身代わり人形・ナナ
怖い名前の人形だなぁ……とは、最初は思わなかった。
「身代わり人形というのよ」
お母さんがそう教えてくれたけど、はじめて聞いた時には意味がわからなくて、
――ミガワリにんぎょう
と、そういう音だけを記憶した。
そして、小学四年生のときに「身代わり人形」というんだって知ってゾッとした。なんて怖い名前なんだろう……。
※ ※ ※
去年の冬、お母さんが肺の病気で亡くなった。
私は小学六年生になっていた。
身代わり人形はお母さんのもので、お母さんが亡くなってからは玄関に置かれるようになった。お母さんが大切にしていたお人形さん――。
玄関に置いたのはお父さんだ。
残された私たち三人を、お母さんが見守ってくれますように……。そういう願いでお父さんは置いたのだろう。
お人形さんは身長四十センチほど。西洋風のオーロラピンクのドレスに身を包み、白い肌をしている。瞳はガラス製のコバルトブルー。カールのかかったエレガントな金髪を持ち、ホコリがかからないようにガラスケースに収められている。高価な物であることは容易に想像できた。
綺麗なお人形さん……。
なのだけど、冷たい表情が怖くて、その「身代わり人形」という名前も怖かった。私は、なるべくお人形さんと目を合わせないように玄関を通った。
「ただいま」
鍵を使って玄関を開けて声をかける。
もちろん、人形には目を合わせない。
お母さんが居なくなっても、「ただいま」という習慣を私はやめなかった。お兄ちゃんはまだ家に帰ってないようだけど、お母さんの魂がどこかで聞いているかもしれない。
今日は漢字の書き取りテストで七十九点以下を取って居残りを受けてしまった。でもお母さんなら、そんな私を叱らなかったと思う。
「大変だったでしょう」
と、お母さんならきっと、優しい笑顔と共におやつとお茶を出して私をなぐさめてくれる。
靴を脱いで顔を持ち上げる。なんとなく、身代わり人形を見てしまった。お人形さんもこちらを見ている。
「身代わりになってくれなかったね……」
私はお人形さんにつぶやいた。
身代わりって、そういう意味なんだと思う。お守りみたいなやつで、家族に何かあったら身代わりとなってくれる。
お人形さんは玄関に置かれ続けた。
見ないようにしても嫌でも目に入ってしまう。帰宅のたびにお人形さんの横を通って、
――身代わりになってくれなかった。
と、私は心の中でお人形さんに恨みをぶつけた。
こっちを見ないでよ。見てないか……。
こちらを見つめる絵画の少女のように、お人形さんがどの角度からも私を見つめてくる気がした。静かな玄関で、お人形さんは佇み続ける。
あるとき帰宅すると、お人形さんがケースの中で斜めに倒れていた。ケースに入れてあるから、誰かがいじったとは思えない。きっと、お父さんかお兄ちゃんの体か物がぶつかって、倒れてしまったのだろう。
夜になって玄関を見ると、まだお人形さんが倒れたままだった。
中学二年生のお兄ちゃんと、お父さんはすでに帰宅して自分の部屋でくつろいでいる。二人は帰宅したときに玄関を通ったはずなのに、倒れたお人形さんを直してはくれなかった。もしかしたら、このお人形さんを気にしてるのは私だけで、お父さんたちは倒れていることにも気づいていないのかもしれない。誰にも気にされないお人形さん……。ちょっと、かわいそうになった。
自分の部屋に戻って布団を被っても、お人形さんのことが気になって眠れない。ベッドで目を閉じても、あの白い顔と青い瞳が瞼の裏に浮かんでくる……。
「もう!」
私は跳ね起きて玄関に向かった。
そこを見ると、やはりお人形さんは倒れたままだ。お人形さんは四角いガラスケースの中に収められていて、私はそのガラスケースに顔を寄せた。どうやってケースを開けるのだろう。
お人形さんは仰向けに倒れてガラスケースに寄りかかり、斜めになっている。お人形さんの身長は四十センチほどだけど、もちろんガラスケースはさらに大きくて、そのガラスケースを私は抱えて持ち上げてみた。ケースの底も一緒に持ち上がって、私はケースを一旦下に置いた。
どうやったらお人形さんを出せるのだろう……。
「――なにしてるの?」
いきなり、私は声をかけられた。
「びっくりした……」
お父さんが部屋から出てきていた。
「ねえお父さん、このお人形さんのケースの開け方ってわかる?」
「忘れたの? よく開けてるでしょ」
「わたしが……?」
不思議なことをお父さんは言った。
