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道中、人間という獲物を咀嚼している鬼の姿を見てきた。中にはまだ生きている人もいた。しかし、彼らを救う力のない慶一郎は、その全てを見殺しにしてきた。ただ、ひたすらに自分が生きるために。
走り続けて、逃げ続けて、そうして気が付けば、慶一郎は二体の鬼と相対していた。
逃げられない。本能的にそう悟った慶一郎はなんとかして生き残る手段を考える。自分という存在はどういう存在だ? 特に武道を修めたわけでもない、少しだけ体力に自信があるどこにでもいる現代人だ。そんな人間が鬼に勝てるのか? 否、勝たなければわけもわからないままにタイムスリップしてきたこの地で情けない死体を晒すだけだ。
戦え。戦うんだ。自分は武器は持っている。この世界に来る切っ掛けになった刀だ。銘も知らぬ刀だったが、今は何よりも心強い。
「死ぬ? あり得ない。死んで、たまるか……っ!」
刀が緑色に光っていた。まるで慶一郎の戦うという意思に力を貸すかの如く。
なぜ刀が光っているのか、そんな事を考えている余裕はなかった。震える手で鞘から刀を引き抜くと、刀は一層その輝きを増した。
引き抜いた刀を構える。酷く素人じみた構えだ。しかし、どういう訳か鬼共が怯んでいるように見えた。
――チャンスだ。
そう確信した慶一郎は震える足に活を入れ目の前の鬼に向かって駆け出した。上段に構えた刀を振り下ろす。その瞬間、目を疑う出来事が起きた!
力任せに振り下ろされた一刀がさしたる抵抗も無いままに鬼を真っ二つに切り裂いたのだ! 更に、その刀身からは光波とでも呼ぶべきか、緑色の光の刃が発せられたのだ。
鬼を断ち切った光波は数メートル先の地面までを抉り、ようやっとその勢いを消した。
「なんだ、これ?」
鬼はもう一体いるというのに、思わず、尚も緑色の光を放ち続ける刀を眺めてしまった。現実味の無い出来事を自身が起こしたという事に軽い放心状態だったのだ。だから、慶一郎がその一撃を辛うじて刀で受け止められたのは、死にたくないという執念のおかげに他ならなかった。
同族を殺された残りの一体は怒り狂っていた。先程まで見せていた刀に対するある種の恐怖のような態度は鳴りを潜めていた。
――鬼が吼え、こちらに向かってきた!
「痛え! ……っクソッタレ!」
今の一撃で肩が外れてしまったのか、左腕が上がらなかった。吹き飛ばされた衝撃で身体中に裂傷もあった。間違いなく、今までの慶一郎の人生で最悪の怪我だった。
「……んだか腹立ってきたぞ……っ!」起き上がる。「なんで俺が! いきなりこんな場所に飛ばされて殺されそうにならんきゃなんねーんだ!」立ち上がり、右腕だけで刀を持ち、構える。片手で持つ刀は存外に重量感があった。「クソ野郎が! くたばれやぁ!」
駆ける。理不尽なこの状況に対する怒りと共に。
重さに負け、その刀身は最上段まで上がりきらなかったが、袈裟斬りの形となって鬼の右肩に吸い込まれ、その身を一刀の元に斬り伏せた。
「はあ、はあ、クソッタレ……」
極度の緊張と初めての戦闘。慶一郎は肩で息をし、なんとかして体内に失われた酸素を取り込もうとした。
いつまでも立ち止まっている訳にはいかない。時期にまた鬼共が現れる。慶一郎は痛む肩に意図して意識を向けないようにして、刀を杖代わりに再び歩き始めた。
○
洞窟の奥に足を鎖で繋がれ監禁されている半妖がいた。既に何日もの間閉じ込められ続けていたのか、常であれば水を弾く瑞々しい玉の肌は土埃に汚れ、身に着けた着物もボロボロになっている。
