第三章 盾の魔術士
泣くのは我慢している。
それでも朝目覚めると涙が頬を伝っていることがある。
どんな夢だったのかは覚えていない。
けれどいつも幸せの余韻だけが心に残っていて――さらに一粒、涙がこぼれた。
◇ ◇ ◇
初めて目の当たりにする王都の街並みに、ディルクは興奮を抑えきれなかった。
ルードヴィング王国最大の都市ベルンシュタイン。人口も多く、道が狭いと感じるほどたくさんの人々とすれ違う。
街全体が活気にあふれており、子どもたちの笑い声が絶え間なく聞こえてくる。
道も、家屋も、街の隅々まで手入れが行き届いており、街路樹には美しい花々が咲き乱れている。
さらにここは政治の中枢を担う貴族階級が住まう街でもあった。王城に近い区画に入ると彼らの邸宅の華々しさが目を引くようになる。
そして高台から城下を見晴るかす王城の荘厳さは遠目にも際立っていた。堅牢な城壁の内側には、王宮だけでなく、執政機能を備えた城館や城内で働く者たちの住まいもある。
ローザリンデ付きの魔術士は城内に居室を与えられていた。
ディルクは当面の間ここで生活し、魔術の修業に励むこととなった。
兵士の詰め所に近い城館の一角に、レオナとヨハンの私室はあった。
「この部屋なら空いてるわ。好きに使っていいわよ」
ディルクはレオナに案内された部屋の中へ足を踏み入れた。
寝台や机といった必要最低限の家具はすでにそろっているため、すぐに生活できそうだ。
それより気になったのは床に散乱している本の数々だった。
こうなっていることをレオナは知らなかったのだろう。呆気にとられたあと、まなじりをつりあげた。
「ヨハン! あんたがやったんでしょ!」
「……うっせえな」
その場からこっそり逃げだそうとしていたヨハンだったが、見とがめられて立ち止まった。
気だるそうに前髪をかきあげる仕草からは反省の色はうかがえない。
「弟子がこんなにも勉強熱心なんだ。もっと自慢してくれていいんだぜ」
「不肖の弟子のために高くする鼻なんてないわよ! 片づけなさい、今すぐに!」
「こいつにやらせればいいじゃん」
ヨハンは目顔でディルクを示す。しかしレオナは認めなかった。
「自分でやったことの始末くらい自分でなさい。それが終わったらディルクに城内を案内してあげるのよ」
「ちっ。面倒くせえな」
「あたしは姫様に用があるから見張れないけど」
「とっとと行けよ」
「さぼったら承知しないから。いいわね?」
「……わかったよ。やりゃあいいんだろ」
レオナにすごまれ、ヨハンは渋々承諾する。
彼女が去り、ふたりきりになると、ディルクはなんとも気まずい心地がした。これまでヨハンとまともに会話をする機会がなかったのだ。
「えっと、ヨハンさん?」
とりあえず話しかけてみると、彼は冷たくディルクを見返した。
「俺、上下関係とか嫌いだし。別に呼び捨てでいいから。敬語もやめろ」
師匠にさえぞんざいな言葉遣いをする彼は、さっさと床の本を集め始めた。その口調とは裏腹に扱いは丁寧である。
改めて室内の本を数えると相当なものだった。全部読破したのだとしたら、勉強熱心という話は真実なのだろう。
一歳年上だという彼に尊敬の念を抱きつつ、ディルクも手伝うことにした。
「オスヴァルトにも同じこと言われたよ。意外だったな。城勤めの人ってもっと堅苦しい気がしてた」
「それ、姫の配下だからかもな」
「どういう意味?」
「姫の下にいるのはほぼ平民だ。堅苦しいの代表たる貴族はだいたいが陛下の側仕え」
「どうして?」
「さあ? いつ死んでもいいようにじゃね?」
ディルクは続ける言葉を失った。
身分制度とは無縁に生きてきたので実感はわかない。それでも、それが意味することはわかる。
ヨハンはにべもなく続ける。
「最近は陛下が前線に出るような戦も減ったしな。陛下のお膝元はさぞ安全地帯だろうよ」
「でも姫将軍だって王族だよね。どうしてそんな……」
「俺が知るかよ。っていうか、あんた邪魔」
「あ、ごめん」
ディルクが場所を空けると、その足元にあった最後の一冊をヨハンは拾い、立ちあがった。それから黙って部屋を出るので慌てて追いかける。
廊下を歩きながら周囲を観察してみるが、自分たち以外の人の気配はなかった。
「ほかに魔術士は?」
「いねえよ。姫の配下って意味ならな。前にいた奴は殉職しちまったらしいし」
ディルクは絶句した。話題を誤ったと後悔する。
(そうだよな。死ぬよな。殺し合いをしてるんだから)
そんなディルクを顧みることなく、ヨハンは廊下の角を曲がる。その突き当たりには立派な扉があった。
「開けろ」
「ちょ、ちょっと待って」
ディルクは両手がふさがっているヨハンのために扉を開ける。
そこには所狭しと並べられた本棚と、その全てにぎっしりと収まるほどの本があった。
ヨハンは机にどさりと本を置き、首を鳴らす。
「ここは図書室。魔術に関する蔵書の保管場所だ」
彼の口ぶりでは大したことなさそうだが、実際はそうではない。そもそも本は高価で、庶民はなかなか手にすることができないのだ。これほどの数の本を、ディルクは今まで見たことがない。
「すごい……!」