私がこれに触れたのは今日が初めてのはずだ。このお人形さんは、ずっとお母さんが自分の部屋に置いて管理していた。私はお人形さんが怖くて、お母さんの部屋に入ってもなるべく見ないようにしていたのに、ケースに触ったりなんかしない。
「私、これを開けたことなんてないよ。お兄ちゃんと間違えてるでしょ」
「月子は――」
と、お父さんは私の名前を言って、
「幼稚園の頃から、そのお人形さんとおままごとで遊んでいたじゃない」
「おままごと……?」
なんのことを言っているのかわからなかった。お人形さんのことが怖いのに、おままごとなんてしないと思う。
おままごと――。
もしも遊んだことがあっても、一度か二度か、すごく少ないはずだ。お人形さんは、顔も衣装も新品のように綺麗で艶がある。
「あ、ケースのカドに留め金があるよ」
お父さんがガラスケースを見てくれた。私もそこを見る。なるほど、ケースの端に留め金がある。
お父さんはトイレに行って、そして自分の部屋に帰ってしまった。私は一人でケースの留め金を外して、正面のガラスをドアのように開いた。
怖かったけど、恐る恐るケースの中に両腕を入れてみる。お人形さんを抱えて持ち上げてみたら、柔らかくて温かいドレスの感触。思ったよりもずっしりと重い。
カールのかかった長い金髪が手にふわりと触れた。香水のような良い香りがする。髪が動いて露出した背中に何かある。
――ナナ
と、細いマジックのようなもので書いてあった。黒い文字が少し布に滲んでいる。
「ナナ……?」
胸が激しく鼓動した。お人形さんの名前なのだろう。
「私の字……?」
そんなわけはない。でも、お父さんの字でもお兄ちゃんの字とも違う。お母さんの文字……?
物語が脳内をめぐった。
もしかしたら、私にはお姉さんか妹が居たのかもしれない。その子は赤ん坊のときに死んでしまって、私には内緒にされていた。身代わり人形とは、誰かの代わりということではないだろうか。お母さんは、このお人形さんをとても大切にしていた。
「あなたは、ナナ……ちゃん?」
もちろん、お人形さんは沈黙している。白くて小さなお人形さんの手をそっと握ってみる。
「ナナちゃん、こんにちは」
すると、
『こんにちは』
と、返事が返ってきた。
「え……?」
振り返っても誰もいない。私は首をひねった。お人形さんのコバルトブルーの瞳を見つめる。
「綺麗なお目々さん……」
もう、「おやすみ」の時間だ。「こんばんは」と言うところ、どうして私は「こんにちは」と声をかけたのだろう。きっと初めましての挨拶は、「こんばんは」よりも「こんにちは」の方が適切だと思ったからだ。自分の咄嗟の挨拶を、そのように分析した。
「ナナちゃん、こんばんは」
言い直してみると、
『こんばんは』
と、またお人形さんから返事が返ってきた。周りを見ても誰もいない。
「あなたがしゃべってるの……?」
『……ええ。寂しかったわ。わたくしを、こんなところに閉じ込めて、ずっと一人ぼっちにするなんて』
「ご、ごめんね。でも、ケースの中に入っている方が、いつまでも綺麗なままでいられると思うの。あなたはとても綺麗よ」
『――ありがとう。うふふ……やっぱり、わたくしも綺麗な方がいいですわ。わたくしにはガラスケースが必要ね。これは私のおうちでもあるのだから』
お人形さん……。ナナの手を握ったままで、私はその体をケースの中央に収めた。そして、手を離そうとすると、
『まって』
と、ナナが言った。
『月子ちゃん、忘れたの。あの合言葉を』
「私の名前を知ってるの? 合言葉って?」
『月子ちゃん、わたくしの手を、しっかり握っていてね』
「う、うん……」
ナナの小さな白い手を握り直す。木製だろうか。不思議と温もりがあり、気のせいか小さな脈動を指先に感じた。
『月子ちゃん、こう言うのよ。――また明日、と』
「ナナちゃん、また明日」
――ふっと、我に返った。
私はお人形さんの手を握って暗い玄関に佇んでいた。急に怖くなって、お人形さんがケースの中央に立っていることを確認して、慎重にガラスケースを閉じる。パチン、と留め金を元に戻して、私は玄関から逃げるように自分の部屋に戻った。
鳥のさえずりが聞こえる――。
私は玄関で目覚めた。
立ちっぱなしなのにちっとも疲れない。
「いってきまーす」
お父さんが眠そうな顔で玄関を出てゆく。
音がガラスで遮断されて、いつもより半分ほどしか聞こえない。時間が止まっているかのように空気が止まっている。ケースの中の温度は快適。快適なはずよ、ガラスケースの中だもの。ガラスケース……?
