第一章 父の秘密
ディルクは不満顔で荷馬車に揺られていた。
父の意向で突然出かけることになったからだ。
「……やっぱり納得できない」
馬の手綱を握る、父の背中に話しかける。
「いったいどうしたんだよ、父さん」
「悪いが説明はあとだ。一刻の猶予もないんだ」
答えは背中越しに返ってきた。真面目を絵に描いたような顔は前を向いたままである。
「だからどうして? 店でなんかやらかしたの? これって夜逃げ? いや、朝逃げ?」
「店は関係ない。しばらくオットーに預けていても大丈夫なはずだ」
信頼できる支配人の名前を出し、荷馬車の操縦に専念する。
かなり飛ばしているため、乗り心地はすこぶる悪い。荷台は狭く、十六歳という年齢のわりには小柄なディルクでも十分に体を伸ばせる余地はなかった。食料や毛布といった荷物の傍らで、窮屈そうに膝を折り曲げる。幌が日よけになるとはいえ、お世辞にも快適とはいえない旅路だ。立て膝に頬杖をつくと、ついため息がこぼれた。
(なんなんだよ、まったく……)
母親似でやや女めいた顔を仏頂面にしたまま外の景色を見やる。時折吹きこむ風に鳶色の短髪が揺れ、陽光のまぶしさに榛色の瞳を細めた。湾岸の町並みが離れていくに従い不安が募っていくようで、翡翠の首飾りを指でもてあそぶ。落ち着かない時の癖なのだ。
ルードヴィング王国随一の商業都市として名高い港町フランツェン。紡績町ザルデルンから父とふたりで移り住んで二年が経過した。王都から程近く、海からも陸からも物資が集まるこの町で、父は商いをしていた。
商品の買いつけのため、父はしばしば旅に出た。その間は父の友人である支配人オットーが店を仕切り、ディルクはそれを手伝っていた。
そんな日々に突如波風を立てたのは父だった。
今日の未明、父は予定よりも数日早く帰ってきた。眠気眼で出迎えたディルクは、父の外套が濡れていたことに驚いた。昨夜は豪雨だったが、その時点ではやんでいたのだ。
雨を押して夜通し馬を走らせるなど無茶な行為である。不審に思うディルクに父は言った。「王都へ行くぞ」と。
そうしてディルクは、今、父の荷馬車に揺られているのだった。人気の少ない早朝に、あたかも逃避行のごとく。
理由は皆目見当がつかなかった。父の店は繁盛している。誠実な商いが奏功したのだろう。だから商売沙汰で逃亡とは考えにくい。
父は人生の模範だ。彼を尊敬しているのだ。だから決めていた。将来は父のような商人になろう、と。
「ひょっとしてこれから買いつけ? 僕も同行させてくれるとか?」
「いや、そうではない」
「だよね……」
即座に返ってきた否定に気落ちする。かねてより商品の買いつけに同行したいという希望があり、父にも伝えていた。それなのにいまだ認めてもらえないのである。
父は申し訳なさそうな声を出した。
「もう少しだけ辛抱してくれ。これから落ち合う人がいる。全てはそれからだ」
「誰と?」
「古い友人だ」
「……誰?」
「私が王都に住んでいた頃の知己だ」
「王都に? 父さんが?」
初耳だった。
王都とはすなわちルードヴィング王国最大の都市ベルンシュタインのことである。荘厳な王城のもとに栄える城下町に王国民は大なれ小なれ憧れを抱いているものだ。ディルクも例外ではない。
だから今日まで隠されていたことに憤慨した。
「もっと早く教えてよ。なんで今まで黙ってたの?」
「すまない。……少し事情があってな」
過去の話題になると、父はいつも口が重くなる。理由はわからない。ただ母も同様だったので、駆け落ちでもしたのだろうと解釈していた。
そうこうしている間にも荷馬車は進み、街道は切り立った崖の下に差しかかった。港町はどんどん遠ざかり、海はもう木立に隠れて見えない。
――人里離れた場所特有の心もとなさが濃厚に感じられるせいだろうか。
不意に胸騒ぎを覚えた。
(あれ……?)