「全然」
感動はあっけなく一蹴された。
むっとしてヨハンを見ると、思いがけず真摯なまなざしに出会う。
「読むべき本はもっとたくさんあるんだよ。単に俺たちが読めねえだけ」
「どういうこと?」
「知識の独占ってやつだ。ったく、だから宮廷魔術士は鼻持ちならねえんだ」
「宮廷魔術士?」
「ゴルトベルク一族だよ。知らねえの?」
素直に首を縦に振る。そういえば先日のレオナの話にも出てきた気がする名前だ。
ヨハンは本を棚に戻しつつ、仕方なさそうに解説を始めた。
「王国最強の魔術士一族、それがゴルトベルクだ。奴らは代々王家に仕えていて、別名は〈王の左手〉」
「左手?」
手伝いながら問い返す。手持ちの本を棚にしまい終えたヨハンは、空いた右手で剣、左手で盾を持つ真似をしてみせた。
「まず右手が剣。つまり陛下直属の近衛騎士団のことだ。で、左手は盾。要するにゴルトベルクは陛下を守る盾なんだ。陰日向に王家を支えてるってわけ」
彼は指を二本突きたてた。
「魔術士の系統は大きくふたつに分かれる。ゴルトベルクみたいな血統と、俺ら雑種だ」
「雑種って、そんな言い方……」
「それだけ特別なんだよ。ゴルトベルク一族は生まれる子どもみんな魔術の素質があるって話だ。しかも強い。そういう魔術士一族はほかにもいて、上級貴族に仕えてたりするが、強さでいったらゴルトベルクが一番らしい」
「魔術士の家系ってそんなに珍しいの? そういう才能って血筋の影響が大きそうだけど」
「それもある。だけど絶対じゃねえ。俺の家に魔術士はいねえしな。だから尋常じゃねえんだよ。強い魔術士を代々安定供給なんてのはな」
身も蓋もない表現である。
「安定供給って……。道具じゃないんだから」
「似たようなもんだろ。主君に仕えることしか許されないんだぜ。ある意味、気の毒だよな」
確かにディルクには想像もできない宿命だ。住む世界が違うとしか思えない。
ヨハンは本を棚に戻す作業を再開した。
「だからゴルトベルクは王家から絶対の信頼を勝ち得てるんだけどな。歴史を紐解いても裏切りの記録はねえし。……ま、そのうち俺が鼻を明かしてやるけどな」
翠の瞳が野心に燃えあがる。魔術士としての矜持は人一倍強いらしい。
それより、と彼はディルクを見た。
「あんた、詠唱なしで魔術使ったって、本当に本当なんだよな?」
「姫将軍と会った時のこと? そうらしいって話だけど……」
いまだに自覚がないため、他人事のような言い方になる。
ふとヨハンと目を合わせると、彼は険しい表情をしていた。
「ヨ、ヨハン……?」
「くそ、負けねえからな!」
最後の一冊を本棚に押しこんだ彼は、荒々しい足取りで部屋を出ていった。
「いったいなんなんだ……?」
去っていくヨハンをぽかんと見送っていると、開け放たれた扉の向こうからレオナが姿を見せた。なぜか小さな籠を提げている。
「それだけあんたが脅威ってことよ。……それにしても、あたしに気づかず行っちゃうなんて相当ね。気持ちはわからないでもないけど……」
「あれ? もう用事終わったんですか?」
「もともと大した用じゃなかったのよ。バカ弟子をさぼらせないための口実ってだけ。……だけど次は城の案内って言いつけたじゃない。まったく困ったものだわ。あとでお仕置きしないと……」
「あ、あの、脅威ってどういうことですか?」
レオナの不気味な表情から不穏な空気を感じ取って話題を変えると、彼女は普段の顔つきに戻った。
「普通は考えられないのよ。習ってもいない魔術を発動させるなんてね。この前ははぐらかされてあげたけど……あんた本当に何者なの?」
「……わかりません」
そう答えるしかないディルクに、レオナがゆっくりと近づいてくる。彼女がまとう宝飾具の鎖がしゃらりと繊細な音を立てた。
「ねえ、調べさせてくれる気になった?」
彼女の視線はディルクの首飾りに注がれている。
どこか前のめりなレオナから逃れたくてディルクは身を引いた。
「でも父の遺言なんです。決して外すなって」
「あら、知りたくないの?」
「……それは……だけど……」
「もったいぶらないで、少し見せて」
伸びてきた彼女の手を反射的に振り払う。すると思った以上に高い音が鳴ってしまい、申し訳ない気持ちになった。
「すみません。でも……」
もちろん全てを明らかにしたい。それでも約束したのだ。父の真意は不明だが、反故にするのはためらわれる。
レオナはやや赤くなった手をさすりつつ、大して気にしたふうでもなく言った。
「仕方ないから今日も見逃してあげようかしら。だけど近いうちに実行するわ。必ずね」
「え?」
「潔白を証明してほしいのよ。姫様のおそばにいたいならね」
「それってなんの嫌疑ですか」
「だって姫様にとって有害なものかもしれないじゃない」
思いもよらないことを言われてディルクは面食らった。
「父の人柄は知ってるんですよね? どうしてそんな……」
「そうやって油断して、万が一にも姫様に危険が及んだらどうするつもり?」
「そんなこと……」
「魔術具の効果は不可思議で強力なの。あなたが想像する以上にね」
当惑するディルクに、レオナは強く言い聞かせる。