肩口まで伸びた髪もいくらかパサついているし、ぷっくりとした唇もかさついてしまっている。それでも尚、彼女は並々ならぬ美しさを誇っていた。
そんな彼女は薄暗い中でもはっきりとわかる程に笑っていた。
「見つけた。私の――」
鋭く、しかし鈴の音のようにスッと耳に入ってくる爽やかな声音と共に開かれた人ならざる金色に光り輝くその瞳が、どこを見ているのかはわからない。しかし確実に、その瞳はここにはいない誰かを見ていた。
○
慶一郎の意識は朦朧としていた。度々現れる鬼をなんとかあしらい、奇跡的に逃げ続ける事が出来ていたが、その度に軽くない傷を負っている。これまでなんとかなっていたが、この先もなんとかなるという保証はどこにもなかった。
落ちてしまいそうな意識を根性で保ち続けていられたのは、ひとえに死にたくないという執念に他ならなかった。しかしそれすらも、もうじき限界を迎えようとしている。
「クソ……」
口をついて出るのは悪態。それ以外の言葉はなかった。慶一郎流に言うと、何もかもがクソッタレだった。自分の意識はもうじきその意志に反して落ちる。そうなった時、次無事に目覚められる保証がどこにあるだろうか。
未だ戦闘音は響き渡っている。鬼との戦が終わっていない証拠だ。そのような状況で倒れてしまえば自分はあの名も知れぬ武士と同じ道を辿ってしまう。
疲れきった身体に引きずられた頭は悲しい事に最悪の未来しか考えてくれなかった。
「も、無理……」
慶一郎が地べたに座り込んでしまったのと同時にそれは聞こえた。
『生きたいかね?』
少々しわがれた男性のものだった。
「誰だ?」
どこから聞こえたのかはわからない。しかし確実に声は慶一郎の耳に届いた。
『君がまだ生きたいというのなら、この先にある洞窟に行くといい。彼女はそこにいる』
「待ってくれ! あんたは一体誰なんだ!」
声の主がこれ以上の言葉を発してくれないのをなぜだか慶一郎はわかった。
自身に生きたいかと問うた彼が一体誰なのか。本当に自分は助かるのか。そもそも今の声は幻聴だったのでは? 様々な思考が一瞬にして頭を駆け巡ったが、慶一郎は気力を振り絞って再び立ち上がり、この先にあるはずの洞窟に向かって歩きだした。
洞窟への道すがら、不思議な事にあれだけいたはずの鬼と遭遇する事はなかった。それどころか、人間の死体すらも見当たらない。いや、正確には死体があったらしい血痕だけを残して死体が無くなっているのだ。最初は鬼が全てを食したのかと思ったが、鬼が甲冑の類までを食すとは考え難かった。
一瞬、鬼がいなくなったのかとも思ったが、人が発する事の出来ない叫びは周囲に今も響き渡っている。鬼は確かに存在するのだ。にも関わらず慶一郎の前には姿を現さない。これではまるで、慶一郎のための道が用意されているようなものだった。
不思議に思いながらも暫く歩くと、本当に洞窟があった。その入口はしめ縄とお札らしきもので結界が張られているように見えた。何かが封印されているのだろう。
慶一郎は一瞬の逡巡の後、意を決して洞窟内部へと足を踏み入れた。
洞窟内部は明らかに外界と隔絶されていた。薄暗い一本道は、風も吹いていないのに薄ら寒かった。にも関わらず、背中には謎の緊張感から冷や汗が流れていた。
それからもう少し歩くと、少し開けた場所に出た。どうやらここで行き止まりらしい。
何か無いかと周囲を見渡すと、奥に鎖に繋がれた女がいるのが見えた。
慶一郎は暫くの間息をするのを忘れてしまった。それ程までに慶一郎の目に彼女は美しく映った。
長い間監禁されていたせいでいささか汚れていたが、それを補って余りある程に彼女が美しく見えた。それと同時に、彼女が人ならざる者だというのはすぐにわかった。発する雰囲気が、弱っていようと人のそれとは種を異するものだったからだ。
