第1章(2)/1
「もっとよく見せろ!」
声はどうやら廊下のほうから響いているらしかった。同じ階か、それとも別の階だろうか。反響していて、それもドア越しにくぐもって聞こえているのでよく分からなかった。ロイヤルマンション坂田に引っ越してからもう5年になるけれど、喧嘩や暴動のような騒ぎをお目にかかったことは今まで一度もない。一輝は気になって耳を傾けた。いったい誰がさけんでいるのだろう?
耳を澄ますと、小走りで外の廊下を踏み鳴らす音が聞こえてきた。ずいぶんと乱暴な印象を受ける。
足音が消えて何の音も聞こえてこなくなった。
おそらく、「もっとよく見せろ!」と怒鳴った声の主が、今まさに「よく見せ」てもらっているところなのだろう。
しばらくの間沈黙が続いた。一輝はずっと耳を澄ませていたが、外からは物音一つ聞こえてこない。予習を片付けなければならないことを思い出し、粘るのを諦めてて机に向かおうとした、次の瞬間、さっきと同じ男の声が廊下いっぱいに響いた。
「こんなことをしたって無駄だぞ!」
再び沈黙が流れる。
「あの人は今日来れない!」
誰と話しているのだろう。一方の男の声ばかりが大きくて、相手の声が聞き取れない。だけど、会話をしているのは確かだった。
クソッという悪態に続いて男の駆け足の音が響いた。足音から男のあせりや不安が伝わってくるかのような、あわてた、せわしない靴音が廊下を叩き、それがだんだんと小さくなってついに聞こえなくなった。どこかに行ってしまったようだ。
廊下から聞こえてくるのは、後に残されたもう一人の人物の足音だけだった。その人物がどこに行くのか多少気になったけれど、勉強を放り出してまでする必要があることとは思わなかった。一輝は机の前に居直って、ノートに手をつけた。
突然、玄関のドアが開いた。
「ただいま」
父さんの声だ。一輝は弾かれたように玄関の方向を向き、ぼうぜんと壁のむこうを見た。廊下から足音は聞こえてこない。0だ。1−0=1。1は父さんだったのだ。
どうしたのさっきの、と問い質す母さんの声が聞こえた。なんでもない、と返した返事はひどく疲れているようだった。
一輝の父、青島真二は、横須証券という証券会社の社員を勤めていた。よくは知らされていないが、重役を勤めていて、このマンションに引っ越そうと言い出したのもほかならぬ父さんだった。どうせ引っ越すのなら東京のほうがいい、という母さんの反対も押しのけて決められたらしい。今に至っても、一輝は千葉県の一角に住居を構えた理由を聞いていないし、何度聞いても二人はそのことについて話してくれなかった。
常に落ち着いて、それでいて冷たい雰囲気を持つ父親だった。少なくとも一輝はそうだと思っていた。一緒に公園や旅行に言った記憶はほとんどない。もっとも、父さんと近くにいる機会が少なかったのは仕事が忙しかったせいでもある。
それにしてもさっきの男は何だったんだろうか。しゃべり方からしても、あの足音の雰囲気からしてもあの男が素行の良い一人前の男とは言いがたかった。それだけではない。父さんもまたそのような男を黙らせ、取り乱させ、あわてて退散させるだけの何かをしていた。金銭関係か、仕事の関係か、単なる因縁か、それとも女性関係だろうか?最後の一つは無いな、と思い、すぐに懸案項目から外したが、どれにしたって、男のあのあわてきった態度を説明することはできていなかった。
一輝が一人想像を膨らましている間に、真二は自分の部屋に引き下がってしまっていた。
部屋の扉がバタンと音を立てて閉まった。