「それがルドルフ様の善意だったとしても、いつその思惑から外れるか知れないわ」
「まるでこれに意思があるような言い方ですね」
「それが力ってものよ。取り扱いを間違えたら大変なことになるわ。だから放置は許されないのよ。あんたも姫様付きなら覚えておきなさい」
「いやいや、まさかでしょう。だって僕はもう二年も身に付けてるんですよ」
「まだ押してないだけかもしれないでしょ。目に見えない釦をね」
そんなことがあるのだろうか。母の形見に恐れる効果があるとは思いたくないが。
「……考えておきます……」
完全に納得できてはいないが、口をついたのはそんな返事だった。
「決断は早めにね」
さて、とレオナは図書室の扉に手をかけた。
「渡したいものがあるの。付いてきなさい」
レオナは別の部屋へいざない、壁にかけられた数本の杖のうち一本を手に取った。腕よりも少し長いくらい、飾り気はないが程よい太さでしっかりとした木製だ。
「魔術用の杖よ。いろんな種類があるけど、魔術士ならなにかしら持ってるのが普通ね」
ディルクはうなずいた。レオナやヨハンが日常的に杖を所持していることはすでに知っている。
「杖にはひとつひとつ個性があって、持ち主との相性が大切なの。基本的には自由に選んでいいけど、当面はこれを使いなさい。初心者向けだから」
「ありがとうございます」
少し緊張しながら受け取る。軽く握ってみると、体内に不思議な力が流れこんだ。
レオナは満足そうに目を細めた。
「それで問題なさそうね。杖も魔術具の一種なのよ。術者の負荷を軽くしたり、威力を上げたりしてくれるわ。だから杖なしで魔術を使ってはだめ。少なくとも初めのうちはね」
「もし使ったら?」
「最悪、死ぬわね」
ぎょっとするディルクをレオナはからかうように見る。
「とはいえ、そんなこと滅多にないわ。せいぜい意識を失うくらいよ。……でもね、杖があっても油断は禁物。魔術が強力であればあるほど、体への負担も大きくなるから」
「気を付けます」
ディルクは神妙に答えながら、ふとローザリンデと出会った時のことを思い返した。
「以前、僕が魔術を使った時、杖はありませんでしたが……」
「そうなのよ。生きてるのが奇跡。死ななくてよかったわね」
「えっ?」
ディルクが青ざめると、レオナはにまりと笑った。
「冗談よ。防御魔術は初歩の初歩で魔力も大して消費しないの。装備が不十分な初心者でも死ぬことはないわ。まあ標準よりは疲労が少なそうだったってのはあるけど……その首飾りが代用になった可能性もありそうね。どう? 調べさせてくれたら明らかになるわよ」
ちゃっかり催促したレオナは、次いで衣装棚から灰色の長衣を引っ張りだした。
「これは術衣。魔力の糸を織りこんだ服のことで、やっぱり魔術具みたいなものね。杖ほど重要ではないけれど、事情がない限り着るべきよ。ゆくゆくはあんたに合ったものを仕立てるけど、しばらくはこれで様子を見ましょう」
「わかりました」
ディルクは渡された術衣を広げてみた。足首まで届く無地の長衣は極めて地味である。もちろん見た目を理由に拒むつもりはないのだが、それよりも――少し大きい気がする。
難しい顔で黙りこむと、レオナは察したのだろう。意地悪な笑みを口元に刻んだ。
「ごめんなさい。今それしかなくて。……女の子用なら一回り小さいのあるけど?」
ディルクは頬を赤くした。乱雑に長衣を折り畳む。
「お気遣いなく。これでぴったりですから」
「それは結構」
レオナはからからと笑い声を立てる。
ディルクはむっと口の端を曲げ、話題を変えることにした。
「……あの、実は気になってたことがあって」
「なに?」
「初対面の時、オスヴァルトが『自分の境遇と重ねて』って言ったのって……」
「……そういえばそんな話したわね」
彼女は笑みを消し、声を低くした。
「言葉どおり、あたしもあんたと一緒。先の内戦で家族を亡くしたのよ。故郷はダールベルク地方の辺境の村だったから、王都からは遠くて。なにもできなかったの。出仕してたあたしには、なにも……」
ダールベルクは二年前の内戦の中心地であった。ダールベルク地方を統治していた侯爵が反乱を起こしたのである。
「お気の毒に……」
不用意な発言だっただろうか。今更ながらに後悔していると、彼女は苦笑した。
「よくある傷跡よ。気にすることないわ」
「……だから思ったんですか? 殺された家族のためになにかをしたいって」
「……否定はしないわ」
「そうですよね。やっぱり……」
身の内にうずまく暗い感情を肯定してもらえた気がした。オスヴァルトにはいまだ反対されているが、これで正しいのだ。痛みに立ち向かうことでしか家族を失った傷を癒やすことはできない。そう思う。
レオナはふっと小さく笑った。
「よかったわね。オスヴァルト様がいてくれて」
「え? ……彼に賛成なんですか?」
「違うわよ。あんたが進む道を選ぶのはあんた自身であるべきだもの。あたしは賛成も反対もしない」
ただ、と彼女は付け加える。
「……大事だなって思うのよ。オスヴァルト様みたいな人も」
その灰色の瞳に陰りが差したのは一瞬だった。
