第4章(1)/15
3月11日
田中は一人、会議室の窓際に寄りかかっていた。昼下がりの曇り空、窓の外からは威勢のいい車の滑走音ばかりが聞こえてくる。
何もかもがもう、取り返しのつかないところまで来てしまった。これこそが、本当のどん詰まりだ。
俺は人生を間違えたのだろうか。やろうと思ったならもっと別のまともな生き方だって選べたはずだ。俺はその全てを蹴って、今日この日にまでたどり着いてしまった。何をどこで間違えたのかなんてことじゃない。どれか一つ、ではないのだ。選択肢一つ一つは、言うなれば全てが間違いでもあり、正解でもあった。そして、田中の場合はたまたま、その組み合わせが悪くて、こうなってしまったのだ。
役員6人には黙って、警察に自首してくるしかない。6人にとっても、俺にとっても、唯一残された最善の方法はただそれだけだ。
田中は部屋を出た。廊下には誰もいない。そのまま、何事もないような様子を装って、田中は会社を後にした。
外は、曇り空でも十分に明るかった。その光を浴びて乳白色に輝くビルの壁や舗装を眺めていると、自分の今住んでいる世界が何もかも嘘であるかのようだった。
忙しく行き交う人ごみの中を、ただ一人、ぼんやりと進んでゆくうちに、田中には、自分の人生がひどく喜劇じみたものに思えてきた。めかしこんだ観客が、満席になったホールで座席に背中をかけながら、主人公の馬鹿な振る舞いを見て、その日の鬱憤を吹き飛ばそうと笑い声を上げる喜劇の席。俺はその主人公の役を演じて、観客を笑わせている。観客の笑っている表情までが目に浮かんでくるかのようだった。ストーリーは順調に進んでいた。生まれて、子供から始まり、青年になり、それから少しぬけている大人になった。いくつもの茶番を繰り返して、これでもかと笑いを誘って会場を盛り上げた。劇はもう既にクライマックスへと近づいている。最後のどんでん返し、主人公は誰もが予想していなかったハッピーエンドを迎えることになってる。だが突然、舞台監督は主人公にこう告げた。
ハッピーエンド?何をほざいてるんだ。そんなものは用意してないぞ。お前が最期に演じるのは、無残な死に様だ。ほら、観客が待ってるから、さっさと行け。
俺は監督に舞台裏から突き飛ばされて、ステージの上に尻餅をついた。観客はそんな俺の姿がおかしかしくて大きな声で笑ったが、すぐにやんだ。期待するようなまなざしが、俺の顔に集まっている。俺はそのときようやく、舞台の真ん中に断頭台の刃がスポットライトを浴びて輝いていることに気がついた。
行かなければいけないのか?俺は無言で監督に問いかけた。彼もまた無言で、行けと言い返した。俺は観客の好奇の視線のさなか、おぼつかない足取りでよろめきながら、舞台の中央へと向かった。俺は観客席を返り見た。皆、何も言わずに最後のクライマックスで俺が首を切り落とされるのを待ち構えていた。ステージの上には、俺以外には誰もいない。死刑囚を断頭台へと引きずっていくはずの刑務官も、断頭台の刃を落とすはずの死刑執行人もいない。それなのに俺は自ら断頭台のもとへと行かなければならなかった。ここまで演じてきたというのに、いまさらやめることなんて出来ない。
田中は騒がしい歩道の真ん中で、突如立ち止まった。会場に溢れんばかりにいた観客も、舞台裏から田中を見つめていた監督も、物言わずに置かれていた断頭台もそこにはなかった。
あと10分も歩けば、交番に着く。田中は小さく首を振った。あんな馬鹿らしい妄想など、いつもはしないのに、今日は本当にどうかしている。
田中は自分に言い聞かせて、自首することなんてなんでもないと、無理やりに歩を進めた。
これが、最善の手段。最後の、せめてもの抵抗。そして堂本への償いなのだ。あいつのとって、こうすることが本当に供養になるのかは知らない。けれども、これが、田中に出来ることの限界だった。だから今こうして歩いているのだった。迷いもない。恐怖も、この足を止めてしまうほどではない。歩くしかないのだ。
田中は人の流れをぬって進み続けた。車道を抜け、踏切を渡り、ひと気のない道もひたすら進み続けた。
そして、ついに交番を目にした。いや、目にしたと思った。
あと一角曲がればたどり着くというところで、田中ははたと後ろに人の気配を感じて後ろを振り返った。だが、蛇のように伸びてきたその手が正面を向くよりも先に田中の口を押さえつけて、ハンカチを持った掌を押し付けた。
(お前は・・・)
声を上げるより前に、田中は意識を失っていた。そして、突然押し寄せた眠気に飲み込まれて、地面に崩れ落ちていた。
これから約2週間の間、学校の行事で家を留守にするのと、テスト週間が入るので、更新が滞ります。ご了承ください。