私はあの、お人形さんになってしまったようだ。
首が動かないから前方しか見えない。
でも、だんだんこれでいいような気がしてきた。力を抜いても倒れない。静かで埃も落ちて来ない。お腹は満ちている。暖かくて幸せな気分――。
「やっべ! やっべ!」
バタバタ足音がして、学生服のお兄ちゃんが慌てて玄関を出てゆく。続いて小学生らしい赤いランドセルを背負った女の子が廊下の向こうからやってきた。
「いってきます」
その子が、明るく私に手を振って玄関を出てゆく。扉が閉まり、がちゃがちゃ……と、鍵を閉じる音がして静寂が訪れた。
いってらっしゃい――。
ああ、誰もいなくなってしまった。あの女の子は私の姿をしていた。あれは、私と入れ替わったお人形さんなのだろうか。
なんて退屈なんだろう。今は何時? お昼の時報は、ガラスケースに入っていてもちゃんと聞こえるだろうか。窓から差し込む光から、まだ午前中ということがわかる。
永遠とも思われる時間が過ぎて、
「ただいま」
と、ようやく女の子が帰宅した。私の姿をした女の子……。
女の子は私が閉じ込められているガラスケースの留め金をがちゃりと外した。そして、その柔らかい手で私の手を握ってくれた。温かい……。
「こんにちは。寂しくなかった?」
『こ、こんにちは』
私は必死に挨拶を返した。もちろん人形だから口は動かない。心の中で一生懸命にしゃべる。
「――また明日」
女の子がそう言って、気付くと私は自分のベッドで寝ていた。
今のは夢――?
鏡を見ると、小学六年生の私に戻っていた。
ぼんやりする頭を抱えて玄関に様子を見に行く。身代わり人形がガラスケースの中にちゃんとある。時刻は夜の九時のようで、なにが起こったのかと必死に頭の中を整理してみた。
きょうの朝、目覚めると私は人形になっていた。人形で一日を過ごしたはずなのに、学校に行った記憶が私にはある。
漢字の書き取りテストが今日もあって、百点満点を取ることができた。それで先生に褒められて、
「きょうは居残りしないですむわね」
と、先生が笑っていた。
私が人形になったのは本当に夢だったのかもしれない。給食でレタスのマリネサラダが出て、あの酸っぱい嫌な味と匂いが鼻の奥に残っている。マリネサラダに入っている干しブドウのフニャっとした気持ち悪い歯ごたえ。酸っぱい匂いが目に染みて涙まで出てしまう。どうして、あんなものが給食のメニューにあるのかしら。
『うふふ……夢ではないのよ。もう一度、入れ替わってみる?』
「え?」
ナナの声が胸に響いた。
『月子ちゃんの心に直接話しかけているのよ。入れ替わりを一度すると、しばらくは私たちの心がつながったままになるの。私たちは、魂の姉妹になったのよ。手を握らなくても会話ができるの』
「魂の……。あなたは、私のお姉さんか妹なの?」
『本当の姉妹ではないのよ。入れ替わりをしたことで、心のつながりができたということよ。魂の姉妹というのは、ほんのわたくしのつたない表現』
「じゃあ、『ナナ』という名前は?」
『最初の持ち主がわたくしにそう名付けてくれたの。意味はしらないわ』
「もしかして、あなたはお母さん?」
私はナナに尋ねた。