彼女は明るい調子を取り戻すようにぽんと手をたたいた。
「忘れるところだったわ。これあげる」
彼女は机に置いていた籠から布で包んだ丸いものを取りだした。握りこぶしよりひと回り小さいくらいのそれを受け取り、布を広げると、香ばしい香りが漂う。紐状の生地を丸めて揚げた菓子だ。
「シュネーバル!」
その名を言い当てると、レオナは意外そうな顔をした。
「知ってるの? 王都では売ってないし、フランツェンにもなかったと思うけど」
「僕、生まれはザルデルンなんです。ダールベルク地方の紡績町」
「……そう。あんたもダールベルク出身なの」
「本当、奇遇ですね。シュネーバルはザルデルンにいた頃よく食べてましたが、フランツェンに来てからは一度も……どうしてこれを?」
「姫様からよ。昔食べた味が忘れられないらしく、料理人にお願いしてたまに作ってもらってるのよ。それであたしにもおすそ分け」
「へえ。それじゃあ僕もありがたくいただきます」
頬張ると程よい甘みの香ばしい味が口中に広がり、ディルクは笑顔になった。シュネーバルは家庭によって異なった味わいを楽しめる菓子だが、これは懐かしい味だった。母の手作りと似ているのだ。
レオナもシュネーバルをひとつ取り、大切そうに口元に寄せた。
「これはあたしにとって故郷の味よ。うちのはもっと甘かったけど、小さい頃から大好きだった……」
過去を追想するように言ったあと、彼女はディルクに向き直った。
「今日はもう休んでいいわよ。ヨハンにはあたしから話しておくわ」
「……それでは、失礼します」
レオナの目には静かな怒りが宿っていた。兄弟子の身を密かに案じつつ、廊下をしばらく歩いてからディルクは独りごちた。
「調べるべきなんだろうな……」
父のことは信じている。だがディルクは長い間、秘密という名の安全な籠に閉じこめられていたのだ。籠の外になにが待っているのか知るのは少し怖い。
(父さん、母さん……)
どうか裏切らないでほしい。なにが明るみになっても誇れる両親のままでいてくれと、願った。
魔術の修業を始めてから半月が経過した。
ディルクはとにかく基礎を学んだ。レオナの教えを受け、魔術書を読み、魔術のなんたるかの理解に努めていると、あっという間に毎日が過ぎていった。
「ディルク」
自室で魔術書に目を通していたディルクは、呼ばれて顔を上げた。オスヴァルトだ。
術衣姿のディルクを見た彼はにやりと口角を上げた。
「なかなか様になってるじゃないか」
「まだまだだよ」
ディルクは読んでいた魔術書を閉じ、椅子から立ちあがった。灰色の術衣は予想どおり若干大きめであったが、根性で着こなしている。
「覚えることが山ほどあるんだ。まだヨハンの足元にも及ばない」
「おいおい。たった半月で追い越されたら発狂するぞ」
「そうなんだけど、でも……」
一日も早く無力な自分から脱したい。足踏みしている場合ではないのだ。
そんな感情を見透かしたのか、オスヴァルトにぽんぽんと頭をたたかれた。
「そう焦るな。万一の時に自分の身を守れれば十分じゃないか。……そう簡単には解決しそうにないしな」
その苦笑に、成果が出ていないのだと察する。
ディルクが魔術の修業に明け暮れている間、オスヴァルトはルドルフの足跡をたどろうとしていた。しかしあちこち旅して回っていた男の行動を追うのは容易でないのだろう。
悶々とするディルクの肩にオスヴァルトが手を置いた。
「たまには体を動かさないか? そうだな、短剣の扱い方を指南してあげようか」
「えっ? 本当に?」
「父親の形見、使えるようになりたいだろ」
ディルクは勢いよくうなずいた。どちらかといえば野山を駆け回る遊びが得意だったので、むしろ剣のほうがなじみやすいかもしれないと思っていたのだ。
ふとザルデルンにいた頃のことが思い出された。
「前にちょっとだけ習ったことがあるんだ。小さい頃にたまに遊んだ友達で、剣を習ってる子がいて」
あの母子は元気にしているだろうか。よく考えればふたりとも王都に住んでいるのだし、いつか再会できるかもしれない。
「そういえばその子のお母さん、騎士だって言ってた。ひょっとしてオスヴァルトの知り合いだったりしないかな? 銀髪で男勝りな感じで、けっこう美人だった気がするんだけど」
「えっ?」
オスヴァルトは頓狂な声を上げた。
「……心当たりなくもないが……その友達って、まさか女の子か?」
「え? いやいや違うよ。あいつは男だよ」
「本当か?」
「嘘ついてどうするんだよ。……わざわざ確認したわけじゃないけど、髪は短かったし、服も男ものだったし。……すごく強かったし。だから男だよ」
「じゃあ人違いか……?」
オスヴァルトはうーんとうなったまま黙りこんでしまう。
脱線してしまったので、ディルクは話を戻すことにした。
「とりあえず着替えるよ。この服、動きにくくて」
地味であること以上に不満なのは丈が長いことだった。足首まで届く裾が歩くたびにもつれて邪魔なことこの上ない。ゆったりした身幅も動きを妨げる。
オスヴァルトはしげしげとディルクの術衣を見つめた。
「その服、君にはちょっと大きすぎるんじゃないか?」
