名無し
「……そういうことしないの?」
「それは、セックスのことか?」
ベッドに腰掛けた少女はこくりと頷いた。男は少女の顔を覗き込み、髪をくしゃくしゃと撫で付け、そうして大きく笑うのだった。
「深刻な問題だな」
少女は男のどこか澱んだ目を見返して、首を傾げる。また男は笑って「おめぇみてえな貧相なガキには勃つもんも勃たねぇんだよ」そう言って、使い古した二人掛けのソファに大きな体を横たえて男は眠りにつくのだった。
少女は自分のその男曰く貧相な体を見て、「そういうものなのか」などと思った。
でも、じゃあ何故男は少女を此処に置いたのだろうか。男にはなんの得も無い。
ベッドの上で膝を抱えて、男の眠るソファを少し睨むように見てみる。男の足は大きくはみ出していて、どうにも居心地の良さそうな寝床には見えなかった。
ほんの些細なきっかけで、家出をした。
当たり前のような日々がなにとなく過ぎていく、それでも自分らしく頑張って日々をこなして生きてきた。そのはずなのにある日の母のいつもの大丈夫じゃない大丈夫の笑顔が胸の奥の奥底を、力強く蹴飛ばしたのだ。
それから家を飛び出した。
なんてことのない、そのはずだったのに。
朝が来て、それからまた夜が来て。三日ほどそうして日々が過ぎ、それでもやはりたいして日々は変わらないままだった。
「…今日もしなくていいの?」
男は気怠げな目をじとりと向けて、私の頬を両手で摘む。
「…今日こそ帰らなくていいのか?」
「いひゃいれす」
頬から手を離すと頭をバシッと叩いて、大きく溜息を吐く。
男は私をベッドに横たえて、先ほど摘んで軽く赤くなった頬を摩りながら、少し煙草の匂いのする顔を近づけて来た。
ぎしりと軋む音に心臓が震え始める。とうとう少女は"汚れ"を知るのだろうか、そう思い力強く瞼を閉じる。骨ばった背中が汗ばむのを感じた。
「ほら、目開けろ」
いつの間にか電池切れしていた携帯、そしていつの間にか充電されていた携帯。
それを枕元から取り出した男は少女が目を逸らさないように、近すぎるほどにたくさんの着信履歴のある画面を見せつけた。
もちろんそれは全て少女の母親からのものだった。
家を飛び出してから携帯が鳴り続けてるのは知っていた。耳と心を塞いで、聞こえないふりをしていた。そうしていつしか聞こえなくなっていた。
視界に入れた途端、急に胸が苦しくなって嗚咽が溢れるほどに喚き散らした。
「ようやっと弱音吐きよったな」
未だに名前を知らないその男は私の全てを見透かしたように溜息を吐いた。
大丈夫じゃないのは少女もまた同じだったのだ。
「今すぐ帰れ、此処はお前が居るべき場所じゃねぇ」
少女の体を起こし髪をぐしゃぐしゃにして、そして男は大きな顔をくしゃくしゃにして笑った。
少女もつられて笑った、泣きながら笑った。
少女は決心する。胸の内を、心の臓を母に打ち明けよう。喚き散らして、そうして分かち合おう。
それからたくさん感謝しよう。優しさとくしゃっと笑う顔と、そしてあの煙草の匂いに。名前の知らないこの男に。