もともと勘がいいほうではある。だがこれは経験したことがない類のものだ。妙な音色までかすかに聞こえてくるではないか。
胸元で揺れる翡翠を握り締めると、不思議と熱を感じた。
胸騒ぎはいっこうに鎮まる気配がない。
強い不安を覚えた頃、父が荷馬車を急停車させた。
「しまった……!」
「え?」
何事かと思う間もなく、にわかに地響きがとどろいた。
慌てて幌の外に身を乗りだし、絶句する。
視界に飛びこんできたのは崖の斜面を転がり落ちてくる岩の群れだった。昨夜の豪雨のせいで地盤が緩んだのだろうか。
慌てて御者台のほうに視線を向けた。
「父さん!」
父は興奮する馬の手綱を片手で御しつつ、なにかを唱えていた。手綱を持っていないほうの手には、腕の長さほどの杖が握られている。初めて目にするものだ。よくある歩行を助ける用途のものでない。
とはいえ疑問に思っている場合ではなかった。落石は目前まで迫っているのだ。逃げだす猶予は残されていない。衝撃を覚悟して目をつぶる。
しかし、しばらく経っても予想していた痛みは訪れなかった。
不審に思って視界を広げ、瞠目する。
落石は確かに目の前にあった。だが荷馬車に届く直前で砕け散っていたのである。まるで無色透明の膜のようなものに馬車全体が包まれ、守られているかのようだ。
「これはいったい……?」
説明を求めて御者台を見やると、父は険しい形相で杖を構えていた。
「父さん……?」
落石は治まったのか、音がやんだ。
ほっとしたのも束の間、今度は馬車が大きく揺れた。
地震かと思ったが、違う。
信じられないことに、地面が隆起するようにうごめいているのだ。
「なんだよ、これ!」
「くそっ……!」
馬が動揺して暴れだしたので、父の注意がそれる。
次の瞬間、大地は鋭い突起に形を変え、馬車を貫いた。
ディルクは辛うじて直撃を免れた。しかし馬車の損壊は防ぎようもない。なすすべもなく荷台から転げ落ちる。
「うわあっ!」
「ディルク!」
父が御者台から飛び降りる。
崖からは岩が転がり落ちてくる音が再び聞こえてきた。
このままではふたりとも巻きこまれてしまう。
――そう思った瞬間、熱いなにかが体の奥底から沸きあがってきた。
「父さん、逃げて!」
ディルクは叫んだ。自分の体が自分のものではないような感覚に襲われながら。
どうにかしなければと、そればかりが頭にあった。
父は顔色を変えた。
「だめだ、ディルク! おまえはこちら側に来るな!」
彼は杖を掲げ、先刻のようになにかを唱え始める。
「父さ……」
言い終える前に、ディルクは見えない力に押されたように宙を飛んだ。
落石が壊れた荷馬車を押しつぶしたのはその直後であった。
ディルクは地面に背中を打ちつけて着地したあと、よろよろと上体を起こした。
「う……」
落下音はすでに消えていた。大地も本来の平坦さを取り戻している。
まるで何事もなかったかのような静寂だが、至るところに転がる岩は幻ではなかった。荷馬車は大破し、落石が直撃したらしい哀れな馬は息絶えている。
「父さん、どこ……?」
不安になりながら周囲を見回すと、仰向けに倒れている父を発見した。
「父さん!」
まろぶように駆け寄り、状態を確認する。
父は頭部を怪我しており、出血がひどかった。体のあちこちにも打撲や骨折が見て取れる。
「そんな……」
全身が震えた。取り乱しそうになる自分を、なけなしの理性で支える。
まずは止血をしなければ。荷袋に薬を入れたはずである。荷馬車が壊れても荷物は使えるかもしれない。
辛うじて己を奮い立たせ、立ち上がろうとした時、名前を呼ばれた。
「ディルク……」
「父さん! 僕はここだよ」
「無事か……?」
「うん。大丈夫だから心配しないで」
安心させたくて父の手を握る。血でぬめる感触にうろたえる気持ちを押し殺して口角を上げる。
「しっかりして。すぐに手当てを……」
父はそんなディルクを引きとめるように小さく唇を動かした。ディルクはやむなく身をかがめる。耳をそばだてないと聞こえないほどの声量だったからだ。
「ディルク、黙っててすまない……。だがジルケと約束したんだ。決しておまえを巻きこまないと……」
ジルケ――亡くなった母の名を聞いた途端、喪失の痛みが去来した。
ディルクと同じ髪と瞳の色で、快活に笑う母。
もう二度と会えない笑顔。
このままでは父も同じように失ってしまう。会話なんて二の次だ。一刻も早く町に戻り、医者に診せなければ。