「気のせいだから!」
ディルクは力任せにオスヴァルトを部屋から追いだした。
そうして服装を改めてから屋外へ出ると、薄い雲が広がる空がディルクを迎えた。
そういえば昨日の天気が思い出せない。昨日だけでなく、一昨日も、一昨昨日も。
近くの兵舎へ向かうと、併設された練兵所では兵士たちが戦闘訓練を行っていた。
その中でも一際目立つ長い銀髪が軽やかに舞っている。ローザリンデだ。
彼女はどうやら一対一の練習試合をしているらしかった。相手の兵士は重そうな剣を軽々と振り回してローザリンデに切りかかる。ローザリンデはそれを右に左にかわしている。
そんな攻防がしばらく続くと、兵士は痺れを切らした様子を見せた。
ローザリンデはその隙をついて兵士の背後に回った。鮮やかな剣筋は迷いなく相手を追いつめる。
「はっ!」
裂帛の気合とともに振り下ろした剣は、正確に相手の急所をとらえていた。兵士は尻もちをつき、情けない声を上げる。
「ま、参りました……」
「ありがとうございます」
ローザリンデは剣を下ろし、すがすがしい笑顔で一礼する。
周囲で見学していた兵士たちは拍手喝采でローザリンデを称えた。
オスヴァルトが感心したように顎をさする。
「ますます腕に磨きがかかっているな」
ディルクは感服して声も出ない。
その剣の腕を見れば、彼女がお飾りの指揮官でないことは明白だった。女である以上、力押しで男とやりあうのは厳しいだろう。しかし巧みな剣術と速さ、そして的確な判断力が彼女の強さにつながっているようだった。
彼女の立ち姿が一瞬、過去の友達と重なり、ディルクは慌ててかぶりを振った。オスヴァルトが女だなんて言うからだ。
百歩譲って友達が実は女だったとしても、長い前髪で顔を隠す内向的な子どもと同一人物とは思えなかった。
「お姫様ってみんなあんなふうに戦えるものなのかな」
ディルクが呑気な感想を述べると、オスヴァルトは脱力したように体勢を崩した。
「そんなわけないだろ。ほかの姫君はまともに剣を握ったことさえないだろうさ」
「じゃあ、なんで姫将軍だけ?」
「姫にとって兵舎は遊び場だったんだ。試しに剣を持たせたら筋もよかった」
「兵舎が遊び場? お姫様なのに? 変わってるね」
そんな会話をしていると、ローザリンデがディルクたちに気づいた。
「ちょうどよかった。オスヴァルトに相談したいことがあったのです」
人気のない場所へ移動しながら彼女は続ける。
「明日、一緒に警護にあたってくれませんか? 陛下の狩猟に同行するのですが」
「それはもちろん、ぜひお供させてください」
オスヴァルトは嬉々として応諾した。きょとんとするディルクに彼は解説を加える。
「陛下は武勇で名をはせたお方だ。当然、狩猟も得意であらせられる。一見の価値ありだぞ」
「オスヴァルトは陛下の剣や弓が好きなのよ」
くすりと笑みをこぼしたあと、ローザリンデは真顔になった。
「先日のこともあります。用心するに越したことはないでしょう」
ディルクは襲撃の時の様子を思い出して表情を硬くした。
オスヴァルトも渋い顔をする。
「屋外での護衛はどうしたって限界がある。敵にとっては好機だろうな」
「それじゃあ狩猟なんてしてる場合じゃないんじゃ……」
「そうね。……でも今に始まったことではないから。私たちにとってはこれが日常。恐れるだけではなにもできないわ」
特別なことではないと彼女は言外に告げる。だから取りやめはしないと。
「大丈夫。近衛兵と宮廷魔術士もいるもの」
ディルクが沈んだ表情をすると、彼女は場の空気を明るくするように声調を高くした。
「場所は王都近郊にある王家の私有地なの。そこは敵が大挙襲来できる立地じゃないわ。だから全ては可能性、念のための話よ」
「そもそも陛下ご自身がお強いからな。陛下をあだなすことは城の制圧より難しそうだ」
オスヴァルトも気負う様子なく話す。
ふたりとも慣れているのだ。
見知らぬ世界にひとりで放りこまれたようで、ディルクは重くなった口を動かせない。
それを見かねてか、ローザリンデが提案した。
「あなたも来る?」
散歩に誘うような気軽さだった。ディルクは面食らう。
「でも僕は……」
「先程も言ったように神経をとがらせる任務ではないの。護衛だって大勢引き連れるわけじゃないわ。そんなことしたら興ざめだって怒られちゃう」
「姫、ですが……」
オスヴァルトは反対のようである。
続けようとした彼を、ローザリンデは片手で制した。
「今回だけではありません。ルドルフの件の真相を追うなら危難は避けられないでしょう。私はその時に備えたいのです。だからまずは危険の少ない任務を」
決然とした声音に、オスヴァルトは反論の言葉をのみこむ。
ローザリンデは紫の瞳にディルクを映した。
「この経験が未来のあなたを救うと、私は信じるわ」
「それなら、ぜひ行かせてください」
ディルクも彼女に賛成だった。自分には経験が必要だ。いざという時になにもできないでは困る。
オスヴァルトはやれやれと嘆息した。
「獅子の子落としですか。確かに姫の言い分にも一理ありますけど」
「オスヴァルトは過保護ですね」