お母さんが、お人形さんの中に入って、私に会いに来てくれたのかもしれない。
『残念ながら、わたくしはあなたのお母さんではないわ。あなたのお母さんは、わたくしを手に入れたとき、〈身代わり人形〉という名前も聞いていたのに、最後までわたくしの能力には気付かなかったようね。気付いていれば、わたくしと運命を入れ替えることもできたのに……』
やっぱり、ナナはお母さんではなかった。もしもと思って聞いただけだ。
「きょう、学校に行った記憶が私にあるの。入れ替わったとしたら変じゃない?」
『あれは、わたくしの記憶よ。きょう、学校に行ったのは確かにわたくし……。魂の姉妹となったわたくしとあなたは、記憶の共有ができるようになったの。わたくし、漢字のテストは得意ですのよ。百点満点を取って先生に褒められたのはわたくしよ。マリネサラダを頑張って食べたのもわたくし」
「そうだったの……」
『また、漢字テストのときは、わたくしが学校に行ってあげますわよ。体はあなただから、だあれも気づかない。マリネサラダが苦手なら、そのときもわたくしが学校に行ってあげますわよ」
「ほんとうに!」
ようやく、これがとてもラッキーなことだと気づいた。
人形で過ごすのは退屈だけれど、外気から守られているガラスケースの中は、羊水の中でふわふわするような気持ちの良さがある。たまにだったら代わりたいし、嫌なことを私の代わりにナナがやってくれるのなら、こんなに嬉しいことはない。ナナが学校に行っても、その体験を共有できるなら、次に私が学校に行っても困ることは何ひとつない。
『ただ――』
と、ナナが言った。
『人間の体はとても疲れるの……。今は半日ほどが限界ね。少しずつ慣らしていきましょう。そうすれば、何日だって続けて入れ替わっていられますのよ』
「やったあ!」
こうして、私はたびたびナナと入れ替わってもらうようになった。
算数の授業も私は苦手で、漢字を覚えることが大嫌い……。でも、ナナが学校に行って漢字を覚えてきて、人形となった私の手を握って体を入れ替えて元に戻すと、知識まで共有して漢字を覚えることができる。学校に行かなくても行ったことと同じで、すべての体験を私たちは共有する。
ただ問題は、人形になると、とても退屈なことだった。柔らかい日差しの中、ひなたぼっこをしているような怠惰な時間がとてもつらい。
それをナナに言うと、
『あなたの〈力〉を使えばいいのよ』
と、教えてくれた。
『あなたには、特別な力がありますのよ。忘れたい記憶を消し去る能力……。その力で退屈な時間を消してしまえばいいのよ』
「そんな力が私にあるの?」
『強く強く祈るのですよ……。そうすれば、嫌な記憶はなくなるのよ』
「ふーん……」
半信半疑だったけど、ナナの言ったことは本当だった。
私は自分の『力』を使って、退屈な時間を消去した。これで、人形にいつまでなっていても大丈夫だ。ただ、記憶を消すと、蘇ってくる記憶があった。実は私とナナは幼稚園の頃から仲良しで、おままごとを一緒にしただけではなく、いつも相談相手になってもらい、少し前まで私たちは親友だったことを思い出した。どうして私はその記憶を消去したのだろう――?