「お願い、黙って……」
「ディルク」
父の強いまなざしがディルクをとらえる。まるで最後まで話を聞けと言わんばかりだ。
「こっちに向かっているはずなんだ。あいつが、オスヴァルトが……」
知らない名前が出てきた。先程話していた父の古い友人だろうか。
「あとは、そいつを頼ってくれ」
「あとはって、なんだよ」
そんな言葉を聞かされるくらいなら薬を探したい。しかし父は手を離そうとしない。
「それと、なにかの時には……ジルケの墓参りをしてくれ」
「……? わかった」
意図はくみとれなかったが、とりあえずうなずいた。父の希望に反することはしたくなかったのだ。
「それ、くれぐれも外すんじゃないぞ」
父の視線の先には、ディルクの胸元を飾る翡翠がある。
外すわけがない。ディルクにとってはお守りに近い、大切な母の形見なのだから。
「もちろんだよ。絶対に外さない。約束する」
話している間にも、父の傷口からあふれる血がディルクをも濡らす。荒かった呼吸は凪いだ海のように静かになりつつあった。その顔に浮かんでいるのは紛れもない死相だ。ディルクは駄々をこねる子どものようにかぶりを振った。
「もういいから薬を……」
「なあ、顔に触れさせてくれないか」
「父さん……!」
相反する感情がせめぎあう中、父の手のひらを自分の頬に押しつける。そうすると安堵したのか、父は穏やかな表情で深い吐息をついた。無骨な指先が頬をなでるように優しく動く。
「どうか忘れないでくれ。おまえは、私とジルケの、自慢の息子だ……」
その言葉は、まるで乾いた大地に降る慈雨のように心に染みた。
頬に触れていた手から完全に力が抜け落ちる。
「あ……あ……」
動かなくなった父にすがりつく。命の欠片を求めて体のあちこちに触れる。しかしどうしても鼓動を感じることはできず、ただ失った事実を確認するにとどまった。
「父さん……。ねえ返事してよ、父さん……!」
つい先程まで温かな声を発していた唇が、あたかも人形のごとく微動だにしない。
「父さん!」
ついに涙があふれ、ディルクは慟哭した。しんと静まった街道にディルクの泣き声だけが響く。
本当に訳がわからなかった。昨夜眠りに就くまではいつもと変わらぬ日常だったのに。
「父さん……母さん……」
その時、不意に馬蹄の音が近づいてきた。
街道の王都側から現れた人物は、転がる岩々の手前で馬を降り、こちらに駆け寄ってきた。
父と同年代の男であった。くすんだ金茶色の髪はやや長めで、瞳は青い。気障な優男といった面立ちに反して印象的なのは、鍛え抜かれた長躯と腰に差した剣だった。
彼は横たわった父の前で膝を折り、沈痛な表情をした。
「遅くなってすまない、ルドルフ……」
「あなたは……?」
手の甲で涙を拭いつつ警戒する。
男は優しげに目元を和ませた。
「ディルク。君のことはルドルフから聞いている。俺はオスヴァルトだ」
「オスヴァルト、さん?」
「呼び捨てで構わないよ。話し方も普通でいい。堅苦しいのは苦手なんだ」
どうやら柔和で気さくな人のようだ。父から直接聞いた名を名乗られたこともあり、少なからず緊張が解ける。
「父もあなたに会うと話していたけど、理由は聞けなかった。……だから教えてほしい。いったいなにが起きてるのか」
落石だけなら事故だと思える。しかし大地が隆起するなど自然ではありえなかった。それに父が使っていた得体の知れない術も気になる。
ディルクの感情の高ぶりをなだめるように、オスヴァルトは落ち着いた声音で答えた。
「俺は頼まれたんだよ。君の保護を、ルドルフからね」
「僕を保護? なんで? なにから?」
「詳しい話はあとにしよう。ここは危険だ。一刻も早く立ち去りたい」
立ち上がったオスヴァルトには、はぐらかそうとする気配がある。
これでは父と同じだ。肝心なことを教えてくれないのは卑怯ではないか。
「なにも知らないままでいろって? 目の前で父親が殺されたのに?」
長身の彼に向かって背を伸ばすように顔を近づけ、にらみつける。
オスヴァルトはぴくりと眉を動かした。
あえて「殺された」と表現したのだが、予想は当たったのだと確信する。
「やっぱり殺されたんだ……」
ディルクは視線を落とした。もう二度と目覚めない父の顔を目にすると、再び涙が込みあげてくる。
「だったら息子である僕の役目はひとつだ。父の無念を晴らしてみせる」
「……参ったな……」
オスヴァルトが困ったように頭をかいていると、彼の背後で土を踏む音がした。
