序章
かつて両親と住んでいたのは、緑に囲まれた町だった。紡績業が盛んなことと、豊かな自然に恵まれていること以外、取り立てて述べるべきことのない田舎町だ。
ディルクはそこで生まれ育った。友達と野山を駆け回り、父の商売や母の家事を手伝う、平凡で幸福な日々を過ごしていた。
ある時、近所の老夫婦のもとに見知らぬ母子が訪ねてきた。王都で暮らす娘と孫が帰省したらしい。
町から出たことがなかったディルクは、王都から来た彼女たちに興味津々だった。物陰からこっそり様子をうかがうと、あっさり見破られ、手招きされた。うちの子の遊び相手になってほしい――そう母親のほうに言われた。
男勝りな印象の母親とは対照的に、口数も少なくうつむき加減の、大人しい子どもだった。顎にかかるくらいの長さで切りそろえられたさらさらの銀髪が印象的で、長い前髪の隙間からのぞく紫の瞳も美しかったが、あまり目を合わそうとしない。
その内向的な態度からは想像もできなかったが、その子は剣稽古を日課としており、同年代の子ども相手では手も足も出ないほど強かったので、一目置かれるようになった。だが無口なその子は周囲と打ち解けようとせず、なじまないまま数日が経過した。
ある日、今日はなにで遊ぼうかとディルクが考えていたところに、血相を変えた友達がやってきた。例の子が町外れの森から戻ってこない、ということだった。
森は勝手知った遊び場のひとつである。友達には大人を呼んでくるよう言い置き、ディルクは単身で捜索に向かった。そうして勘を頼りに進むと、森の奥から泣きじゃくる声が聞こえてきた。ディルクはほっとして駆け寄り、その子の腕をつかんだ。
その子は一瞬ぽかんとしたあと、目にたまった涙を引っこめるように固く唇を引き結んだ。
ディルクが知る誰よりも、その子は泣くことを我慢する子どもだった。その姿は見ている側も苦しくなるほどだったので、ディルクは言った。「もう安心して。一緒に帰ろう」と。するとその子は嗚咽をこぼし始め、大きく肩を震わせてしゃくりあげた。
そうしてふたりで帰ってから、小さな変化が起きた。その子の剣稽古に混ぜてもらえることになったのだ。驚くことに指導者はその子の母親で、実は騎士なのだと説明された。
ディルクが母の手作りシュネーバル――紐状の生地を丸めて揚げた菓子を持参すると、その子は大層気に入った様子でよく食べた。それまで知らなかったが、この菓子はこの地域特有のもので、王都にはないのだそうだ。
母子は王都に戻る際、ディルクの父が取引する織物を土産として大量に買い求めていった。
近所の老夫婦が亡くなるまで、母子は年に一回程度の帰省を繰り返した。そのたびにディルクはシュネーバルを持参して剣を習った。
一緒に過ごす時間が増えるにつれて、笑わないその子の表情が和らいでいくのがわかった。
嬉しかった。
◇ ◇ ◇
「ディルク」
名前を呼ばれて、ディルクははっとして顔を上げた。
振り返ると、父ルドルフが倉庫の入り口に立っているのが見えた。
「どうした? 見つからないのか?」
「あ、いや、あったんだけど……」
鮮やかに染色された織物を長持から取りだす。父の頼みで店の在庫を取りに来たのだが、懐かしさのあまりついぼんやりしてしまったようだ。
「昔のこと思い出して……。ザルデルン産の織物、久々に見たから」
ザルデルンは一昨年まで住んでいた紡績町である。
それは感傷的にさせる代物だったが、店では客が待っている。
「ごめん。すぐ行くから先に戻って!」
「わかった。早く来いよ」
店に戻る父の大きな背中を視界の端で認めつつ、筒状に巻かれた織物を長持から三本取りだし、倉庫を出てすぐの店へ足早に向かう。
よそぐ風に頬をなでられ、ディルクは目を細めた。
今この耳に届くのは、葉擦れではなく波の音だ。今この身が浴びているのは、樹木の香気ではなく潮風だ。
ザルデルンにはなかったものが、現在のディルクの日常になっている。懐かしいあの町に、もうディルクの家はない。
店に入ると、父は織物を注文した人物と接客中だった。商品を渡して身軽になると、ほかの客の話し声が聞こえてきた。身なりのいい婦人と娘が会話をしている。
「そういえばお母様、聞きました? 軍事演習であの方が北方国境城塞へ行かれるそうよ」
「え? それってまさか……」
「そうよ、ルードヴィングの守護の象徴、〈研ぎ澄ました剣〉の君!」
「やっぱり! じゃあ、フランツェンにも寄ってくださらないかしら。一度ご尊顔を拝してみたいもの。……ちょっと遠回りだけど」
「……おまえたち、買い物に関係ない話を続けるなら店を出るぞ」
夫らしき男にとがめられた妻とその娘は、慌てて品定めを再開した。
陳列棚の整理をしながら、ディルクは追想する。
(〈研ぎ澄ました剣〉の君か……)
剣と聞くと、ザルデルンにいた頃を思い出す。今にして思えば遊びの延長のようなものだったが、それでも当時は真剣で、騎士に憧れた時期もあった。
しかしそれも昔の話である。
自分は父が営むこの店を継ぐのだから。