ナナに、その記憶のことを聞くと、
『わたくしとあなたは喧嘩をしたのよ』
と、含み笑いで教えてくれた。二人の喧嘩の嫌な記憶を、私は自分で消してしまったようだ。ひとつ記憶を消すと、古い記憶がひとつ蘇って、私たちのことを次々と思い出していった。
「――かったるいけど、行ってくるね」
私は久しぶりに登校することにした。
『いってらっしゃい』
玄関で佇むナナの声が胸にひびく。
最初の入れ替わりの頃は半日ほどが限界だった。けれど、近頃は数日間入れ替わっても問題がない。私はほとんど学校へ行かなくなっていた。
それでも一週間に一度は登校する。真面目だなあ……と、自分のことを思った。だってナナに入れ替わって貰えば、ガラスケースの中でぼんやり考え事をして日中を過ごせて、我慢できないほど退屈なときは、『力』で退屈な記憶を消してしまえばいい。
登校の日、友達の希美華ちゃんが、
「面白かったね、あの映画!」
と、昼休みに私の机に来て、瞳をきらきらさせて言った。
「そ、そうね……」
私は無理やり口角を上げて話に付き合った。何の映画の話をしているのやら……。
「月ちゃん、忘れちゃった? 先週の日曜日に一緒に行った映画のことよ。月ちゃんたら、チョコレートパフェとフルーツパフェの両方を頼むんだもの、驚いちゃった」
「ああ、あのことね……」
「また、あのカフェに行こうね!」
「う、うん」
先週の日曜日は、ナナが私の体に入っていた。町内の子供会で、朝から公園の草刈りがあるというので、そんなものに出られるか……と、ナナに行ってもらったのだけど、どうやら違うようだ。
家に帰って、私は「ただいま」の挨拶を省いてナナに抗議した。
「ナナちゃん、日曜日に映画に行ったの? そのあとにカフェに入ったの? どうりでお財布のお金が少ないと思った」
『――わたくしだって、たまには息抜きがしたいのよ』
悪びれずにナナは言う。
「息抜きはしてもいいけど、秘密はやめて。全部の記憶を共有できるんじゃないのね」
『うふふ……』
ナナの笑い声が胸にひびき、
『だって、あの映画、とっても面白かったんですもの。素敵なロマンスだったわ……。あの映画は、自分の五感で体験するものよ。私が記憶をあなたと共有したら、結末がわかって映画をもう楽しめないでしょ?』
「そうだけどさぁ、次からはそういう記憶も私に送ってね。だって、友達と話が合わないと困るじゃない」
『わかったわ。せっかく月子ちゃんのためにやったことなのに』
「それは嬉しいけど……」
なんとなく、私は納得してしまった。共有したはずの草刈りの記憶も私にはなかった。それなのに、私はナナの行動の不審さに気づいていなかった。
『さあ、月子ちゃん、久しぶりに学校に行って疲れたでしょ? 宿題はわたくしがしますから、月子ちゃんはガラスケースの中でくつろいでいて』
「いいの?」
『さあ、わたくしの手を握って、合言葉を……』
「また明日。――」
私は、人形となった。
すでにナナが私の体を使う時間の方がずっと長くなっている。
とにかく、ガラスケースの中が楽なのだ。ナナに言われなくても、私は早く代わってもらいたかった。どうせ記憶を共有できるから、私の体をどちらが使っても同じこと。
――そして、その入れ替わりを最後に、私はずっとガラスケースの中に閉じ込められることになった。
考えてみればおかしかった。
今から考えると、ナナは必死に私をなだめてすかして、私の体に入りたがっていた。入れ替わりを行うたびにその時間は伸びて、ついにナナは入れ替わったままでも、ずっと私で過ごせるようになった。燃料を使いきって切り離されたロケットのように、私は用済みで捨てられたのだ。
体をナナに乗っ取られた。
ナナはもう、玄関を通っても、人形となった私を無視して通り過ぎる。永遠とも言える退屈な時間が過ぎてゆく――。
私は記憶を消すことで、その退屈な時間を耐えた。どんなに辛い時間でも、忘れてしまえば無かったことになる……。
「――ただいま」
ナナが帰宅した。
玄関を素通りして私に視線もくれない。
冷蔵庫を開ける音が向こうでして、アイスキャンディーを咥えたナナが戻ってきた。
「あなたは甘いものが好きだから、このアイスを食べたいよね?」
久しぶりに私に話しかけてくれた。ああ、私もアイスキャンディーが食べたい……。
「あなたに恨みはないけど」
と、ナナはアイスキャンディーを舐めながら、
「これはもう、しょうがないの。あなたはもう、ずっとそのままで居るべきよ」
ナナは私の前でアイスキャンディーを食べきった。わざわざ私の前で食べるなんて……。
早く私の体を返して!