「あたしが答えてあげてもいいわよ」
赤い巻き毛を背中に垂らした女だった。瞳の色は灰色。年齢は二十代前半くらいだろうか。華やかな装飾の長い杖を手に持っている。複数の宝飾品で彩った紫の衣は肢体に沿うような仕立てで、服の上からでも曲線美が見て取れた。
オスヴァルトは目を丸くした。
「レオナ? どうしてここに」
「城でお見かけした時、尋常ではないご様子でしたから。あたしも微力ながらお助けできればと」
「気持ちはありがたいが、独断で動いていい理由にはならないぞ」
オスヴァルトはとがめるような視線を送る。しかしレオナと呼ばれた女に気にした様子はない。
「現に、ここはあたしのほうがお役に立てる状況ではありませんか」
「だがな」
「ついでに申し上げますと、敵は逃走したようですわ。先程まで追っていたのですけど、残念ながら見失いました」
「くそっ! 捕まえられれば、せめてもの供養になったのにな……」
オスヴァルトはいらだたしげに地面を蹴る。
ディルクはおずおずとふたりの会話に入った。
「いったいなんの話ですか? 父はなんの事件に巻きこまれて……?」
敵だなんて不穏な言葉、一介の商人には似つかわしくない。
レオナは哀れむようなまなざしをディルクに向けた。
「巻きこまれた、は間違いね。自ら関わった、が正解よ」
「なにを言って……」
「だってルドルフ様も仲間だもの」
「仲間?」
「あたしたち、ルードヴィング王家に仕えているの」
「王家って……?」
反復しても耳を通り過ぎてしまうほど現実味が薄かった。王家なんて庶民からすれば雲の上の存在である。冗談だとしか思えない。
「まさか、ありえない」
「信じないのは勝手だけど、事実は変わらないわ。あたしは魔術士。オスヴァルト様は騎士。ルドルフ様は主に諜報活動を担ってたわ」
「……だってそんな素振り一度だって……」
否定の言葉を求めてオスヴァルトを見やる。
彼は観念したように口を開いた。
「奥方が他界したあとだ。あいつが戻ってきたのは」
「戻ってきた?」
「ルドルフは兵士だったんだよ。君が生まれる前まではね」
「……父さんが、兵士」
声音が空々しさを帯びるのは、遠い異国の物語を聞いているかのようだったからだ。
しかし父はかつて王都に住んでいたと言っていた。整合性はある。
「ルドルフは一度除隊している。俺との縁もそこで切れたはずだった。……あの内戦がなければな」
ディルクは身を硬くした。
二年前、ルードヴィング王国では内戦が起きた。その苦い記憶はいまだに痛みを想起させる。その内戦で母が命を落としたからだ。
「国家安寧に力を尽くそう、二度と悲劇が起きないように。……ルドルフはそう考えたらしくてな、こちら側に戻って諜報活動を始めた。商人という立場を利用したんだ」
確かに買いつけの旅で不在がちではあったが、諜報活動のためだったのか。だからディルクを伴おうとしなかったのか。
「おそらく昨日、ルドルフはなんらかの情報を手に入れたんだ。だが敵に感づかれた。急いで家へ帰ったのは、息子の君にも危害が及ぶことを恐れたためだろう」
ディルクは青ざめた。父がそんな危険なことに関わっていたなんて、露ほども想像したことがなかった。
「それほどの情報っていったい……」
「残念だが、わからない。俺はあいつからの手紙で状況を把握したが、肝心の情報については書かれてなくてな。漏洩を避けたかったのだろうが……」
オスヴァルトは口惜しげに話す。ディルクは唇をかんだ。
「犯人の目星は?」
「……情けない話だが、まだなんとも」
オスヴァルトは横目でレオナをうかがう。レオナは杖でとんと地面をたたいた。
「少なくとも魔術士であることは断言できるわね」
「魔術士……」
未知の力に対する畏怖で、ディルクはごくりと唾を飲みこんだ。
魔術とは生まれながらに才能を持つ者だけが行使できる特別な能力のことだ。それを使える者を魔術士と呼ぶ。術の源となる魔力を操ることであらゆる効果をもたらすそれは、鍛錬次第で非常に強大な力となりえる。
しかしその適性を持つことは極めて稀だった。普通に生活している限り魔術士に出会うことはほぼないと言っていい。当然、魔術を見る機会もないため、それがどのようなものであるのかディルクもおぼろげにしか知らない。
だが、もしやとひらめくものもあった。
「もしかして父も?」
「……実はな。といっても剣のほうが得意だったようだが」