「やっと来てくれましたね。私の愛しい人」
彼女が声を発した事で、慶一郎は思い出したかのようにやっと呼吸が出来た。無意識の内に感じていた圧力から解放されたようだった。
「君は……?」
「私は酒天童子の娘、咲月。貴方の名前を教えてください」
「俺、は慶一郎。織田慶一郎」
「慶一郎……好い名ですね。慶一郎さん。私に貴方の血をください」
「血?」
「はい。私と血の交換をしてください。もし、貴方が私に血をいただけるというのなら、私は貴方の万難を排する刀となりましょう。貴方に降りかかる災厄を跳ね除ける甲冑となりましょう。どうか、どうか私と、同体に……」
「そうすれば俺はこの訳もわからない状況から助かるのか?」
「私が必ず助け出してみせましょう」
その言葉を聞き、慶一郎は迷う事なく契約を決意した。それによって何かが変わるかもしれないという恐怖はあった。しかしそれ以上に、助かるという言葉を信じる事にしたのだ。
慶一郎は人と比べて何かが特別に秀でているという訳ではない。しかしただ一点、生きたいという思い、それだけは他を凌駕する程に強かった。その思いがどこからくるものなのか、それは本人にもわからなかったが、執念と呼べる程強い思いなのは確かだった。
「俺は何をすればいい?」
ジャラリ、と咲月の手にハメられた手錠が音を立てる。咲月は慶一郎の首に手を回し自身に近づけると口付けをした。そして「私は嫉妬深いですよ……?」と囁くと――。
「いづっ!」
ガリっと慶一郎の口の端に犬歯で噛み付いた。
吸い出すようにして絞り出した慶一郎の血を、咲月は甘美な酒でも飲むかのように悦に浸った表情で飲み干した。
「アハハハ! やっと、やっと私は自由になれた!」
咲月は笑いながら身を起こし、頑丈そうな鎖を苦もなく壊し、立ち上がった。
「さあ、私の手を取って、私の主様。貴方の望みを教えてください。私が叶えましょう!」
慶一郎は差し出されたその手を取った。
「願いっても……とりあえず俺は死にたくない」
「……ええ、ええ。私は貴方を生かしましょう。貴方が私を想う限り、私は生涯貴方の側に在ります……!!」
咲月は慶一郎を背負うと、凄まじい速さで駆けた。速く、早く、疾く!
慶一郎があれ程苦戦した鬼が、通り過ぎる間に刈られていく。
それを見た慶一郎はあまりの事に気が付けば笑っていた。不謹慎だとは思いつつも、これ程までに圧倒的な力を持った咲月が自分のためだけにその力を行使しているのが嬉しかった。怪我を負った慶一郎を気遣って、咲月はなるべく背中に衝撃がいかないようにしている。それでも片手間に鬼を蹴散らすのだ。もう、笑うしかなかった。
「愉しいですか、主様?」咲月は微笑みながら問う。
「ああ! 最高の気分だよ! 俺は今生きてる! 生を実感してる!」
「それは重畳。さあ、咲月は貴方をどこに連れていきましょう。鬼の根城? 人間達の住む城? 私は貴方をどこへでもお連れしましょう」
「どこでもいいさ! 強いていうなら、鬼がいない安全な場所がいいな」
慶一郎の願いに咲月は笑顔で首肯した。
「はい。咲月は貴方を安全な場所にお連れしましょう。だから、今はどうぞお休みください。貴方はもう、限界なはず」
咲月の言葉に慶一郎は自分が意識を失う一歩手前だった事を思い出した。その事を意識するのと、慶一郎が意識を手放すのはほぼ同時の事だった。
慶一郎の意識が落ちたのを確認した咲月は、一人静かに呟く。
「……私の愛しい人、慶一郎。貴方のその身に私の血肉をいつか…………ふふふ」
怪しく微笑む咲月に、鬼共はもう近づく事はなかった。