私の手を握って体を入れ替えて!
合言葉は忘れてない? 合言葉は『また明日』よ――!
ナナは食べ終わったアイスキャンディーの棒を、指揮棒のように楽しそうに振る。
「うふふ……。きょうはね、お父さんがカレーライスを作ってくれるんだって。ケーキも買ってきてくれるのよ。ケーキには私の名前も入ってるんだって。プレゼントはなにかしら? フンフンフーン」
鼻歌を歌って、スキップをしながらナナが向こうに行ってしまった。お父さんは、私のお父さんなのに……。ゆるさない。ゆるさない。今日は私の十二回目の誕生日なのに――。
夜になった。リビングから、家族のだんらんの笑い声が聞こえている。私もお父さんのカレーが食べたかった。せめて記憶を共有してほしい……。プレゼントは何だったのだろう。一人ぼっちで玄関に佇み続けるしか方法がない。
しばらくして、玄関の明かりが灯って、ナナが私の前に現れた。
「大丈夫?」
ナナはガラスケースの中を覗くようにして声をかけてくれた。私、大丈夫じゃないかも……。
「あなたと心が離れたみたい。もう私たちは別々よ。ようやく私は外に出られた」
ナナちゃん、何を言ってるの? やっぱりもう、入れ替わってくれないの? 私はずっとこのガラスケースの中に閉じ込められたままなの?
「ナナちゃんは、あなたなのよ」
え……?
「あなたが本当のナナちゃん。私を人形にしてガラスケースに閉じ込めて、人形だった自分の記憶を消して私に成りすましていた。でも、人形だった自分の記憶を全部消したのは間違いだったわね。記憶を消せば、人間になれると思ったの?」
うそ……。私が本当のナナなの?
「だって、おかしいと思わない? 記憶を消せる能力なんて人間にあるわけないじゃない。私はあなたの手を使って、あなたのふりをして入れ替わることに成功した……。あなたの真似は難しくなかったわ。だって、あなたと記憶を共有したんだもの。私はなんでもあなたのことを知っている……。悪く思わないでね。もともと、私を騙して入れ替わったのはナナちゃん、あなただったのだから」
――ああ、そうだったわね。
ちかごろは蘇る記憶が多くて、本当は思い出していたのよ。わたくしが本当のナナ……。月子ちゃんに成りきろうとしたのに、最後に失敗してしまった。
月子ちゃん、月子ちゃん。――
途切れてゆく絆を、必死にわたくしはたぐり寄せようとした。もう、月子ちゃんにはわたくしの声が届いていないのかしら。
「――なに?」
わたくしの声がかすかに届いたようで、月子ちゃんが返事をしてくれた。
『ねえ月子ちゃん、わたくしの最後のお願いを聞いてくれるかしら? 願わくば、わたくしを誰かに贈ってちょうだい。そう、あなたと同じくらいの女の子がいいわね。ね、月子ちゃんそうして。あなただって、わたくしがどこかで元気に過ごしている方がいいでしょ? だって、一度は魂の姉妹になれたのですもの。それに、わたくしたちは親友でしょ? おままごともいっぱいしたわよね』
少し考えるような間を取り、月子ちゃんが、
「……うん」
と、ゆっくりと首肯した。
そうよね、わたくしを捨てるなんてしないわよね。ああ、今度の家にはどんな子がいるのかしら。だいじょうぶ、今度は上手くやるわ。わたくしだって、ずっと昔は本物の人間だったのですもの。
早く人間の体を取り戻したい……。
待っていて、お人好しの娘さん……。私と魂の姉妹になりましょう。人間になれたら月子ちゃんに会いにくるから、今度は本当のお友達になりましょうね。――〈了〉