オスヴァルトに肯定されてディルクは悲しくなった。息子である自分よりも他人のほうが父を理解しているなんて。
オスヴァルトはディルクの肩をぽんとたたいた。
「あとは俺たちに任せてくれ。きっと仇を見つけてみせよう」
そうやってまた、閉じこめた籠をさらに布で覆うようにのけ者にされるのか。守るという名目で。
それも当然だった。ディルクは戦い方を知らない。なにもできないし、下手な行動はかえって迷惑になりかねない。
――それでも従う気にはなれなかった。
「……嫌だ」
「ん? なにがだい?」
オスヴァルトがきょとんとする。
ディルクは決然と言いきった。
「僕だけが部外者なんて嫌だ。だって僕の父親のことなのに」
自分は知らなければならない。父が殺された理由を。その犯人を。
オスヴァルトは苦笑した。
「君は外見こそ母親似のようだが、やっぱりあいつの息子なんだな」
「え?」
「いや……。ともかく、ルドルフは常々言ってたんだ。息子だけは巻きこみたくないとね」
その言葉は父の遺言と重なった。
「俺はあいつの意志を尊重したい。わかるな?」
「それは……」
すぐには反論できずにうつむくと、横たわった父の手が視界に入った。
今になって思う。これまでは父によって守られた安全な籠の中で暮らしていたのだと。
だがその手はもう動かない。己の身は己で守り、己の道は己で決めないといけないのだ。
「それでも僕は、僕にできることをやる。止めても無駄だよ」
譲れない思いを言葉にすると、レオナが口を開いた。
「オスヴァルト様ったら、認めてあげればよろしいではありませんか」
「適当なこと言うなよ」
「あたしは彼の正当な権利を主張しているだけですわ。殺された親のためになにかをしたい。それはごく自然な感情ですもの」
オスヴァルトから非難めいたまなざしを向けられても、レオナは意に介さない。
「あたしが彼の立場でも、きっと同じことを望みますわ」
「だからこちら側に引きこむのか? 自分の境遇と重ねて?」
ディルクは首をかしげた。自分の境遇とはいったいなんのことだろう。
疑問の答えを得られないまま、ふたりの会話は続く。
「それが必要な選択であるなら」
「無責任だろう」
「嫌ですわ。そもそもあたしたちは武器を取ることを選んだ人間ではありませんか。彼を否定するほうが矛盾というもの」
それより、と彼女は話題を変えた。
「ルドルフ様からは、ほかにはなにもなかったんですか?」
促されたオスヴァルトは仕方なさそうに懐を探った。
「ディルク、これを」
差しだされたのは短剣だった。柄の鍔に近い部分にある小さなくぼみに見覚えがある。父のものだ。
「ルドルフからの手紙と一緒に託された。君に渡してくれってな」
「どうしてこんな遠回りな方法で……?」
ディルクに直接渡すことも可能だっただろうに。
オスヴァルトは困ったような顔をする。
「確実に君に届けたかったんだろうが、詳しい説明はなかった。まったく、もう少し円滑に意思疎通を図りたかったものだよ」
その声からは父への親しみが感じられた。父と彼は確かに信頼し合っていたのだろう。
短剣を受け取り、鞘に触れると、懐かしさが込みあげてきた。もはや形見となった短剣の感触を何度も確かめる。
そんなディルクの頭を、オスヴァルトが幼子をあやすようにぽんぽんとたたいた。まるで子ども扱いである。
それでも父の温かな手が思い起こされて振り払えなかった。だからあふれそうになる涙を懸命にこらえなければならなかった。
「仕方ない。君の今後についてはいったん保留にしよう」
「ええ。まずは合流を目指しませんか?」
意味がわからずぽかんとするディルクに、オスヴァルトが解説を加える。
「北に国境城塞があるだろう? 我らが上官がそこに滞在しててな」
ルードヴィング王国は北部の領土を接するザイデル国としばしば衝突している。国土の大半がやせた土地であるザイデルは常にルードヴィングの領地を狙っているのだ。北方国境城塞はそんなザイデルからルードヴィングを防衛する要衝だった。
「とはいえ滞在は昨日までで、今頃は王都を目指しているはずだ。移動距離からして、今日の夕方までには行き会えるだろう。報告の必要もあるから、まずはそれを優先したい」
「わかった」
そうこうしているうちに、フランツェン側から馬車がやってきた。落石に驚く商人に、オスヴァルトが事情を説明する。
ディルクは短剣を握る手に力を込めた。
(僕が見つけてみせる)
父を殺した犯人を、必ず。