「ルドルフの望みに忠実なだけですよ。姫やディルクの意向を尊重しつつ、あいつとの約束も守る……正直、身に余ります」
「それでも、あなたなら果たしてくれるのでしょう?」
「はあ……姫にはかないませんね」
彼は前髪をかきあげながら苦笑した。
「改めて、明日は姫にお供するとお約束します。……ディルクを連れて」
「ありがとう」
ローザリンデは満足げにほほえむ。
そんなふたりのやりとりを、ディルクは一歩引いたところで眺めていた。
ふたりが醸す雰囲気に確かな信頼関係を感じる。それがとても羨ましい。
いつかは自分もそこに加われるのだろうか。
とにかく力を付けるのが先決だ。俄然やる気が出てきて、短剣の柄を強くつかむ。
「オスヴァルト、そろそろ……」
「ああ、そうだったな」
「もしかして、ディルクに剣を?」
ディルクの短剣に視線を止めたローザリンデは、興味津々といった表情になった。
「それなら私も……」
「い、いえ。お気持ちはありがたいですが、遠慮しておきます」
ディルクは大慌てで断った。
彼女の強さは先程の練習試合でよくわかった。だからこそ一緒に稽古はできない。情けない姿を見せたくなかった。
「行こう、オスヴァルト」
そそくさと歩きだしたディルクは、彼女が傍目にもわかるほど落胆したことに気づかなかった。
オスヴァルトはやれやれと独語しながらディルクを追った。
翌日は見事な晴天で、絶好の狩り日和となった。
オスヴァルトら兵士数名、そしてディルク、ヨハンを伴ったローザリンデは、少し距離を置いた場所から狩猟を見守っていた。ヨハンも経験を積むためにと同行が決まったのだ。
狩猟の中心にいるのは、日の光に輝く金髪が目立つ精悍な男だった。紫の瞳からは剛毅な気性がうかがえる。全身からあふれる威圧感は王者の風格そのものだ。離れているからこそ直視できているが、近づけば気おされ、膝を折ってしまいそうである。
彼こそがルードヴィング王国国王フェリクス。王国最強とうたわれるほど武勇に優れ、数多くの戦に勝利してきた覇王だ。国民からは英雄のごとき信望を集めており、ローザリンデの父親でもある。
猟犬を放った森の中、国王は強弓を手に獲物を追いこんでいる。参加者はほかにもいるが、国王の技量は卓抜していた。
「久々に拝見したが、いまだ衰えを見せない。さすがとしか言いようがないな」
オスヴァルトの声には国王への敬愛がにじんでいた。どうやら彼はディルクが想像する以上に国王を尊敬しているようだ。
国王はやがて鹿を一頭仕留めた。参加者たちが歓声を上げる。
ディルクも思わず興奮しかけた時、なにかが歓声に紛れて聞こえてきた。
それが魔術の呪文だということを、ディルクはもう知っていた。
「ヨハン!」
「わかってる」
ヨハンはうなずき返し、呪文の詠唱を始める。
ローザリンデは不安そうに国王を見た。
「大変……。陛下!」
しかし国王にはべることを許された魔術士たちが後れを取るはずはない。彼らはすでに魔術を唱え始めている。
オスヴァルトはローザリンデのそばへ移動した。
「陛下は大丈夫でしょう。姫は御身のことをお考えください」
「……そうですね」
同意を示しながらもらも、ローザリンデは国王から目を離そうとしない。
各々が臨戦態勢を整える中、未熟なディルクは対抗策を講じられずにいた。もどかしい思いでただ詠唱に注意を傾ける。
そこでふと気づいた。
呪文に聞き覚えがあったのだ。
城に来てから学んだのではない。もっと昔に聞いたように思う。
(どこで? 誰から? どうして?)
しかし過去を振り返る間もなく襲撃者の詠唱が終わった。ほぼ同時にヨハンが杖を振りかざす。
直後、空気が破裂するような音が辺りに響き渡った。ディルクは耳を押さえながら尋ねる。
「これって?」
「敵の魔術は睡眠だ。それ聞くと眠っちまうから相殺させたんだよ」
睡眠魔術には空気の振動を操作することで対抗する。それは魔術書にも載っている定石で、宮廷魔術士たちも同じ手段を取ったようだ。見たところこちらに被害はなさそうである。
ほっとした空気が流れたのも束の間、国王が一喝した。
「油断するな!」
ディルクははっとした。そういえば別の詠唱が聞こえてくる。
その出所をたどった先にひとりの男がいた。頭巾を目深にかぶった深緑の長衣の魔術士は杖に意識を集中させている。
「あの呪文は?」
ディルクの問いに、ヨハンはわからないといった素振りを見せる。
オスヴァルトは周囲を警戒しながら言った。
「囲まれたか。……でもこの気配は……」
「狼!」
木々の合間からやにわに現れた生き物に、ディルクは瞠目した。
その数は数十頭で、方々から獣の低いうなり声が聞こえてきた。彼らは目を爛々と光らせており、鼻息は荒く、興奮しているようだった。
ヨハンは舌打ちした。
「やられた! 本命は催眠か!」
「どういうこと?」
「睡眠と催眠は詠唱が似てるんだ。それを利用して、うまく重なるように唱えたんだよ。もう一方をごまかすためにな」
ディルクの疑問にヨハンが答えを返す。
ディルクは顎に手を添え、考えこんだ。
異なる呪文をひとりで同時に唱えることは不可能である。ということは、つまり。
