第4章(2)/15
絶え間なく流動する波に飲まれて、底なしの沼の中に落ちてゆく1枚のコインのように、田中は朦朧とする意識の底へと沈んでいった。全身の感覚がなく、なんとか腕を沼の上のほうへと伸ばそうとしても、本当に動いているのか、それとも動いていないのか、ということすら感じられない。
真っ暗な沼の中にいるのに、沈んでゆく自分の姿は見えていた。夢なのだ、と気がついた。体中がだるかった。軽い吐き気もする。夢だったらすぐに抜け出せるはずなのに、田中は、泥沼の中から体を起こすことができなかった。
まとわりつく倦怠感が拭い取れないことを知ると、田中は次にじわじわと心の底から恐怖が沸いてくるのを覚えた。
ここはどこなのか。
自分は今どういう状況にあるんだ。
後ろから押さえつけたあの腕は誰だったんだ。
蛇のようにしなり、薄ら寒くなるような、あの無感情で冷たい腕には既視感があった。1度だけじゃない。田中は幾度となくあの腕を、あの腕の持ち主と会っていた。
"あいつ"だ。あいつに見張られていたのだ。
田中は自分の馬鹿さ加減に嫌気が差した。
迂闊だった。少し頭を使えば分かったことだろうに。平日のそれも昼間に出てくるはずがないと思って油断でもしてたのだろうか。それにしたって、せめて人影のない通りにくれば用心してもおかしくなかったのに。
危険を無くすためなら、私は手を抜かない。
あいつはそう言った。俺の目の前でだ。堂本が失踪して、それから初めていつもの場所で会おうという連絡が来た時だ。
あいつと会う場所は、いつだって人気のない酒場だった。そのためだけに、俺はいつも都心の外れまで、眠気からくる頭痛をこらえて、深夜に車を走らせなければならなかった。だから、会うときはいつだって疲れきっていて、頭が重いのを感じながら話した。俺はそれ以上に、あいつと会うことに疲れを感じていた。はじめのうちは違かった。それこそ不安と猜疑心とでとても気を抜いてなんていられなかったからだ。
慣れを感じてきたのは、いつからか分からない、計画が成功して、それからだろうか。そうしているうちにだんだんとスリルと恐怖が消えて、それまで身を潜めていた疲ればかりが表れるようになった。自分のしていることが途方もなくあほらしく思えてきた。
だから俺はあいつに、これ以上は止めたほうがいい、手を引けと勧めた。実際計画には行きづまりが見えてきていた。けれど、あいつはいつも自分の要件を伝えるだけで、俺の意見を聞こうとすることはなかった。
私に任しさえすれば万事大丈夫だ。変な口出しはしなくてもいい。私はいうなればプロだぞ。失敗はない。
あいつは、そう言った。
もしあのとき、俺があいつにとって掌の中で転がすだけのただの駒でしかないということに気づいて、何もかも終わらせてさえいれば。
だが、後悔してももう遅かった。
夢は醒めない。田中は一瞬まどろんで、次に意識が浮かび上がった時には、まったく別の光景の前に立っていた。
10歳の頃の田中が、小さな体を丸めて、布団の中で震えていた。冬でもないのに全身が凍りつくように寒かった。
30年以上昔のことだ。それなのに、夢の中の映像と感触は、空恐ろしくなるほどに鮮明だった。
隣の部屋では、父が大声で何かを叫んでいた。早口の怒鳴り声が部屋を震わし、ときどき物にこぶしの叩きつけられる音がし、張り手が空気を裂いた。母もまた半狂乱に何かを叫び、涙交じりの声で必死に父の話の間に割り込もうとしていた。
狂ってる。
二人とも狂ってる。
田中はわけの分からないことでわめき続ける両親の声を聞きながら、半ば絶望的につぶやいた。
もう1ヶ月近くが、ずっとこの調子だった。
親父がずっと家にいるようになったのも1ヶ月前だった。それまでは昼は会社に行っていて、12時近くならないと帰ってこなかった親父が、時たま家を留守にしてゆくだけで、それ以外の時間はテレビを見たり、自室で書類に向かって何かをしているようになったのだ。仕事をしているのかと思って食事の席で聞くと、親父は怒ったように黙り込んで何の返事もしなかった。頑固な性格で、本人にとっていやなことを尋ねられると何もしゃべってくれないのはいつものことだったから、それ以上無理に聞こうとはしなかった。
一日中不機嫌で、特に、外から帰ってきたときには近寄りがたいほどの険悪な雰囲気を発していた。そういう時は必ずお袋と喧嘩をするので、田中は早々に親父のいる居間から離れて自分の部屋に引き下がることにしていた。それでも今日みたいに逃げ損ねてとばっちりに殴られることがあった。
子供心にも、親父が失業したことは察せられた。
二人が怒鳴り散らすいくつかのわけの分からない単語も、仕事や将来についてのものなのだと思った。




