予章(4)
「・・・・証拠を消すんだ」
小暮は頑として言い張った。
田中は小暮の目をじっと見つめていたが、何も言わなかった。この人は決して自分の意見を曲げたりしないだろう。末端の一社員である自分でさえもそれはよく分かっていた。横須商券のニ代目社長の座に着いたときから、今までもずっとそうだったのだ。
「こんなことをしているようだから、いつまでたってもこの会社は先代の頃よりも大きくなれないんじゃないですか」
「なんだと!」
小暮が立ち上がらんばかりの勢いですごんだ。
言ってしまってから後悔したが、どうしようもなかった。田中はすごい剣幕でにらみつける小暮の目を、なるべく毅然として見えるように睨み返した。
「やめてください」あわてて橋元が止めに入った。
小暮は黙ったが、じっとにらみつけるのだけはやめようとしなかった。
前社長が胃がんで倒れた直後に急きょ後継者へと抜擢されたのが、当時総務を務めていた小暮久則だった。56歳という年齢にもかかわらず、社員の誰よりもエネルギッシュで、商売意欲ならば誰にだって引けをとらない。その反面、他人の意見を受け入れる柔軟性と寛容さに欠けているという欠点はあった。いや、自意識過剰だったといったほうがいいかもしれない。実力が伴っているがゆえに、その自信には鉄壁の要塞のような揺るがなさがあり、総務職についたときからすでに人と手を組んで仕事をすることを避ける傾向があったらしく、5年前に社長の椅子についてからはその性格に拍車がかかった。
「そうだ」突然、小暮が言い放った。「君の言い分はよく分かった。では、てっとり早い話ここで多数決を取ればいいじゃないか」
真二は愕然として息を吸い込んだ。もう決めてしまうというのか。
「手を上げるのは今ここにいる7人だ」
「しかし多数決とは・・・・」
堀口は何か言おうとしたが、次の言葉が思い浮かばずに口をつぐんだ。
「意見がありますか、堀口代表?」
「あ・・・・」
堀口はYESともNOともつかずに口をパクパクさせたが、結局、何も言わずに口を閉ざしてしまった。
「君は構わないか、田中君」
「ええ、構いません」
「反対の人はいますか?」
不気味な沈黙が流れる。全員が体を固めたまま、口を開こうとしなかった。
どうして皆黙っているんだ?本当にこのまま全てを決めてしまってもいいのか?これから自分の運命が決定されてしまうかもしれないというのに、どうして誰も何も言おうとしないんだ?
「では、自首することに賛成の者は、挙手」
田中が手を挙げた。
俺は一体どうしたらいいんだ?田中の言っていることは正しい。むやみに策を弄しても、状況がよくなるわけじゃない。それは分かってる。けれども、この俺にいまさら逃げ出す資格などあるのか。全てを始めるきっかけとなった俺が逃げ出して、巻き添えを食らった奴らを置き去りにするなんてことが果たして許されるのだろうか。
そのとき、橋元の手が上がった。
辺りの空気が凍りついた。小暮が、私たちの味方じゃなかったのかという表情で堀口の方を見た。
数秒後、浅井の手がゆっくりと上げられた。
小暮の顔からわずかに赤みが引いていった。3人の手が挙がっている。
どうしたらいい。上げてもいいのか、いけないのか?自首するのか、それとも全てを隠しとおすのか?しかし、答えは誰からも返ってこなかった。真二は自分が孤独なのを感じた。
1時間も2時間も時間の経ったような気がした。あらゆる物が止まっていた。鼓膜の下に、心臓の規則正しい鼓動が伝わっていた。体を動かすことができない。真二は不意に、電話口で青い封筒を片手に立ち尽くす自分の姿を思い出した。何もかも、あの時と同じだ。あれだけの後悔の後で、自分は何一つ変わってない。警告もできなければ、ただ手を上げるということさえできないのだ。
やがて小暮がゆっくりと口を開いた。
「3人だ」
力がすっかり抜け落ちたみたいに、田中はパタリと腕を垂らした。橋元の手が、静かに下げられた。
「経営の継続に賛成の者は挙手」
4人の手がいっせいに上がった。
「経営を継続する。これで決定だ」
小暮は厳粛に言い切って、田中のほうを見上げた。全てが決まった。俺と、ここにいる6人と、横須証券の運命はいま決定された。
田中は表情をなくして遠く向うを見つめていた。真二はその瞳の中に妖しげな光を見たような気がした。
「これで解散とする」
いつもの硬い表情で、小暮は立ち上がった。堀口が、谷屋が、そして浅井と高橋もうつむきながら立ち上がり、真二はそれに続いた。一人、また一人と重役たちは部屋を後にし、最後に1人立ちすくむ田中に一瞥をくれてから真二も部屋を出て行った。
背中の後ろで、会議室のドアが音を立てて閉まった。