「敵の魔術士は少なくともふたり……」
「ああ。厄介なことにな」
ヨハンは吐き捨てるように言う。
催眠魔術にかかった狼たちは、じりじりと間合いを詰めてきた。
その場の空気に緊張が走る中、深緑の長衣の魔術士は杖を掲げた。その先端から不可視の波動が広がるような風が起こり、狼たちに変化が起きた。波動を受けた狼から敵意が消え、去っていったのだ。
なるほど、とヨハンがつぶやいた。
「暗示を解く魔術だったのか。……一般の魔術書には載ってねえやつだな」
敵の真意に気づいた唯一の魔術士は、まだ催眠が解けていない狼たちを杖で示した。
「陛下、もう少し時間をください。取り残した狼たちの暗示も解きます」
「いや、これだけ減れば十分であろう」
再度詠唱を始めようとした魔術士を、国王は不敵な笑みで制した。
「余は狩りを再開する。そなたは賊を探しに行きたまえ」
「ですが……」
「獲物が狼に変わっただけだろう。お守りなど必要ない」
国王は近衛騎士から長剣を受け取り、抜き放った。
「せっかくの狩りを邪魔されたのだ。見返りに興を求めるのは当然ではないか」
「……くれぐれもお気をつけください」
「誰にものを言っている。……来るぞ!」
国王が注意を促すのと、狼たちが襲いかかってきたのはほぼ同時だった。
飛びかかってきた一頭をまず国王が切り伏せた。適格で容赦のない一撃であっさりと絶命させる。
それが合図のように戦闘が始まった。
深緑の長衣の男を先頭に、宮廷魔術士たちは馬で狼の包囲網を突破した。襲撃者を探すためである。
催眠魔術の効果なのか、狼たちは多少の怪我ではひるまなかった。狂気的に攻撃してくるため、確実にほふるまで気を抜けない。
兵士が仕留め損なった狼が一頭、ディルクたちのほうに向かってきた。
「くそが!」
ヨハンは短い詠唱で杖の先端に炎を生みだし、狼に放った。思いどおりに魔術が発動して安堵するものの、息の根は止められなかった。痛覚が麻痺しているのか、全身を焼かれながら突進してくる。
「危ない!」
ディルクは防御魔術で狼を押しとどめた。その間に再びヨハンが炎の魔術を唱え、今度こそ完全に沈黙させる。
しかしディルクの背後からは別の狼が接近していた。
低いうなり声が至近距離で聞こえた時にはもう遅かった。
「うわっ!」
反射的にかばった前腕を狼の爪がかすめ、血が滴る。
「ディルク!」
ヨハンが反撃に転じるのを尻目に、ディルクは無事なほうの手で傷口を押さえた。ずきずきとした痛みはあるが、傷は深くない。動揺を抑えるために胸元へ手をやり――首飾りを紛失したことに気づいた。
ディルクは青ざめた。
あれは母親の形見だ。なくしてはならない大切なものなのだ。父からも外すなと言われたのに、どこに落としてしまったのだろう。
焦ったディルクの耳に、ローザリンデの悲鳴が届いた。
声がしたほうへ向くと、仰向けになった彼女に狼がのしかかっていた。
狼はその鋭い牙でローザリンデの喉元を狙う。
どくんと心臓が跳ねた。
オスヴァルトがローザリンデに駆け寄る。
「姫!」
彼は狼の首筋に剣を突き刺した。どうっと音を立てて狼が倒れる。
ローザリンデは無事だ。
そう頭では認識できたが、体内の熱さは治まらなかった。
血が逆流するようだ。全身が燃えるように熱いのに寒気を感じる。視界が定まらずめまいがした。ふらつく体を支えようとして両足を踏ん張ったものの力が入らず膝をつく。
「おい、どうした、ディルク!」
異常を察したヨハンがディルクの背に手を置く。
だがその声はもはやディルクには届かなかった。
ディルクは顔を上げた。こちらへ向かってくる狼が視界に入る。
「くそっ!」
ヨハンが詠唱を始めるが、おそらく間に合わない。
ディルクは息を吸い、声を発した。
口を大きく開き、叫ぶように喉を震わすが、肉声は発せられない。
それは呪文の詠唱なのだと魔術士だけが理解した。いや、詠唱と呼ぶには乱暴すぎて、単なる絶叫と称してもいいほどであった。
驚愕するヨハンをよそに、ディルクは魔術を発動させた。
すると目前まで迫っていた狼に異変が起きた。
目に見えない刃が狼を切り刻み、全身を真っ赤に染めあげる。
ヨハンは愕然とした。
「なんだこれ……!」
ディルクは無言で立ち上がり、ヨハンを押しのけるようにして前へ出た。
目前ではローザリンデが三頭の狼に囲まれて苦戦していた。ディルクはその狼たちを杖で指し示し、喉の奥から魔術の音声を発した。
前触れもなく三頭の狼が躯と化したので、ローザリンデは絶句した。振り返り、魔術の出所がディルクだと知る。
「今のあなたが……?」
同じく異変を察知したオスヴァルトもディルクを見る。
「ディルク……?」
「おまえ、どうしちまったんだ!」
ヨハンに両肩をつかまれる。その腕をディルクは乱暴に振り払った。ヨハンの制止を無視して残った狼の数を頭の中で数える。
再び大きく息を吸い、杖を掲げようとして――何者かに杖をつかまれた。
深緑の長衣が風にあおられて翻る。
その人物の名を、ヨハンが驚いたように声に出した。
「ゴルトベルク……」
