの怒った顔が浮かんできた。

 再び悶々としかけると、オスヴァルトに肩をたたかれた。

「君も来るか? 警備に加えてやってもいいぞ」

「へ? いやでも、行く理由がないし」

「来ればローザリンデ姫に会える。こじらせる前に謝っておけ」

 束の間、ディルクは言葉に詰まった。

「……別に謝るようなことしてないし」

「その見解には見落としがありそうだな」

 冷静な指摘が心に刺さった。

「僕はただ……妹とか、家族への態度が気になって」

「それで余計なこと言ったのか」

「……余計だったかもしれないけど、そんな変なこと言ったつもりは」

「……君、案外鈍いのか?」

 露骨にあきれ顔をされるのは心外だった。これでは一方的な悪者扱いではないか。

「仕方ないだろ。僕はなにも知らないんだし。それとも無関心がよかったってこと?」

「ああ、そうだな。悪かったよ」

 オスヴァルトは早々に白旗を上げ、真顔になった。

「彼女が姫将軍なんかやってるのは陛下のご命令だからだ。思い悩むこともあるだろう。他人が不用意に口出しできる問題じゃない」

「国王の命令? そんなのおかしいよ。実の娘を、そんな……」

「この国が彼女を必要としてるんだ。彼女の母親の後継者としてな」

 ローザリンデの母親。そういえば彼女が「死んだ」と言っていたような。

 オスヴァルトは声の調子を落とした。

「以前はこの国に滅法強い女騎士がいた。……姫の母君で陛下の側室だったパウラ様だよ」

「ああ……」

 その名前はディルクにも聞き覚えがあった。市井でも話題になるほどの活躍ぶりだったはずだ。

 オスヴァルトは過去を懐かしむように目を細める。

「陛下とパウラ様は向かうところ敵なしだった。おふたりの勇姿に士気を高めた兵士は多い。おふたりのもとで戦えてよかったと、誰もが心底思ったものさ」

 彼の表情には敬慕の情が浮かんでいた。

「ローザリンデ姫がお生まれになったあとも、パウラ様は戦い続けた。母子そろってほとんどの時間を兵舎で過ごされていたよ。……平民出身のパウラ様を妃殿下がお認めにならず、王宮への立ち入りにも制限を設け、孤立に追いやろうとしたせいでもあるが」

 ずきりと胸が痛んだ。マルガレーテの態度を思えば、ローザリンデの境遇はわずかでも想像できた。

「そんなパウラ様も、先の内戦で命を落とされた」

 オスヴァルトは悔しげに顔をゆがめる。

「彼女の死は王国兵を少なからず動揺させた。いや、兵士だけじゃない。彼女を信望していた国民も失意に暮れたはずだ。だから早急に立て直す必要があったんだ。他国に付け入る隙を与えないためにも」

 そこで国王はひとつの決断をする。

「ローザリンデ姫をパウラ様の後継者として『姫将軍』に仕立てた」

 ディルクはその時のローザリンデの心情を想像してみた。

 彼女はどんな気持ちで父親の命令を受け入れたのだろう。

「姫は兵士たちから歓迎されたよ。もともとかわいがられていたのもあるし、剣の才覚も疑いようもなかったからな。国民だって守護の象徴の再来に歓喜しただろう。君だって彼女の噂くらい、ここに来る前から聞いてたんじゃないのか」

「……うん」

 以前の自分はただすごい人がいると思っただけだった。姫なんて異国のように遠い存在である。自分と同い年だと聞いても、身近に感じたことは一度もない。

 だから好き勝手に期待を押しつけることができる。自分と同じ世界に生きる人間だと思っていないから。

 そして誰も彼女の意思を問題にしない。しても意味がないからだ。彼女はたったひとつしかない道をただ歩くことしか許されないのである。

 だから誰も彼女の本心を知らない。――自分も例外ではなく。

「……話してくれてありがとう」

「あんな顔、姫に何度もさせるわけにはいかないからな」

 彼は大きな手をディルクの頭に乗せた。

「ここにいる間は彼女の支えになってくれないか。俺たちだけじゃ、どうにも限界でな」

「……うん。わかった」

 はたして自分になにができるのかはわからない。

 それでも放っておけないと強く思った。

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