深緑の長衣の魔術士はおもむろに自身の杖を振るった。先程と同じく不可視の波動が辺りを覆い、狼たちの催眠を解く。戦意を失った狼たちは森の奥へ去っていく。
彼はディルクの杖を強引に取り上げ、放り投げた。
「これ以上はやめておけ。身を滅ぼすぞ」
低く冷淡な声調で言うと、彼はすげなくディルクから離れた。
徐々に落ち着きを取り戻したディルクは、全身から汗が噴きでるのを感じた。
「僕は……」
また無自覚に魔術を使ってしまった。いや、ローザリンデを助けた時以上に熱い力に翻弄された。
なにが違ったのかと考えて、ひとつ思い至る。
この胸に、今は首飾りがない。
「おもしろい」
通りのよい声で注目を集めたのは国王だった。彼は率先して狼をほふっていたが、さすがと言うべきか、小さな傷さえ負った様子はない。
「なかなか興味深い小僧を見つけたな」
彼はローザリンデに向かって言った。
彼女は恐縮したように瞳を伏せる。
「申し訳ございません。ゴルトベルク卿に申告すべきだったのに、断りもなく……」
「責めているのではない。娘の身を守る盾を取りあげるとでも? そんな父親どこにいる」
国王は鷹揚に笑った。ローザリンデの肩から少し力が抜ける。
国王はディルクに視線を移した。
「小僧、名はなんと申す」
「……ディルクです」
ディルクは縮こまった。宮廷の礼儀作法など大して知らないのだ。
国王はディルクの頭からつま先までしげしげと眺めながら、そばに控えた深緑の長衣の魔術士に話しかけた。
「ゴルトベルクよ。存外早い戻りであったな」
「予期せぬ魔力を感知したため、急ぎ戻って参りました。敵の捜索は一族の者が続けておりますのでご安心を」
「そうか。では、この小僧をどう見る?」
魔術士はディルクのほうに顔を向けた。目深にかぶった頭巾の奥から強い視線を感じ、思わずたじろぐ。
頭巾で隠れているせいで顔つきも年齢もわからない。落ち着き払った雰囲気は老獪な策士を想像させる。一方、無駄のない身のこなしに隙はなく、戦士にも引けを取らなさそうだ。
いつかヨハンが教えてくれた。ゴルトベルクは一族全体を指す名だが、その中で最も強い魔術士が当主となって「ゴルトベルク」を名乗るのだそうだ。
つまり国王から「ゴルトベルク」と呼ばれたこの男こそが一族最強の男、ひいては王国一と言っても過言ではない魔術士なのであった。
「……断ずるのはしばしお待ちいただきとう存じます」
「よかろう。では、次の議題に移る」
あっさり認めてから、国王はローザリンデに視線を戻した。
「これは半月前の襲撃と関係していると思うか?」
「……可能性はあると思います。ですが断言できる証拠は……」
ローザリンデが口ごもっていると、襲撃者の捜索に向かっていた魔術士たちが手ぶらで戻ってきた。国王は芝居がかった大仰さで肩を落としてみせる。
「取り逃がしたか。やむをえん。余は城に戻る」
言うなりさっさと馬上の人となった彼は先頭切って駆けだした。従者たちが慌てて追いかける。
国王から解放されて気が抜けたのか、ディルクはふらりとよろめいた。その体をそばにいたローザリンデが抱きとめる。
「大丈夫?」
「す、すみません……」
柔らかい感触にディルクは慌てた。女の子に支えられるとは格好悪いことこの上ない。
だが起き上がろうとしても力が入らなかった。体が妙に熱く、呼吸するのもつらい。
「大変……!」
ローザリンデは焦った。魔術が原因だとしたら魔術士でなければ対処できないが、経験の浅いヨハンでは難しいだろう。
「ディルク、しっかりしろ!」
オスヴァルトがローザリンデに代わってディルクを支え直した。ローザリンデは助けを求めて周囲を見回す。
「誰か……」
すると思いがけない人物が現れた。ローザリンデはあっと声を上げる。
「ゴルトベルク卿……」
「失礼、ローザリンデ姫」
ゴルトベルクは懐から丸薬を取りだし、問答無用でディルクの口に含ませた。
朦朧とした意識もたちまち覚める苦さにディルクは吐きだしそうになったが、ゴルトベルクの手に口を塞がれ、無理やり嚥下した。思わず涙目になったが、味覚の苦痛とは対照的に、虚脱感が和らぐのを感じた。
「これで楽になったはずだ。あとは寝て休め」
「ありがとうございます……」
かすれた声で礼を述べ、瞳を閉じた。意識が沈んでいくのを感じる。声が遠い。
そんなディルクを、ゴルトベルクは頭巾越しにじっと見つめている。
「ローザリンデ姫、この少年は野放しにしないほうがよろしいかと」
「え?」
「いずれ命を落とします。このようなことを繰り返す限り」
ローザリンデは顔色を失った。オスヴァルトやヨハンも眉根を寄せる。
いつか訪れるかもしれない不幸におびえる少女に、ゴルトベルクは言葉を重ねた。
「私なら彼を死から遠ざけられますが」
ローザリンデは弾かれたようにゴルトベルクを見上げた。
目深にかぶった頭巾のせいで表情の読めない男は、唯一あらわな口元にも一切の感情を乗せない。ただ淡々と言った。
「この少年に話があります。目を覚ましたら会わせてください」
そうして返事も待たずに踵を返す。
ローザリンデたちはディルクが完全に意識を失ったことに気づき、急いで王城を目指した。